月誓歌

有須

文字の大きさ
145 / 207
修道女、デートする

3

しおりを挟む
 その部屋のドアが閉まるなり、副ギルド長はその場で両膝をついて額づいた。
 彼は平民だが、貴族を相手にして一歩も引かないぐらいに有能で気位の高い人物だということは、メイラの耳にも届いていた。
 そんな男が、挨拶の言葉一つ発することなく、板間の床に身を投げ出して頭を下げる。
 唐突な副ギルド長の行動に驚愕の声を上げずに済んだのは、部屋にはすでにもう、同じような姿勢の人間がひとり、巨躯を縮めて待っていたからだ。
 かつては雲の上のように偉い人だと思っていた彼らの、まるで下級使用人のような態度は衝撃的だった。メイラには尋常な情景にはとても見えなかったが、当の二人を含め、部屋にいる誰もがそうすることが当たり前であるかのように表情を変えない。
 彼らが挨拶の口上も述べずに頭を下げているのは、そうする資格がないからだ。
 ギルドの重鎮だとはいえ平民。大帝国の皇帝とは天と地ほどの身分差がある。本来であれば、同じ部屋の空気を吸うことすらありえない事だ。
 メイラは改めて、自身を抱き上げている夫の身分の高さに震えあがった。
「……立て」
 身震いした彼女の背をひと撫でした陛下が、低い声で言った。
「直答を許す」
「……はっ」
 メイラは、そう言われてもなお顔を上げようとしないギルド長が、ものすごく緊張しているのを察知した。
 直接言葉を交わしたことはないが、もと高ランクの冒険者である彼が豪胆で磊落な男だということは伝え聞いている。ギルドに属する誰からも尊敬を受け、生きる伝説とまで囁かれている人物のそんな姿に、メイラの表情もまた強張ってくる。
「もう一度言わねばならんのか? ブルーノ・ガルビス。妻が怯えている」
 弾かれたように顔を上げたギルド長が、慌ててまた元の姿勢に戻ろうとして、少し動きを止めてからおずおずとこちらを伺い見た。
 ……伝説の冒険者の上目遣いなど誰得か。
 メイラはぎゅっと陛下の服を掴み、泳ぎそうになる視線をなんとか堪えた。
「要件はさほど差し迫ったものではない。黒竜の素材についてだ」
「はっ」
「妻と揃いの装飾品をあつらえたい」
「承りました。指輪でしょうか?」
「普段から身に着けていられるものが良い。……メルシェイラ、希望はあるか?」
 希望? いや、ギルド長のあの子犬のような目を何とかして欲しい。
 ぶるぶると首を左右に振ったメイラは、いつの間にか陛下の膝の上に座らされていた。陛下はマントを脱ぐことなくソファーに深く腰を下ろし、副ギルド長がテーブルの上に置いたお茶には手を付けようとせずひたすらメイラの指を弄んでいる。
「腕の良い細工師に心当たりがあります」
「いや、折角の素材だ、魔道具としてあつらえたい」
「魔道具ですか……」
「先だって妻の守りが壊されたばかりなのだ」
 ギルド長の赤茶色の瞳が、ちらりとメイラの方を見た。視線はすぐに逸らされたが、一瞬だが探るようなその目つきに居心地の悪さを感じる。
「皇室お抱えの方に依頼されなくてもよろしいのでしょうか?」
「我が妻であり、ハーデス公の娘でもあるメルシェイラに、害になるようなものを作るつもりか?」
「とんでもございません! ですが」
「もちろん安全性は確認する。だが、折角の機会だからな。記念になるだろう?」
「それは……黒竜ですので」
 メイラは話の内容よりも、陛下が指を弄んでくるほうが気になって仕方がなかった。指一本一本の爪先から付け根までひたすらずっと触れてくる手には、子供が玩具で遊んでいるかのような熱心さがあったが、それはもっと別の……穿った目で見れば、男女の性的な接触を連想させる動きでもあった。
 やめて欲しいとはとても口にできず、そこをじっと見ているギルド長に見るなとも言えない。
 次第に赤らんでくる頬を隠すように俯いた。
「どの素材をどのように用いるかの打ち合わせは、職人と直接話した方が良いと思います」
「あと三日はタロスにいる」
「いつ頃の御都合がよろしいでしょうか」
 三日。
 メイラは努めて表情は変えないようにしながら、陛下の言葉を噛み締めた。
 あとたった三日だけなのか。
 三日間一緒にいられるという事よりも、三日後には別れが訪れるのだという思いの方が強く胸に刺さった。
 それはそうだ。陛下はメイラひとりの夫ではない。広大な領地を持つ帝国の皇帝であり、多くの美しい妃を抱える後宮の主人だ。
 こうやってそばに居られる時間は限られていて、決して独り占めしていいものではない。
「どうした?」
 思わず絡めた指をぎゅっと握ってしまったメイラに、もはや深く耳に馴染む低音が優しく問いかけてくる。
 もとより、自分一人の夫ではない。わかっていた事だ。
「……いえ」
 醜い感情がこみ上げてきそうになり、それが形になる前に飲み込み強いて笑みを作った。
「とても楽しみです」
 今は何も考えないほうがいい。楽しそうな陛下のお気持ちを削ぐのは不本意だ。
 顔を上げると、大きな手がそっとメイラの頬を撫でた。
「そうか」
 メルシェイラはただの妾妃だ。どんなに愛しんで頂けたとしても、長く共に居ることはできない。後宮に戻れば階位も低い妻のひとり。またお会いできるまでには何十日も待たなければならず、その間にも陛下は大勢の妃を閨に召し夜を過ごされるのだろう。
 嫌だ、と顔に出してはならない。困らせてしまうだけだから。
「我儘をいってもいいですか?」
「なんだ? 装飾品の希望でもあるのか?」
 ふるり、と首を左右に振ると、つけ髪の先が陛下の手元でぱさりと揺れる。
 他の妃を抱かないでください。この身だけを愛してください。……そんなことは口が裂けても言えない。そう感じていることを悟らせてもいけない。
「山の手に植物園があります。ガラス張りの温室で、今の時期でも楽しめると思います」
「そこに行きたいのか?」
「はい」
 精一杯笑おう。幸せな時間に一点の影も落とさないように。
 そして目に焼き付けるのだ、メイラにとってはただ一人の夫が、愛し気に微笑んでくれる表情を。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

処理中です...