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時計の針が、23 時 30分を指した。
部屋の中は、エアコンの静かな風音と、七海の寝息だけが流れている。
その静けさの中で、里玖は海斗を見つめている。泣き出しそうな顔で、でも必死に笑顔になろうとしている。
「……そろそろ行くわ」
その一言を口にするまでに、海斗は何度も逡巡した。やっとのこと言葉にした瞬間、大事な何かを自ら引き裂いた痛みが確かにあった。
立ち上がった海斗は、背中に柔らかい重みを感じた。
「行かんどいて」
背中から回された腕は細いのに、驚くほど強かった。
「私を一人にせんで……海斗」
「里玖……」
海斗は動けなかった。里玖の額が背中に触れ、震えが伝わってくる。
しばらく、二人はそのまま立ち尽くした。時間が止まってほしい――同じ思いを抱いていた。
「……て、ごめんね」
涙をぬぐいながら体を離したのは里玖からだった。
「行きたくないのは、海斗のほうなのに……」
里玖は、新しい涙を流しながらも、言った。
「海斗……大好きだよ」
その顔を見てしまったら海斗も、もう涙を止めることはできない。自らの頬を温かい涙が何筋も伝うのを感じた。
「俺も。里玖と出会えて……幸せやった」
「私も、海斗に会えてよかった」
幸せなまま、二人で生きたかった。二人で年を取っていきたかった。いや、もしたとえ不幸が待っているとしても、二人で乗り越えたかった。
でも海斗は、里玖を一人で置いていかなくてはならない。里玖の未来に、海斗は二度と寄り添えないのだ。
「……里玖。俺がいなくなっても……幸せになれよ」
里玖は笑顔のまま、また、ぽろぽろと涙をこぼした。
「それは無理……」
里玖は首を振り、唇を噛んだ。
「海斗のバカ」
そして、もう一度しがみついてきた。しがみつきながら海斗のバカ、バカと、胸をたたいた。
叩かれる胸板の痛みが、海斗には“生きている証”のように感じられた。
そして里玖にとっても、その弾力こそが“海斗がまだここにいる証”だった。
―― 23 時 40 分。
スマホが震え、着信音が鳴った。タクシーが到着したのだ。
「……行って」
里玖は泣きながら言った。
「里玖……ごめん」
里玖は首を横にぶんぶん振った。
海斗は後ろ髪を引かれるように、何度も振り返りながら玄関へ向かった。
靴を履き、ドアノブに手をかけた、その瞬間――
「海斗」
「えっ」
それは一瞬だった。頬に一瞬柔らかい感触。里玖が海斗の頬に口づけを残したのだ。
「……バイバイ、海斗」
気が付くと、里玖は体を離して、涙を流しながら小さく手を振っていた。
「里玖……」
「ほら、行って。タクシー待っとるけん」
里玖は海斗の背中を押した。
海斗は振り返り、振り返り、階段を下りていく。強力な磁石のような未練が海斗を繰り返し振り返らせる。
ようやく、タクシーに乗り込む直前。
「海斗!」
呼ばれて見上げると、里玖が階段の踊り場から身を乗り出して手を振っていた。
海斗はあふれる涙を手で拭い、震える手で、ゆっくりと振り返した。
――さよなら。里玖。
走り出したタクシーの中で、海斗は声を立てないように泣いた。
窓の外の夜景が、涙でぼやけて流れていく。
それを遮るようにゆっくり目を閉じる。最後の瞬間まで里玖を思い出していたかった。
里玖は、タクシーが見えなくなるまで見送った。涙をぬぐうこともせずに。
(行っちゃった……)
夜空に向かって、ひとつため息をつく。北側の空からは満月は見えない。
コンクリの階段を上がる足が重い。サンダルがパタ、パタ、と音を立てる。
部屋に戻ると、海斗が口にしたペアのマグカップが、テーブルにそのまま残っていた。
里玖は海斗が座っていた席に座り、マグカップを両手で包み込むようにして――また泣いた。スマホの時刻を見る。
今、23 時 53 分。海斗はまだ海斗。
里玖は、すっかり冷めた紅茶を海斗のマグカップで口にした。
部屋のどこかから聞こえる、時計の秒針の音が、海斗の命を削っていく音のように思える。
里玖は、息を殺して、やがてくるその時を恐れた。
と、七海が寝返りをうち、タオルケットをはねのける。
里玖はそっとかけ直し、額をなでた。
そして。握りしめていたスマホの中で、時計が、午前零時を告げた。
世界から、海斗という存在が消えてしまったのだと思った。
――さよなら。海斗。
里玖はぎゅっと目をつむった……。
それから3分もしないうちに、握りしめたスマホからメッセージの通知音が鳴った。
まさか。はやる心で、里玖はメッセージアプリを開いた。朝倉祥生の表示。
-『海斗です。まだ生きてるんだけど』
部屋の中は、エアコンの静かな風音と、七海の寝息だけが流れている。
その静けさの中で、里玖は海斗を見つめている。泣き出しそうな顔で、でも必死に笑顔になろうとしている。
「……そろそろ行くわ」
その一言を口にするまでに、海斗は何度も逡巡した。やっとのこと言葉にした瞬間、大事な何かを自ら引き裂いた痛みが確かにあった。
立ち上がった海斗は、背中に柔らかい重みを感じた。
「行かんどいて」
背中から回された腕は細いのに、驚くほど強かった。
「私を一人にせんで……海斗」
「里玖……」
海斗は動けなかった。里玖の額が背中に触れ、震えが伝わってくる。
しばらく、二人はそのまま立ち尽くした。時間が止まってほしい――同じ思いを抱いていた。
「……て、ごめんね」
涙をぬぐいながら体を離したのは里玖からだった。
「行きたくないのは、海斗のほうなのに……」
里玖は、新しい涙を流しながらも、言った。
「海斗……大好きだよ」
その顔を見てしまったら海斗も、もう涙を止めることはできない。自らの頬を温かい涙が何筋も伝うのを感じた。
「俺も。里玖と出会えて……幸せやった」
「私も、海斗に会えてよかった」
幸せなまま、二人で生きたかった。二人で年を取っていきたかった。いや、もしたとえ不幸が待っているとしても、二人で乗り越えたかった。
でも海斗は、里玖を一人で置いていかなくてはならない。里玖の未来に、海斗は二度と寄り添えないのだ。
「……里玖。俺がいなくなっても……幸せになれよ」
里玖は笑顔のまま、また、ぽろぽろと涙をこぼした。
「それは無理……」
里玖は首を振り、唇を噛んだ。
「海斗のバカ」
そして、もう一度しがみついてきた。しがみつきながら海斗のバカ、バカと、胸をたたいた。
叩かれる胸板の痛みが、海斗には“生きている証”のように感じられた。
そして里玖にとっても、その弾力こそが“海斗がまだここにいる証”だった。
―― 23 時 40 分。
スマホが震え、着信音が鳴った。タクシーが到着したのだ。
「……行って」
里玖は泣きながら言った。
「里玖……ごめん」
里玖は首を横にぶんぶん振った。
海斗は後ろ髪を引かれるように、何度も振り返りながら玄関へ向かった。
靴を履き、ドアノブに手をかけた、その瞬間――
「海斗」
「えっ」
それは一瞬だった。頬に一瞬柔らかい感触。里玖が海斗の頬に口づけを残したのだ。
「……バイバイ、海斗」
気が付くと、里玖は体を離して、涙を流しながら小さく手を振っていた。
「里玖……」
「ほら、行って。タクシー待っとるけん」
里玖は海斗の背中を押した。
海斗は振り返り、振り返り、階段を下りていく。強力な磁石のような未練が海斗を繰り返し振り返らせる。
ようやく、タクシーに乗り込む直前。
「海斗!」
呼ばれて見上げると、里玖が階段の踊り場から身を乗り出して手を振っていた。
海斗はあふれる涙を手で拭い、震える手で、ゆっくりと振り返した。
――さよなら。里玖。
走り出したタクシーの中で、海斗は声を立てないように泣いた。
窓の外の夜景が、涙でぼやけて流れていく。
それを遮るようにゆっくり目を閉じる。最後の瞬間まで里玖を思い出していたかった。
里玖は、タクシーが見えなくなるまで見送った。涙をぬぐうこともせずに。
(行っちゃった……)
夜空に向かって、ひとつため息をつく。北側の空からは満月は見えない。
コンクリの階段を上がる足が重い。サンダルがパタ、パタ、と音を立てる。
部屋に戻ると、海斗が口にしたペアのマグカップが、テーブルにそのまま残っていた。
里玖は海斗が座っていた席に座り、マグカップを両手で包み込むようにして――また泣いた。スマホの時刻を見る。
今、23 時 53 分。海斗はまだ海斗。
里玖は、すっかり冷めた紅茶を海斗のマグカップで口にした。
部屋のどこかから聞こえる、時計の秒針の音が、海斗の命を削っていく音のように思える。
里玖は、息を殺して、やがてくるその時を恐れた。
と、七海が寝返りをうち、タオルケットをはねのける。
里玖はそっとかけ直し、額をなでた。
そして。握りしめていたスマホの中で、時計が、午前零時を告げた。
世界から、海斗という存在が消えてしまったのだと思った。
――さよなら。海斗。
里玖はぎゅっと目をつむった……。
それから3分もしないうちに、握りしめたスマホからメッセージの通知音が鳴った。
まさか。はやる心で、里玖はメッセージアプリを開いた。朝倉祥生の表示。
-『海斗です。まだ生きてるんだけど』
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