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第十章・蒼竜ヴァリトラ
雷の大精霊トール
しおりを挟む倒したと思ったヴィネアの最後の足掻きによって王都フェンベルは決して小さくない被害を受けたが、命を落とした者は誰もいなかった。城下の方に怪我人は数人ほど出たものの、犠牲者がいないだけでもよかったと言える。
風の神柱シルフィードは王城の庭に降り立つなり、それぞれの大精霊へと分離した。つまり、風の大精霊イスキアと雷の大精霊トールに。件の大精霊トールは――赤ん坊とほとんど変わらない大きさだった。
紫紺色の長い髪を束髪崩しの形に結い、赤地に淡い桃色の桜が散りばめられた着物を着込んでいる。その顔にはにこにこと楽しそうな笑みが浮かんでいるが、見た目は小さな子供のようにしか見えない。頬だって子供特有の丸みを帯びていて、実に可愛らしい少女だ。
「マスターさま、はじめまして。あたち、トールちゃんって言いますぅ」
「ど、どうも……」
「これが雷の神器オートクレールです。マスターさまにお渡ししておきますね」
トールはイスキアの傍を離れてジュードの正面までふわふわと飛んでくると、両手で大切そうに持つ指輪を差し出してきた。ウィルが持つ風の神器ゲイボルグと同じ形をしたそれは、填め込まれている石の色が違うだけのもの。ゲイボルグは緑だったが、この雷の神器は紫色の大層綺麗な石が填め込まれている。
「取り敢えず、なんとか間に合ってよかったわ。本当ならもう少し早く合流できるはずだったんだけどねぇ、トールが駄々こねるものだから」
「むっ! イスキアが悪いんですよぅ! 少しの間シヴァさまと一緒に出てくるだけって言ってたのに、どこが少しなんですかぁ! その間トールちゃんはずっとお留守番――」
「ああわかった、わかったわよ、アタシが悪かったって」
どうやら、風の神殿でひと悶着あったらしい。トールはイスキアが旅をしている間、ずっと一人で神殿を守っていたのだろう。相棒がいなくて寂しかったようだ。そんなやり取りを目の当たりにして、場の空気がじわりと和んでいく。脅威が去ったのだとようやく実感が湧いてきたのもある、その場に居合わせる誰もがその表情を和らげた。
だが、そこで声を上げたのは他の誰でもない、カミラだった。
「……っ、ヘルメス様が殺されてしまったのに、どうして笑っていられるの……?」
「え?」
「ジュードは、やっぱり他人事なのよ!」
カミラのその怒号に、辺りは水を打ったように静まり返った。それまで同じように表情を綻ばせていたエクレールも、その現実を思い出せば表情に陰りが差す。その場に座り込んだままのカミラの目からは大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
ライオットとノームは困ったように、気まずそうに互いに顔を見合わせ、ちびはジュードの傍らで「クゥン……」と心配そうにか細く鳴く。
「……そんな言い方ないんじゃないの?」
そこで黙っていなかったのは、やはりルルーナだった。彼女は相手が泣いていようとどうしようと、納得できないことに口を閉ざしたりはしない。傍らにいたマナやリンファが止めようとするが、彼女はそれを振り払ってカミラを睨み据える。
「他人事ってなによ。そりゃジュードは昔のこと何も覚えてないかもしれないけど、自分の過去をヘルメス王子にも見てほしいって思ってここで待ってたのよ。昔のことを見せてくれるっていう神さまの誘いを断ってね」
「昔の、こと……? 神さま……?」
「アンタっていっつもそう。悲劇のヒロインぶるのも大概にしなさいよ、……これは前にも言ったわよね。逃げるのをやめて少しはマシになるかと思ったけど、自己中なのは変わってないみたいで残念だわ」
遠慮も何もない物言いに息を呑むのはカミラではなく、周りの面々だ。静まり返った周囲に、今度は緊張が走る。マナやトールはあわあわとカミラとルルーナの両者を何度も交互に眺めるが、止めようとする者はいなかった。
その直後、ジュードの胸部からふわりと光が洩れたかと思いきや、それは傍らで見る見るうちに大きさを増し――程なくして十メートルを超える形へと変貌を遂げた。何てことはない、その正体は彼の中に戻った蒼竜ヴァリトラだ。
あまりにも巨大なその身を目の当たりにしたヴェリアの騎士たちは、慌ててその場に膝をついて顔を伏せた。神の住処はヴェリア大陸にある。そのため、ヴェリアの者たちはヴァリトラの姿は既に知っているのだろう。
「王子よ、ケリュケイオンを」
「あ、うん……これ?」
ヴァリトラから向けられた言葉に、ジュードは幾分か気まずそうに左腕の袖を軽く捲る。そこには精巧な造りの腕輪が手首に填まる形で鎮座していた。また死の雨が降った時に使ってくれ、とヘルメスが託してくれた聖杖ケリュケイオンだ。
ヴァリトラは暫し無言のままジッとその腕輪を眺めていたが、やがてそっと安堵らしき吐息をひとつ。
「……ふむ、ケリュケイオンは未だ光を保ったままだ。ヘルメス王子は無事だろう、死んではおらん」
「ほ、ほんと!?」
「うむ、神器は継承者が亡くなると光を失い、眠りにつく。無事に逃げられたか、もしくは……いや、憶測はやめておこう。とにかく、生きていることだけは確かだ」
その言葉に、ジュードは詰めていた息が自然と洩れるのを感じる。次にエクレールを振り返れば、彼女は涙を流して喜んでいた。上手く言葉にならないらしく、口元を両手で覆って何度も頷く。その安堵と喜びは波紋のように広がりを見せ、跪いたばかりの騎士たちも諸手を挙げて喜んだ。
その様子に、ヴィーゼはにこにこと笑いながらパンパンと両手を叩き合わせる。
「じゃあ、父上に頼んで捜索隊を出してもらうよ。その間、僕たちは先に火の国に向かった方がよさそうだね」
「えっ、僕たちはって……? ま、まさか……」
「同盟を結んだんだ、当然風の国からも兵を出すに決まってるじゃないか。あ、父上と母上にはもう話してあるから大丈夫だよ」
至極当然のようにつらつらと並べ立てられる言葉から察するに、風の国から出す兵というのは――どうやら、このヴィーゼらしい。厳密には彼と、その彼が率いる精鋭部隊だろうが。
一国の王子が魔族との戦いの最前線に出るというのだ。本当にいいのかと止めたかったが、言って聞いてくれるような王子ではないことをジュードだからこそ知っている。それに、ヴィーゼはこの風の国で一、二を争うほどの手練れでもある。心配は尽きないが、充分すぎるほど助けになってくれるのも事実なのだ。
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