或る二人

氷沼さんご

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霧に泳ぐ

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 音や光、時間すらもが、突如満ちてきた深い霧の中へ、一様に取り込まれてしまっている。
 私達は山陰にそびえる山脈の、とある渓谷を歩いていた。目的地はそう遠くないはずなのだが、一向にたどり着く気配がない。際限なく湧いて出る霧とは反対に、私の感覚は次第に薄れてきていた。
 湿気で衣服が肌に張り付いているのも気持ちが悪い。この霧に己の身が少しずつ溶かされている様子を想像してしまい、寒慄かんりつした私は前を歩いている方に呼びかけた。
 「先生」
 「どうした」
 間髪を入れず、前から先生の声が返ってくる。反応から察するに、先生も内心恐ろしさを覚えていたに違いなかった。
 「この霧で進むのは危険です。少し休みましょう」
 「やあ、僕も丁度そうしようかと考えていたところだ」
 先生が足を止め、小休止を宣言する。既に視界は一寸先すら分からないほどに狭まっていた。これ以上動いても仕方がない。背負っていた荷物を降ろした時、私達はそれを目撃したのだった。

 にわかに、白いとばりへ魚の形をした黒い影がぬるりと映し出された。三尺にも迫ろうかという魚影は、光の加減が作り出した幻想だろうか。得体の知れぬ存在感を放っているそれは、こちらを一瞥いちべつするように尾をくねらせると、霧の向こうへと緩やかに消えていった。
 それに続いて、今度は八寸程の小さな影が現れる。ぽつんとひとつ浮かんでいるその影は、ふたつ、みっつと、みるみるうちにその数を増やしていった。最後には大小合わせて数十匹にも上る群れとなり、また音もなく傍を次々と通り過ぎていく。
 残された我々は身構えるのも忘れ、あっけに取られて立ち尽くしたまま、宙を泳ぐ影を見送った。
 
 「……ゴギでしたね」
 影が見えなくなってから暫くして、止まっていた息と一緒に言葉を吐き出した。
 「ゴギ?」
 「ああ。イワナをここらではそう言うんです」
 緊張が解け、身体を投げ出すように木の根に腰を降ろした。はっきりとした形が見えたわけではないが、私には不思議と確信があった。
 ゴギ――イワナにまつわる不思議な話は多いという。
 生息していなかった筈の水辺に、いつの間にかイワナが現れるようになっていた、という話を、かつて山の民に聞かされたのを思い出した。地面を跳ねて移動するのを見た者がいると言っていたが、まだまだイワナには人間に隠している事があるらしい。
 彼らは霧を泳いで新たな住処を探しているのだろう。誰にも見つからぬよう、奥へ、奥へと。
 紙巻煙草を取り出し火をつけようかというところで、霧は魚の影が消えていった方向へと連れ立つ様に晴れていった。先生と私はどちらともなく立ち上がる。
 後を追うように木々の間を進んでいくと、滑滝の流れ込む、苔むした大岩に囲まれた沢に辿り着いた。上から覗き込めば、濁りの無い水中に、斑点を持った魚が悠々と泳いでいる。今ばかりは先生も大好きな釣りをする気になるまい。
 私はなんとなしにその魚に問いかけた。
 「ここは静かに暮らせそうかい?」
 
 返答はない。ぱしゃり、と水面に魚の跳ねる音がした。



※この話は、朔風社 『岩魚幻談』より着想を得て作成しております。
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