掟破りのキサ

田原更

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五章:甘い声

20話

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「無駄だ。外側から鍵をかけるように命じてある。もう逃げられん」

 いつの間にかダネルは立ち上がっていた。ダネルはキサのもとへじりじりと近づいてきた。

(太陽だ。太陽が、迫ってくる……)

 キサは扉の冷たさを背中でひしひしと感じながら、恐ろしい形相をしたダネルから必死で目をそらした。

「何故、私を拒絶した。お前は私を愛しているのではないか。あの目を見れば、それくらいのことはわかる」

(怖い……私はこのまま、この人に焼き尽くされてしまうの?)

 キサは必死になって、首を横に振った。汗がぽたぽた流れてきた。

「お前が欲しい。滅びの神の名前ごと、お前をもらい受ける。そうしなければ、私の復讐は終わらない。あいつらを殺せなかった代わりに、あの屋敷を……地獄のような記憶しかないあの屋敷を、破壊し尽くしてやる!」

 ダネルとキサの距離はどんどん縮まっていった。

「あなたはおかしいわ! 復讐に取り憑かれた、まるで悪霊みたい! あなたの屋敷ではここみたいにたくさんの人が働いているのでしょう? あなたはその人たちすべてを巻き込むつもりなの?」

「使用人どもがどうなろうと知ったことではない」

 ダネルの目は本気だった。本気で、使用人たちの命を何とも思っていないようだ。キサは震え上がった。

「やめて! そんなことのために、私を巻き込まないで! 私はあなたの道具じゃない! 私は言わないわ。絶対に言わない。死んだって、言わないわ!」

 キサは、そらしていた顔を真っ直ぐにダネルに向けた。青い目がらんらんと輝いていた。

「だから、お前を手に入れるのだ。お前を私のものにして娘を産ませる。お前は、娘にだけは神の名を伝えるだろう。知っているのだぞ。お前たちの力は母子相伝、父子相伝だと。そのための儀式を行っていると! その娘から、神の名を聞き出すのだ」

 嫌悪感から、キサの歯はがちがちと鳴った。キサはダネルをにらみつけた。

「娘なんて産まないわ! そのために、私は結婚相手から逃げ、村から逃げ、一人で生きていこうとしたのよ! あなたが私を見つけさえしなければ!」

 ダネルは軽蔑のまなざしでキサを見た。

「前にも言っただろう? ここから出ても、他の男に捕まり、暴力の餌食になるだけだと。お前のような弱い娘が、何も知らぬ浅はかな女が、一人で生きられるほど世の中は甘くないのだ!」

 ついにダネルの手が伸びてきた。キサは悲鳴を上げた。

「村長様、母さん! 助けて!」

「幸せな娘だ。呼べば必ず助けが来たのだろう? さあ、呼んでみろ。滅びの神を呼んでみろ! それで私を殺すがいい!」

 もう逃げられないと思い、キサは足下から崩れ落ちた。そして、赤子のように泣き叫んだ。叫び続けた。しかし、誰も助けに来なかった。

「恐ろしいだろう……これが私の現実だ」

 ダネルの言葉にキサは息をのんだ。先程の物語は本当の話だった。そんなことも知らずに、キサは彼の心の内側に立ち入り、のんきに踏みにじった。

「あなたは私のことが憎いのでしょう。ならばいっそ殺してください……」

 キサはダネルの足下にすがりついた。ダネルはキサのすぐ側に短剣を投げ落とした。

「このまま自害するか、私を殺すか、私を受け容れるか。お前に選ばせてやる」

 キサは涙で濡れた手で短剣を握りしめた。キサはダネルの顔を見た。あざ笑うような顔をしていた。キサは短剣を握り返し、ダネルの胸めがけて突き刺そうとした。

 その瞬間、二つの目が合った。青い目と緑の目。青い目は悲しみで満ちていた。

(この人は、私に刺し殺されてもいいと、本気で思っているんだ。この人はすべてを失ってしまったんだ。この人は空っぽなんだ……哀れな人なんだ)

「ダージャ……」

 キサは短剣を握りしめたまま、がっくりとうなだれた。

「では、自害するのか」

 キサは首を振った。

「それはできません。自殺は、風の民一番の罪です……」

「何故、私を殺さない?」

「人殺しは、掟で禁じられています……」

 キサは短剣を取り落とし、顔を覆って泣き出した。しばらくの間泣いていると、男のたくましい両手が伸びてきた。

「哀れな娘だ」

 ダネルはキサを抱きしめた。心の奥底から声が響いてきた。

『キサ、よかったわね。一目見るなり心引かれた人と結ばれるのだから。抱き合うのよ、裸で。大丈夫よ。私たち、ずっとそうやって生きてきたんだから。うまくやりなさいよ』

(やめて……ロッジュとウィッサの言葉で、私を惑わせないで)

 寝台に倒され、服を脱がされながら、キサは内なる自分と戦っていた。

『もういいじゃない。あなたは誰かと子を成し、その子に神の名を引き継ぐ運命なのよ。あなたはただの女。神に背くなんて、はじめから無理だったのよ』

(嫌……それにだけは、それにだけは、最後まで抗うわ!)

 たとえ、内なる自分の言うとおり、ダネルを愛していたとしても、彼の孤独を慰めたいと思っていても、彼のなすがままになったとしても、キサはその掟だけは破るつもりでいた。

「キサ……私は何年でも待つ。お前と子を成し、お前がその子に神の名を教えるまで。私は知りたい……神の名を。呼べば答えてくれる神がいるなら、それを見てみたい」

 ダネルの手が、キサの身体の上から下へと滑っていく。キサの身体に巣蜜を口にしたような、強烈に甘い感覚が走っていく。

(私はおかしい。おかしいわ。こんな人のことを愛している。だけど、どうしようもないこともあるのね。花の精霊が蜜蜂の精霊を呪ったように。魚の精霊が星の精霊を慕ったように。太陽が銀の乙女に心奪われたように。銀の乙女は……乙女はそれでも逃げ続けたわ。戦い続けたわ。だけど、私は、銀の乙女のように強くない……だけど!)

「ダージャ……」

「どうした?」

 ダネルはキサの身体をまさぐりながら、優しくささやいた。キサはとろりと溶けかけた瞳を一瞬閉じて、ダネルの顔をじっと見つめた。

「私はそれでも、言わないわ。あなたにも、娘にも、誰にも」

『そんなことが、本当にできるの?』

 内なる自分の声が、ダネルの声をかき消した。

『ダネルはあなたの子を作る。その子を盾に、あなたに迫るわ。あなたが拒否すれば拒否するほど、ダネルは必死になるでしょうね。そのうちに、ダネルは狂ってしまうかも』

 内なる自分はいやらしく笑った。

(諦めさせるわ)

『どうやって?』

 自分自身とやりとりしている間に、ダネルの手はキサの足の付け根に迫っている。

(どうすれば、この人は神の名を知ることを諦める……?)

 足が開いた瞬間、キサはひらめいた。

(……消えればいい)

『何が?』

 内なる自分が自分をあざ笑った。

(私から、声と、文字が、消えればいいの)

 内なる自分は息をのんだ。

『そんなことをしたら、あなたは二度と、誰とも口を利けなくなるのよ』

(かまいやしないわ)

『あなたはもう、誰の名前も呼べないのよ!』

(かまいやしないわ)

『たとえあなたがよくっても……』

 頭の中でがんがん響きわたる内なる声を消そうと、キサは心の中で叫んだ。

(声よ、消えて! 文字よ、消えて! あなたも、消えて!)

 頭の中が、すっと静かになった。その直後、キサの身体を何かが貫いた。


 太陽が幾度も昇り、月が満ちては欠けていった。キサの腹は少しずつ膨らんでいった。キサは黙って産着を縫い続けた。

                 **

「奥さま! 産まれましたよ! かわいい女の子です!」

「……」

「キサ、娘の名前くらい、お前がつけろ」

「……」

「相変わらずだんまりか。なら、娘の名を書いてみろ」

「……」

「もういい」


 ダネルは産まれた娘にエトナと名付けた。種子という意味の、この国ではごくありふれた名前を。
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