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第12話
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四月になり、研修医二年目の春を迎えていた。新しい研修医たちが少し緊張した面持ちで挨拶しているのが、やけにまぶしく見えて反射的に目を閉じた。
この頃の私の悩みは、石崎教授からの呼び出しだった。たわいのない会話しかしていないが、研修とは無関係な教授室に出入りする私を、周りが放っておくはずがない。何かしらの噂は立っているだろうと推測された。
でも、まあいいか。よく知りもしない他人に大切なことを相談してはいけないと、勉強になったから今後の教訓にしよう。
私の中で、常に自分を励ますもう一人の自分がいて、
「大事なことだけ見ていればいい。後は放っておけ」
と言っていた。
実際、勉強することは山ほどあり、こんなしがらみなどにかまっている暇はなかった。
たまに時間が空いている時は、中川さんと漫画喫茶に行くようになっていた。漫画喫茶なら、強引に何かをされる心配もない。石崎教授から呼び出されるようになってからは、中川さんは私の協力者となった。
本末転倒だが、こうなってはこの人からの情報がなければ、教授に太刀打ちできない。教授の愛人に成り下がる危険性があった。
私は、聞きたいことを中川さんから聞き出して、彼からの聞きたくもないような話は無視して漫画を読んだ。
「利用されているように感じる」
と中川さんは言ったが、その通りだった。
「石崎教授から『今度の週末に出かけましょう』と言われました。どう対処したらよいでしょうか」
私の考えが通用しない「男」という生き物については、同類に聞くほうが正しい対処法を知ることができるはずだ。
「いつまでも断り続けるわけにもいかないから、一度は行ってみろ。あいつは雅な生まれだから突然襲うことはないだろうけど、一応ジーンズを履いて行け」
と、中川さんは私に言った。
石崎教授の車がマンションの前に着いて、車に乗るとにこやかな表情で出迎えられた。
どういう育ちをすれば、表面は爽やかに、内側はしたたかになれるのだろうと考えてから、まあ今ここにいる自分も似たようなものかなと思った。
ただし、石崎教授と私とでは大きな違いがある。教授の悪いところは、嘘や金や権力を使って人を意図的にコントロールしようとするところだ。
しばらくすると、車が高速道路に入った。
「どこへ向かっているのですか」と私が聞くと、「隣の県に美味しいものを食べに連れて行ってあげる」と石崎教授は笑った。
他人から目撃されるのを怖れて、遠い土地に向かっているのでしょう?
心の中で教授を冷笑している自分がいた。
食事は高級そうなホテルの最上階にあるレストランでとった。私はジーンズを履いたまま、そのレストランに入店した。明らかに場違いで恥ずかしいが、逆に誤解を防げるのかもしれないとぼんやり思いながら、なんで今自分はこんなところにいるのだろうかとため息をついた。
帰りの車内で、中川さんから電話がかかってきた。
「大丈夫か?」と中川さんに聞かれ、「はい」と答えて電話を切った。
「誰から?」と石崎教授に聞かれ、「中川先生です」と答えると、教授は大慌てしていた。
自分の部屋のテーブルに本を広げ、勉強しようとした。でも、すぐに止めた。どうしてこんなことになったのだろうと落胆する心の底では、あの男たちを内部から破壊してやりたいというような、どす黒い気持ちが渦巻いていた。
自分が得体のしれない何かになった気がしていたが、認めたくなかった。
誠実でない相手に対して、誠実に向き合ったらいいように扱われるだけだから、自分で見極めて行動すればそれでいいじゃないか。
そんな声も聞こえてきたが、それは自分らしくない気がしていた。きちんと俯瞰しなければならないが、今は自分と向き合える気力がなかった。
どこか遠くへ行きたい。
ちょうどそんな時だった。
「花火を見に行きませんか」と研修医一年目の斎藤君が誘ってきた。
何も知らない彼を巻き込んではいけないと心は忠告していた。
でも、少し気楽にとらえてもいいのではないかとも思った。
斎藤君は、子供のように無邪気だから私と似ているかもしれない。嘘や欲に満ちた会話じゃなくて、純粋な楽しい会話がしたかった。私は花火を見に行くことにした。
蛇行する山道を走る車内で、斎藤君がおすすめする音楽を聴きながら、久しぶりに楽しいと思えた。
しばらくすると、疲れが溜まっていたせいか車酔いしてしまい、私は座席シートを少し倒して休ませてもらった。
斎藤君は「僕のことは気にしないで休んでください」と言い、オーディオの音量を小さくして空調を整えてくれた。
少し開いた窓から山の空気が入り込んで、深呼吸すると生き返ったような気がした。
ヘアピンカーブが二か所ほどあったが、斎藤君は慎重に運転していた。それを見て、人を大切にするというのはこういうことなのかもしれないと思った後、彼の何気ない一挙一動にいちいち感動する自分は、どれだけ病んでいるのだろうと自嘲した。
紺色の空に美しい花火が上がっていた。暗い山腹には大文字焼が見えた。
霊の冥福を祈る送り火を眺めながら、気が付くと、「どうか私の抱えている問題を解決させてください」と祈っていた。
マンションの前まで送ってくれた斎藤君にお礼を言って、車を降りようとした時だった。斎藤君が私の腕を引っ張ってキスをした。
私はいつになったら学ぶのだろう。
すぐに引き離して別れたが、やっぱり行くべきではなかったと後悔した。
翌日、同期から「斎藤君とキスしたの」と聞かれ、私は「顎辺りに無理やりされた」と答えた。
斎藤君に勝手に期待した自分が悪いのはわかっているが、男はなぜ言いふらす癖があるのだろうと思った。
この頃の私の悩みは、石崎教授からの呼び出しだった。たわいのない会話しかしていないが、研修とは無関係な教授室に出入りする私を、周りが放っておくはずがない。何かしらの噂は立っているだろうと推測された。
でも、まあいいか。よく知りもしない他人に大切なことを相談してはいけないと、勉強になったから今後の教訓にしよう。
私の中で、常に自分を励ますもう一人の自分がいて、
「大事なことだけ見ていればいい。後は放っておけ」
と言っていた。
実際、勉強することは山ほどあり、こんなしがらみなどにかまっている暇はなかった。
たまに時間が空いている時は、中川さんと漫画喫茶に行くようになっていた。漫画喫茶なら、強引に何かをされる心配もない。石崎教授から呼び出されるようになってからは、中川さんは私の協力者となった。
本末転倒だが、こうなってはこの人からの情報がなければ、教授に太刀打ちできない。教授の愛人に成り下がる危険性があった。
私は、聞きたいことを中川さんから聞き出して、彼からの聞きたくもないような話は無視して漫画を読んだ。
「利用されているように感じる」
と中川さんは言ったが、その通りだった。
「石崎教授から『今度の週末に出かけましょう』と言われました。どう対処したらよいでしょうか」
私の考えが通用しない「男」という生き物については、同類に聞くほうが正しい対処法を知ることができるはずだ。
「いつまでも断り続けるわけにもいかないから、一度は行ってみろ。あいつは雅な生まれだから突然襲うことはないだろうけど、一応ジーンズを履いて行け」
と、中川さんは私に言った。
石崎教授の車がマンションの前に着いて、車に乗るとにこやかな表情で出迎えられた。
どういう育ちをすれば、表面は爽やかに、内側はしたたかになれるのだろうと考えてから、まあ今ここにいる自分も似たようなものかなと思った。
ただし、石崎教授と私とでは大きな違いがある。教授の悪いところは、嘘や金や権力を使って人を意図的にコントロールしようとするところだ。
しばらくすると、車が高速道路に入った。
「どこへ向かっているのですか」と私が聞くと、「隣の県に美味しいものを食べに連れて行ってあげる」と石崎教授は笑った。
他人から目撃されるのを怖れて、遠い土地に向かっているのでしょう?
心の中で教授を冷笑している自分がいた。
食事は高級そうなホテルの最上階にあるレストランでとった。私はジーンズを履いたまま、そのレストランに入店した。明らかに場違いで恥ずかしいが、逆に誤解を防げるのかもしれないとぼんやり思いながら、なんで今自分はこんなところにいるのだろうかとため息をついた。
帰りの車内で、中川さんから電話がかかってきた。
「大丈夫か?」と中川さんに聞かれ、「はい」と答えて電話を切った。
「誰から?」と石崎教授に聞かれ、「中川先生です」と答えると、教授は大慌てしていた。
自分の部屋のテーブルに本を広げ、勉強しようとした。でも、すぐに止めた。どうしてこんなことになったのだろうと落胆する心の底では、あの男たちを内部から破壊してやりたいというような、どす黒い気持ちが渦巻いていた。
自分が得体のしれない何かになった気がしていたが、認めたくなかった。
誠実でない相手に対して、誠実に向き合ったらいいように扱われるだけだから、自分で見極めて行動すればそれでいいじゃないか。
そんな声も聞こえてきたが、それは自分らしくない気がしていた。きちんと俯瞰しなければならないが、今は自分と向き合える気力がなかった。
どこか遠くへ行きたい。
ちょうどそんな時だった。
「花火を見に行きませんか」と研修医一年目の斎藤君が誘ってきた。
何も知らない彼を巻き込んではいけないと心は忠告していた。
でも、少し気楽にとらえてもいいのではないかとも思った。
斎藤君は、子供のように無邪気だから私と似ているかもしれない。嘘や欲に満ちた会話じゃなくて、純粋な楽しい会話がしたかった。私は花火を見に行くことにした。
蛇行する山道を走る車内で、斎藤君がおすすめする音楽を聴きながら、久しぶりに楽しいと思えた。
しばらくすると、疲れが溜まっていたせいか車酔いしてしまい、私は座席シートを少し倒して休ませてもらった。
斎藤君は「僕のことは気にしないで休んでください」と言い、オーディオの音量を小さくして空調を整えてくれた。
少し開いた窓から山の空気が入り込んで、深呼吸すると生き返ったような気がした。
ヘアピンカーブが二か所ほどあったが、斎藤君は慎重に運転していた。それを見て、人を大切にするというのはこういうことなのかもしれないと思った後、彼の何気ない一挙一動にいちいち感動する自分は、どれだけ病んでいるのだろうと自嘲した。
紺色の空に美しい花火が上がっていた。暗い山腹には大文字焼が見えた。
霊の冥福を祈る送り火を眺めながら、気が付くと、「どうか私の抱えている問題を解決させてください」と祈っていた。
マンションの前まで送ってくれた斎藤君にお礼を言って、車を降りようとした時だった。斎藤君が私の腕を引っ張ってキスをした。
私はいつになったら学ぶのだろう。
すぐに引き離して別れたが、やっぱり行くべきではなかったと後悔した。
翌日、同期から「斎藤君とキスしたの」と聞かれ、私は「顎辺りに無理やりされた」と答えた。
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