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修道女、女は怖いと思う
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他人の不幸を喜ぶ趣味はないが、リオネル卿に群がる淑女たちの様子には、気の毒を通り越して嫌悪感すら覚えた。
彼の唇がずっと父と同じ角度でひん曲がっているのも無理はない。
彼女たちの少し強引過ぎるほどのアピールは、好きな男性にというよりも、その背後にあるものに目を奪われているとあからさますぎるほどわかるのだ。
リリアーナとの婚約が正式なものではない今、上手くやれば公爵家の正妻に、あるいは側室にすべりこめるかもしれないと算段しているのだろう。
全く相手にしていない彼の、話しかけられても返答もしない態度は、あえて父を真似ているのかと勘繰ってしまう程に頑なだった。
きゃあきゃあと群がる女性たちを引きつれ、拒絶もしなければ、その騒ぎをいさめることもない。
父であればそれも許容されるだろうが、彼では逆に顰蹙を買うだろう。
わかっていてやっているのだろうが、上手なやりかたではない。
敵意ある、特に男性からの視線が露骨過ぎて、心配になってきた。
……いや、いくら父に似ているからといって、急に身内面されても嫌だろう。
メイラが口を挟む筋合いはなく、逆に迷惑になってしまうのは確実で、むしろそんなことをしてはこちらにも余波が飛んでくる。
なにもできることはないと判断したメイラは、年上の甥に向けていた目をそらし、無遠慮に話しかけてくる男性の顔を真正面から見上げた。
視線が合って、ああこの男性もリオネルに群がる淑女たちと同じなのだと理解した。
大げさすぎるほどの好意は、その背後に打算を抱え、何も知らない小娘が罠に引っかかるのを手ぐすね引いて待っている。
それにあえて気づかない振りをして微笑み返すと、その男性は蕩けるような笑顔を返してきて、ダンスを誘う様に手を差し伸べてきた。
もちろん、困った表情を作ってお断りし、大げさに悲しげな顔をするその男性の、自己紹介を受けたのかもしれないが微塵も記憶に残りそうにない顔から視線を外す。
貴族の子弟たちは、そういう駆け引きに掛からないよう幼少期から教育を受けているのかもしれないが、いろいろと知識も経験も足りないメイラは、何が正解で何がタブーかすら判断できない。
見知らぬ誰かの悲し気な表情に気が引け、なにか一言フォローを入れるべきかと迷ったが、やめておいた。
おそらくはそれこそが手練手管というもので、少しでも引っかかってしまえばあっという間に厄介事に絡め取られてしまうのだろう。
これでも猊下がずっとそばに居てくれるから、悪質過ぎるものは近づいてこない。しかし手ぐすね引いているのは確実で、そろそろ化粧直しに行かなければならない時間だということもあり、それがまた憂鬱だった。
化粧直しに行く振りをして、そのまま撤退する訳にはいかないのだろうか。
「あの、御方さま。そろそろお時間でございます」
細い嫋やかな声色でそう囁かれ、彼女の存在を忘れていたメイラはひゅっと息を詰めた。
「……ルシエラ」
これまでもちらちらと傍らの美女に視線が向いてはいたが、ただただひっそりと俯く彼女に声を掛ける者はいなかった。しかし目線を伏せているその美貌は、まるで手折られるのを待つ花のようで、不思議なことに女性からの敵意ある視線は少ないが、メイラたちに挨拶をしていく男性陣のほとんどから熱のこもった目でみつめられている。
何かを誘うようなその雰囲気を今すぐ止めさせたい。
中央神殿の教皇猊下の前で不埒な手出しをしてくる者はいないだろうが、逆を言えばその目線が外れたところが危うい。
どういうつもりなのかと問い詰めたほうがいいのだろうか。
いやまさか、こんな衆目の中で、逆に手出しされるのを待っているとか?
じっと探るように見上げると、ふるふると瞼を震わせ、悲し気に視線を下げられた。
いやなに、怖いんですけれど。
今夜はさながら猛獣の檻に放り込まれた気分でいたが、間違いなく一番の恐怖は今この瞬間だった。
「……申し訳ございません、猊下。化粧直しの時刻のようです」
しかしメイラは、ルシエラの尋常ではない様子から目を背けることにした。
どういうつもりでいるのかなど、知らないほうがきっといい。
「ああ、もうそんな時間?」
聖職者ではあるが、エスコートする男性としても卒がない猊下は、スマートにメイラの手を引いてホールから連れ出してくれた。
「ここで待っていよう。行っておいで」
やがて化粧室が見える広い吹き抜けの廊下の端で、外見だけは若々しい猊下がにこりと微笑む。
「いえ、そんな……お待たせするわけにはまいりません」
「年寄りは長く立っていると疲れてしまうのだよ」
申し訳ないとは思うが、助かるのも事実だった。
この場所は化粧室の出入りが逐一把握できる場所なので、何かが起こったとしてもすぐに駆け付けてくれるだろう。
もちろん猊下にではなく、現在進行形で物々しく警護する神殿騎士たちにだが。
「……すぐに戻ります」
本当であれば固辞するべきなのだろう。恐れ多くも教皇猊下を化粧室前で待たせるなど、何様だ。
見ている者たちに何と言われるか、想像するだけでも恐ろしい。
「わたしはここで少し休んでいるよ」
手すりの際に置かれたカウチに腰を下ろし、いつの間にか運ばれてきた飲み物を口に運ぶ猊下の様子をしばらく見つめて。
メイラは丁寧にカテーシーをして下がった。これ以上の辞退はかえって不敬だろう。
「それでは、行ってまいります」
貴婦人のトイレ事情はかなり難しい。
市井の公衆トイレのように狭い空間が複数並んでいるわけではなく、化粧室と称する手洗いの付属する部屋で身支度のひとつとして済まされる。
ドレスは一人で脱ぎ着できるものではなく、小用はもちろん大きいほうとてドレスを着たまま汚さずに済ませるのは困難なのだ。
それ専用の部屋があり、貴婦人たちはメイドの世話になりながら排せつをして、必要であれば髪や化粧なども直してもらう。化粧室に行くのが間に合わないなど緊急の場合はオマルを用いるのが貴婦人の常識なのだが、市井育ちのメイラにはどうしても抵抗があって、なんとしても化粧直しの時間に手洗いを済ませたいのだ。
化粧室に入ると、すぐに廊下が伸びていて、二つのドアが向かい合っていた。さらにその先はテラスにつながっているらしく、マローが顔を顰めたのが気になった。
「マロー?」
「申し訳ございません、御方さま。テラスの前にひとり配備しておいたのですが」
嫌な予感がした。
同時に、化粧室の片方から悲鳴のような声と、甲高い女性の笑い声が聞こえた。
「御方さまにご用意されたお部屋はこちらでございます」
他人の視線がないと踏んだルシエラの表情から、先ほどまでの線の細さが消え失せ、ぬけぬけとと形容できそうな無表情で反対側の重厚な二枚扉を指し示した。
「ややこしい事になる前にお入りください」
本音が駄々洩れである。
メイラは小さくため息をついた。
まだ断続的に聞こえている悲鳴を、聞かなかった振りをしろというのか。
彼女に止められる前に、重そうなその扉を押した。もちろん、ルシエラが手で示している扉とは真逆だ。
煌々と明かりがともされた室内には、五名ほどの若いお嬢さん方がいた。そしてあろうことか下級使用人と思われる男性も。
ぎょっとして歪な笑顔のまま凍り付いた彼女たちに、メイラはこてりと小首をかしげた。
「……あら、わたくし部屋を間違えましたか?」
絨毯が敷かれているとはいえ、直接床に押し倒されていた少女の、涙にぬれた顔を見た瞬間、メイラは己の行動が間違っていなかったことを確信した。
彼の唇がずっと父と同じ角度でひん曲がっているのも無理はない。
彼女たちの少し強引過ぎるほどのアピールは、好きな男性にというよりも、その背後にあるものに目を奪われているとあからさますぎるほどわかるのだ。
リリアーナとの婚約が正式なものではない今、上手くやれば公爵家の正妻に、あるいは側室にすべりこめるかもしれないと算段しているのだろう。
全く相手にしていない彼の、話しかけられても返答もしない態度は、あえて父を真似ているのかと勘繰ってしまう程に頑なだった。
きゃあきゃあと群がる女性たちを引きつれ、拒絶もしなければ、その騒ぎをいさめることもない。
父であればそれも許容されるだろうが、彼では逆に顰蹙を買うだろう。
わかっていてやっているのだろうが、上手なやりかたではない。
敵意ある、特に男性からの視線が露骨過ぎて、心配になってきた。
……いや、いくら父に似ているからといって、急に身内面されても嫌だろう。
メイラが口を挟む筋合いはなく、逆に迷惑になってしまうのは確実で、むしろそんなことをしてはこちらにも余波が飛んでくる。
なにもできることはないと判断したメイラは、年上の甥に向けていた目をそらし、無遠慮に話しかけてくる男性の顔を真正面から見上げた。
視線が合って、ああこの男性もリオネルに群がる淑女たちと同じなのだと理解した。
大げさすぎるほどの好意は、その背後に打算を抱え、何も知らない小娘が罠に引っかかるのを手ぐすね引いて待っている。
それにあえて気づかない振りをして微笑み返すと、その男性は蕩けるような笑顔を返してきて、ダンスを誘う様に手を差し伸べてきた。
もちろん、困った表情を作ってお断りし、大げさに悲しげな顔をするその男性の、自己紹介を受けたのかもしれないが微塵も記憶に残りそうにない顔から視線を外す。
貴族の子弟たちは、そういう駆け引きに掛からないよう幼少期から教育を受けているのかもしれないが、いろいろと知識も経験も足りないメイラは、何が正解で何がタブーかすら判断できない。
見知らぬ誰かの悲し気な表情に気が引け、なにか一言フォローを入れるべきかと迷ったが、やめておいた。
おそらくはそれこそが手練手管というもので、少しでも引っかかってしまえばあっという間に厄介事に絡め取られてしまうのだろう。
これでも猊下がずっとそばに居てくれるから、悪質過ぎるものは近づいてこない。しかし手ぐすね引いているのは確実で、そろそろ化粧直しに行かなければならない時間だということもあり、それがまた憂鬱だった。
化粧直しに行く振りをして、そのまま撤退する訳にはいかないのだろうか。
「あの、御方さま。そろそろお時間でございます」
細い嫋やかな声色でそう囁かれ、彼女の存在を忘れていたメイラはひゅっと息を詰めた。
「……ルシエラ」
これまでもちらちらと傍らの美女に視線が向いてはいたが、ただただひっそりと俯く彼女に声を掛ける者はいなかった。しかし目線を伏せているその美貌は、まるで手折られるのを待つ花のようで、不思議なことに女性からの敵意ある視線は少ないが、メイラたちに挨拶をしていく男性陣のほとんどから熱のこもった目でみつめられている。
何かを誘うようなその雰囲気を今すぐ止めさせたい。
中央神殿の教皇猊下の前で不埒な手出しをしてくる者はいないだろうが、逆を言えばその目線が外れたところが危うい。
どういうつもりなのかと問い詰めたほうがいいのだろうか。
いやまさか、こんな衆目の中で、逆に手出しされるのを待っているとか?
じっと探るように見上げると、ふるふると瞼を震わせ、悲し気に視線を下げられた。
いやなに、怖いんですけれど。
今夜はさながら猛獣の檻に放り込まれた気分でいたが、間違いなく一番の恐怖は今この瞬間だった。
「……申し訳ございません、猊下。化粧直しの時刻のようです」
しかしメイラは、ルシエラの尋常ではない様子から目を背けることにした。
どういうつもりでいるのかなど、知らないほうがきっといい。
「ああ、もうそんな時間?」
聖職者ではあるが、エスコートする男性としても卒がない猊下は、スマートにメイラの手を引いてホールから連れ出してくれた。
「ここで待っていよう。行っておいで」
やがて化粧室が見える広い吹き抜けの廊下の端で、外見だけは若々しい猊下がにこりと微笑む。
「いえ、そんな……お待たせするわけにはまいりません」
「年寄りは長く立っていると疲れてしまうのだよ」
申し訳ないとは思うが、助かるのも事実だった。
この場所は化粧室の出入りが逐一把握できる場所なので、何かが起こったとしてもすぐに駆け付けてくれるだろう。
もちろん猊下にではなく、現在進行形で物々しく警護する神殿騎士たちにだが。
「……すぐに戻ります」
本当であれば固辞するべきなのだろう。恐れ多くも教皇猊下を化粧室前で待たせるなど、何様だ。
見ている者たちに何と言われるか、想像するだけでも恐ろしい。
「わたしはここで少し休んでいるよ」
手すりの際に置かれたカウチに腰を下ろし、いつの間にか運ばれてきた飲み物を口に運ぶ猊下の様子をしばらく見つめて。
メイラは丁寧にカテーシーをして下がった。これ以上の辞退はかえって不敬だろう。
「それでは、行ってまいります」
貴婦人のトイレ事情はかなり難しい。
市井の公衆トイレのように狭い空間が複数並んでいるわけではなく、化粧室と称する手洗いの付属する部屋で身支度のひとつとして済まされる。
ドレスは一人で脱ぎ着できるものではなく、小用はもちろん大きいほうとてドレスを着たまま汚さずに済ませるのは困難なのだ。
それ専用の部屋があり、貴婦人たちはメイドの世話になりながら排せつをして、必要であれば髪や化粧なども直してもらう。化粧室に行くのが間に合わないなど緊急の場合はオマルを用いるのが貴婦人の常識なのだが、市井育ちのメイラにはどうしても抵抗があって、なんとしても化粧直しの時間に手洗いを済ませたいのだ。
化粧室に入ると、すぐに廊下が伸びていて、二つのドアが向かい合っていた。さらにその先はテラスにつながっているらしく、マローが顔を顰めたのが気になった。
「マロー?」
「申し訳ございません、御方さま。テラスの前にひとり配備しておいたのですが」
嫌な予感がした。
同時に、化粧室の片方から悲鳴のような声と、甲高い女性の笑い声が聞こえた。
「御方さまにご用意されたお部屋はこちらでございます」
他人の視線がないと踏んだルシエラの表情から、先ほどまでの線の細さが消え失せ、ぬけぬけとと形容できそうな無表情で反対側の重厚な二枚扉を指し示した。
「ややこしい事になる前にお入りください」
本音が駄々洩れである。
メイラは小さくため息をついた。
まだ断続的に聞こえている悲鳴を、聞かなかった振りをしろというのか。
彼女に止められる前に、重そうなその扉を押した。もちろん、ルシエラが手で示している扉とは真逆だ。
煌々と明かりがともされた室内には、五名ほどの若いお嬢さん方がいた。そしてあろうことか下級使用人と思われる男性も。
ぎょっとして歪な笑顔のまま凍り付いた彼女たちに、メイラはこてりと小首をかしげた。
「……あら、わたくし部屋を間違えましたか?」
絨毯が敷かれているとはいえ、直接床に押し倒されていた少女の、涙にぬれた顔を見た瞬間、メイラは己の行動が間違っていなかったことを確信した。
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