苺クライシス

江 琉太

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第13話

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 キッチンで洗い物をしていた。いつの間にか部屋に入り込んだ蚊が、私の周りを揺れながら飛んでいた。
 無性に腹が立った。蚊がシンクの淵に止まった一瞬の隙をついて、私は手についていた泡を上から落とした。
 泡は蚊を捕らえた。
 細い脚を伸ばして、蚊は泡から抜け出そうともがいていた。しかし、程なくして脚をたたんで動かなくなり、白い泡の中で黒点となった。
 手でたたいて一思いに殺してやればいいものを。
 私は自分の手が汚れることを怖れていた。蚊のちぎれた脚や過去に吸った誰かの血が、自分の皮膚に着くのが嫌だった。
 私はずるくて残酷なやつだ。

 久しぶりに万里子に電話しようと思った。院内での噂はきっと万里子の耳にも入っているだろう。もしかしたら蔑まれるかもしれない。
 何を言われても、万里子からの言葉なら受け止めるしかない。親友に電話するだけなのに、緊張して手が震えた。私は完全に自信を無くしていた。

「もしもし、ごめん。今話せる?」
「萌ちゃん、久しぶりだね。大丈夫だよん」

 だよん、なんて万里子は普段言わない。気をつかわせてしまっていることを、申し訳なく思った。

「私、もうどうしたらいいかわからない」
「これから萌ちゃんの家に行こうか?」
「ううん、大丈夫」

 これ以上、万里子に迷惑はかけられない。それに、己の醜さに打ちのめされた姿なんて人に見せられたものではなかった。

「万里子は、こんな変な女とよく友達でいられるね」
 声が震えた。
「萌ちゃんは何も変わってないよ」
 心配そうな万里子の声が聞こえる。

「私は自分を軽蔑するよ」
 万里子が言わないのなら自分で言うしかない。
「自分を悪く言わないで」
 万里子はいつだって優しい。

「でも、私の対処が悪かったせいで苦しんでいる人がいる」
 考えないようにしていたが、ずっと気になっていた。
「萌ちゃんは一人で抱え込みすぎだよ。そんなに頑張らなくていいから」

 万里子の一言によって、涙腺が崩壊した。泣きたくもないのに、たまった水は一度あふれたら流れきるまで制御できないようだった。
 泣けるだけ泣いたら、全てがどうでもよくなった。鼻をかんで、丸めたティッシュをゴミ箱に向かって放り投げた。

「自分でこじらせてしまったけど、面倒くさいことになった」
 本音とともに、ため息が出た。
「それだけこじれたら、萌ちゃん一人で解決しようなんて無理でしょう。前期研修が終わったら附属病院から出て、新しい場所でスタートしてもいいと思うよ。私は三年目からは別の病院で頑張ろうって思ってる。萌ちゃんも一緒のところで働くっていうのもありじゃない?」

 万里子がいてくれて本当に良かった。これから先、万里子にもしも辛いことがあったら、こんな風に話を聞いてあげられるような友人でありたいと思った。

「そうだね。私も新しい場所を探してみるよ。移動するなら備えないといけないね。ちょっと気になってたんだけど、万里子が以前話していたSNSの彼はどうだったの?」

「あれね、会ってみたら写真と全然違っててさ、話してみても何か違ったからすぐにお別れしたよ。やっぱり人って会ってみないとわからないものだね」

「本当にそうだね」

 私は次年度からの新しい勤務先を探すと同時に、自分を徹底的に俯瞰する期間を設けた。
 まずは、これまでの自分の行動を振り返り、間違いだったと思うことを紙に書き出す作業を始めた。
 また、書き出した事柄の横に矢印を引いて、そこから学んだこともきちんと書くようにした。そうしないと、せっかくの失敗を無駄にしてしまう。
 いくつか書いていくうちに、全てに共通している自分の悪いところがみえてきた。
 私の悪いところは、性善説に基づいて人を見ていることだ。一見、信じやすくて純粋なようだが、相手に善い行いを勝手に期待しているという点では、甘えに近いのかもしれない。
 相手との距離感をはっきりさせて、毅然とした態度をとるべきところではとらないと、自分にとっても相手にとってもよくない。
 それから、話をしている時に怒りを感じると、話し合うことを放棄してしまうのも悪いところだ。挑発されて相手に乗せられかねない。
 全ての感情は自分の中にしまっておいて、相手の話に耳を傾け、意図を探り、話の筋を通さなければ、この状況を突破することはできない。
 あの男たちについても考えた。わかりきったことだが、彼らは、私を好きなのではない。恋をしている自分が好きなのだ。
 これからどのように行動しようかと思った時、私にある考えが浮かんだ。
 教授に相談して失敗した経験から、他人に助けを求めるという選択肢は私の中になかった。
 今さら助けを求めても、誰も私の話を信じてくれないだろう。自分が傷ついて終わるだけだし、なにより自分で彼らに対し、決着をつけたい。
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