掟破りのキサ

田原更

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四章:脱走のあとで

14話

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「私は、村から逃げ出したのです」

 キサはぽつりとつぶやいた。男に勘ぐられないよう、努めて、弱々しく。

「何故だ」

 男はその青い目を妙に輝かせた。キサは、つまらない理由を考えねば、と思った。この冷たい男が一笑に付するような、くだらない理由を。

「私はもうすぐ結婚する予定でした。でも、他に好きな人がいるのです。だから、村から逃げ出しました」

「くだらん理由だな」

 思った通り、男はあきれたような顔をした。

「その男はどうした? 一緒ではないのか」

 キサは首を振った。

「その人は、私の思いなど知るよしもありません」

 キサはすらすらと嘘をついた。神話に、似たような話があるのだ。

 魚の精霊は星の精霊に恋心を抱いた。しかし、精霊たちの長である水の精霊は、水に棲むものは水に棲むもの同士で結ばれるべきだと考えた。そこで、魚の精霊の伴侶に水草の精霊を選んだ。

 魚の精霊は星の精霊以外の男と結婚することを拒んだ。魚の精霊は、夜空に浮かぶ星の精霊が魚の精霊の思いなど知るよしもないことも、側に行くことさえ叶わないことも知っていた。ならばいっそ少しでも星の精霊の近くで死にたいと、魚の精霊は考えた。魚の精霊は住み慣れた川を抜け出し、陸の上でのたうちながら命を落とした。

 水の精霊は魚の精霊の愚かさを嘆いた。しかし、地の女神ウツヌは魚の精霊の思いに心を打たれ、魚の精霊を空にあげてやった。魚の精霊の瞳は月となり、魚の精霊はそのまま月の精霊となったと言われている。

 キサは、この話について、ロッジュやウィッサや同じくらいの年頃の娘たちと一緒に語り合ったことがある。娘たちはきゃあきゃあわめいていた。

「神様や精霊たちの恋って素敵ね」

「命を捨ててまで側に行きたいって思うなんて」

「私も、魚の精霊みたいな激しい恋をしてみたいわ」

「見つめ合った瞬間に、ダージャ、ダージュって言い合うような恋をしたいわ」

「ノ・ダージャやノ・ダージュだったら、大人たちだって言っているわよ」

「ノがつくと、なんだかくどいわ。ダージャ、だからいいのよ。ウツヌ様みたいで」

「そうね。私もウツヌ様みたいな恋をしたい。愛する人をお腹に宿して、再び巡り会うなんて、素敵じゃない?」

「そうね! そんなに深く人を愛してみたいわ。キサは?」

「ええと、私、よくわからないわ……」

「ふふふ。キサは相変わらず、お子さまね。もうすぐ十五になるっていうのに」

 だけど、娘たちはわかっていた。激しい恋や深い愛は、神話の神や精霊たちにだけ許されたぜいたくなのだと。自分たちは、たとえ誰かを激しく深く愛したとしても、親や村長が決めた相手と結婚するしかないのだと。それでも、人はそれなりに幸せに生き、それなりに人を愛するのだと。

「お前の思いなど知らない男のために、お前は村を捨てて逃げたというのか」

 男はまたあきれたような口調をした。

「そうです。私はその人以外の男と結ばれたくないのです……」

 キサは目を覆った。本当に涙が出てきた。

「お前の思い人は、いったい、どういう男なのだ」

 何故、この人はこんなことまで聞くのだろう、と思いながら、キサはつぶやいた。

「精霊のような、美しい人です」

 男は目を丸くして、そして笑った。

「とんだ、夢見がちな娘だ。そのような男などいるはずもあるまい。お前の目にだけはそう映るのだろうが、ふと思い返してみれば、ああ、大したことなどなかったとがっかりするのが、世の常だぞ」

 そう言うと男は、キサの右腕をがっしりとつかんだ。

「きゃあ!」

 キサは残された左手で毛布をしっかりつかみ、陸に上がった魚のように身体全体をじたばたさせた。

「考えの浅い娘め。お前の浅はかな行動が、お前の村の運命を変えることになるのだぞ。私はこれからお前を村に連れていく。お前を人質にして、村長に迫る。村の秘密を教えろと、滅びの神を呼ぶ呪文を教えろ、と」

 キサは雷で打たれたような思いがした。男は、キサたちの村に興味がなくなったわけではないのだ。そんな芝居をしただけなのだ。人のいい風の民は、男が都に連れ戻されたから安心していたが、その間も、役人や兵士に、風の民の様子をこっそりと調べさせていたのだろう。

「どうして! 何故今さら、何故こんな時に、戻ってきたのです!」

 キサはなおも身体をじたばたさせたが、男の腕が外れる様子はなかった。

「何故こんな時に、と言いたいのは私のほうだ。娘よ。何故、私が山を見に行ったその日に現れた。お前は私にとって、幸運の女神だ。そんなに美しい緑色の目など、見たことはない」

 美しいと言われて、キサは一瞬、抵抗を緩めた。

「先日、都から戻ってきた。あの愚かな先王が死に、話のわかる息子が王となった。王はすぐに、私を牢から出してくださった。私は牢の中でも、一度たりとも、お前たちの村のことを忘れなかった。お前たちの村の秘密を知ることが、私の生きがいだからだ。お前たちは、私に感謝せねばならないのだぞ。何故だかわかるか?」

「わかりません。どうしてあなたに感謝しなければならないの!」

 キサはとんだ言いがかりに対して怒りの声を上げた。

「もし、私が、お前たちの村を調べていると口にしたら? 滅びの神を呼べる者がいると口に出したら? 先王は、お前たちの村を焼き、皆殺しにしただろう。先王は臆病な方だ。自分に仇なすと考えた者は、すべて滅ぼした。無実の者でも、何でも。あるいは、先王がお前たちを利用しようと考えたら、どうなっていたか。お前たち全員捕らえられ、口にするのもおぞましいような拷問を受けるはめになったのだぞ。私はそれを、痛いほど味わった」

 男は首に巻いた布をしゅっとほどいた。首には無数の傷跡があった。

「ああ……」

 キサはおびえて、がくがくと震えだした。

「これは、拷問の跡ではない。お前たちのことを口に出しそうになったときに、自分で自分の首を絞めた跡だ。決して言わぬ、という誓いの跡だ! 娘よ、お前もそうなのだろう?」

(ああ……!)

 キサは自分の身体を確認した。あれほど山を歩いたのに、汚れの跡すらなかった。しかし、自分の首を自分で見ることはできない。

「お前が、滅びの神を呼べる娘だ。よくぞ、私の前に現れてくれた」

 男は心底嬉しそうに笑っていた。キサはおののいた。
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