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【12】-2
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上沢の家に戻ると、スケッチブックを手にして庭に出た。
急ぎの仕事はだいたい片付いている。
青いベンチに腰を下ろして、春の気配を含んだ日差しに薄く目を細める。芽吹く前の葉のない枝の間から、生まれたばかりの光がさらさらと零れ落ちていた。
目を閉じれば銀色の光を放って咲き誇る淡い色の花が浮かんだ。
(恋……)
唇に指を当てると、何度も教えられた甘い感触がよみがえる。
清正のキス。
しっとりと触れて、慄くように離れていった十五歳の夢の記憶。指の下に残る確かな感触が、それと重なる。
薔薇の下。
そこには小さな棘に包まれた記憶があった。罪に似たその棘で、長い間封じられてきた扉の鍵を、ゆっくりと開く。
――あれは、夢ではなかったのかもしれない……。
降るように咲くアンジェラの下の短い口づけ。
鼻の奥がつんと痛んで、瞬きすると涙が零れた。スケッチブックの表紙の上にポトリと一つ、丸い染みが広がった。
「清正……」
ふいに、松井に改変された照明器具の鋭い角が頭に浮かんだ。もし、また……、と思うと顔が歪む。
また、あんなふうに壊されたら。
考えるそばから、心が凍り付いた。
あんなふうに殺されるために、光はあれを生み出したのではない。
硝子で作られた重い照明器具を思い浮かべる度、今も悔しさがよみがえる。忘れることなどできない。熾火のようなこの怒りは、おそらく一生消えないだろう。
あれ以来、仕事に向き合う時は努めてこの黒い火を忘れるようにしてきた。
また壊されるかもしれないという恐怖は、まわりが思う以上にモノを作る人間の心を蝕む。
その恐怖と闘い、あるいは慎重に目を逸らしながら、デザインに集中するよう努めてきた。
光はプロだ。
何があってもデザインを生み出さなければならない。
今度も……。
胸に手を当てて目を閉じた。ここにあるものを壊されたら、光は死んでしまうだろう。
きっと、生きられない。
生きられない。
怖い、と思った。
同時に「恐れるな」と自分を奮い立たせる声が、同じ場所から聞こえてきた。
一番柔らかく、傷つきやすい場所にあるもの。
それを、捉えなければならない時が来た。
光が知る、この世で一番美しいものを。
「清正……」
――おまえが、好きだ。
Under the Rose――。
薔薇の下には秘密が隠されている。
胸の奥深く、閉ざされていた秘密の扉が、今、開き始める。
決して名前を付けてはいけないと戒め、恐れ、隠し、ないものとして扱ってきた想いが、明るい日差しの下に姿を現す。
胸の痛み。
咲き誇るアンジェラ。
やわらかな風を受けて、踊りながら零れ落ちる銀色の光と淡いピンクの花びら。
その想いに、光は名前を付けた。
「恋」と……。
スケッチブックを開いて一本の線を引く。
後はただ、心のままに鉛筆を走らせた。
締め切りが近づいている。残り一ヶ月足らずでデザインを起こし、いくつかの試作品を作り、プレゼンボードを作成しなければならない。
頭の中にはすでに形があった。鉛筆を動かしながら、制作に必要な材料と試作を頼める職人のリストを思い浮かべ、スケジュールを組んでいく。
恐れは、常に胸の奥で牙をむく。
モノを創るためには、自分の一部を切り取って差し出さなければならない。
血を捧げねばならない。
商品としての作品を創ることは子どもを育てることとも似ている。やがて自分の手を離れ、世の中に送り出されることを前提に、手放すために育てる。
自分の手の中にあるにもかかわらず、それは自分のものですらない。
それでいて、傷つけられれば、自分が傷を受ける以上に深い痛みを覚える。
白い紙の上に形が浮かび上がる。
ここにあるのは光の一部ではなく、光の全てだと思った。
身体の中心に通る一本の芯。
光の魂そのもの。
これを壊された時、光は本当に死んでしまうだろう。
急ぎの仕事はだいたい片付いている。
青いベンチに腰を下ろして、春の気配を含んだ日差しに薄く目を細める。芽吹く前の葉のない枝の間から、生まれたばかりの光がさらさらと零れ落ちていた。
目を閉じれば銀色の光を放って咲き誇る淡い色の花が浮かんだ。
(恋……)
唇に指を当てると、何度も教えられた甘い感触がよみがえる。
清正のキス。
しっとりと触れて、慄くように離れていった十五歳の夢の記憶。指の下に残る確かな感触が、それと重なる。
薔薇の下。
そこには小さな棘に包まれた記憶があった。罪に似たその棘で、長い間封じられてきた扉の鍵を、ゆっくりと開く。
――あれは、夢ではなかったのかもしれない……。
降るように咲くアンジェラの下の短い口づけ。
鼻の奥がつんと痛んで、瞬きすると涙が零れた。スケッチブックの表紙の上にポトリと一つ、丸い染みが広がった。
「清正……」
ふいに、松井に改変された照明器具の鋭い角が頭に浮かんだ。もし、また……、と思うと顔が歪む。
また、あんなふうに壊されたら。
考えるそばから、心が凍り付いた。
あんなふうに殺されるために、光はあれを生み出したのではない。
硝子で作られた重い照明器具を思い浮かべる度、今も悔しさがよみがえる。忘れることなどできない。熾火のようなこの怒りは、おそらく一生消えないだろう。
あれ以来、仕事に向き合う時は努めてこの黒い火を忘れるようにしてきた。
また壊されるかもしれないという恐怖は、まわりが思う以上にモノを作る人間の心を蝕む。
その恐怖と闘い、あるいは慎重に目を逸らしながら、デザインに集中するよう努めてきた。
光はプロだ。
何があってもデザインを生み出さなければならない。
今度も……。
胸に手を当てて目を閉じた。ここにあるものを壊されたら、光は死んでしまうだろう。
きっと、生きられない。
生きられない。
怖い、と思った。
同時に「恐れるな」と自分を奮い立たせる声が、同じ場所から聞こえてきた。
一番柔らかく、傷つきやすい場所にあるもの。
それを、捉えなければならない時が来た。
光が知る、この世で一番美しいものを。
「清正……」
――おまえが、好きだ。
Under the Rose――。
薔薇の下には秘密が隠されている。
胸の奥深く、閉ざされていた秘密の扉が、今、開き始める。
決して名前を付けてはいけないと戒め、恐れ、隠し、ないものとして扱ってきた想いが、明るい日差しの下に姿を現す。
胸の痛み。
咲き誇るアンジェラ。
やわらかな風を受けて、踊りながら零れ落ちる銀色の光と淡いピンクの花びら。
その想いに、光は名前を付けた。
「恋」と……。
スケッチブックを開いて一本の線を引く。
後はただ、心のままに鉛筆を走らせた。
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恐れは、常に胸の奥で牙をむく。
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血を捧げねばならない。
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自分の手の中にあるにもかかわらず、それは自分のものですらない。
それでいて、傷つけられれば、自分が傷を受ける以上に深い痛みを覚える。
白い紙の上に形が浮かび上がる。
ここにあるのは光の一部ではなく、光の全てだと思った。
身体の中心に通る一本の芯。
光の魂そのもの。
これを壊された時、光は本当に死んでしまうだろう。
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