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38話 筆が止まった

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 ことりさんの筆が止まった。
 胸がキュンするとは何か、についてメッセージを交わした後からだ。私の中途半端な回答によって、ことりさんを悩ませてしまったのかもしれない。
 そう考えたのは、キュンについてのやりとりのあった翌日の夕方、こんなやりとりがあったからだ。
 
『僕は恋とか全くしてきてなくて、キュンが分からない自分が、なにか欠けた人間みたいに思えてきました。そんななかで、書けるんでしょうか』

 恋をしてきていないのは私もです! と返そうとして、いや、と思いとどまった。分からない同士の慰め合いをしても何も有益なことがない。
 今日、高野先輩に教わったことを伝えたらいいじゃないか。そう思ったのだ。

「ええと、なんだっけ、不・意・打・ち・に・か・っ・こ・い・い・所とか……と」

 そう私が送った後、彼の筆は止まってしまったのだ。
 今日も書けませんでした、という彼のメッセージから、焦りだけが伝わってくる。週末を挟んで、翌週になっても状況は変わらなかった。
 段々と、私からの連絡も減っていく。
 九月の決算に向けてことりさんの仕事も忙しそうだし、書けないときに進捗の確認をされるのは、プレッシャー以外の何ものでもないだろうから。
 起死回生の一手が欲しい。そう思いながら、私は、既に書き上げられている部分を繰り返し読んで、より細かい修正点を探していた。

 そこで、以前に自分が入れた指摘コメントに当たったのだ。
 ヒロインの相手役、天馬てんまくんの通う寄宿制の神学校についてのコメントだ。

『具体的な建物の描写がほしいです ※要資料』

 確かに自分で入れたコメントなのに、後回しにしているうちに資料探しなどすっかり頭から抜けていた。

「資料、でも良いんだけど、出来れば取材に行けるのが一番いいよね。写真も撮れて、雰囲気も肌で感じられて……」

 すぐに検索窓をひらくと、私はすぐに行ける範囲内でモデルに出来るような建物が無いか探し始めた。
 そして見つけたのは、神智大学の神学部。大学だけれど、構内を歩いて学生の様子も知れるだろうし、建物自体も歴史があって見学のしがいがありそうだ。それに、敷地内には当然教会もある。
 書けないとなったら、取材で気分を変えてみるのも手かもしれない。
 少なくとも、建物の描写については追加できるし、それはキュン問題とは関係が無い部分だ。

 さっそく私は、彼の予定を確認するメッセージを送る。
 大学側のお問い合わせ窓口にもメールを送信する。
 動けるところから、動いていかなくては。応募締切まで、残りあと一ヶ月を切っているのだ。

 *

 その週の土曜日の夕方。私とことりさんは、神智大学の構内を歩いていた。
 首からは来館者カードを下げ、学生を写さないという注意を守りながら、校舎の装飾などを写真におさめて歩く。
 
「凄いですね、歴史のある大学って感じがします」

 待ち合わせ時には元気のなかったことりさんも、クラシカルな造りの建物に感心したようで、積極的にメモを取ったり写真を撮ったりと忙しい。
 
「次は、教会に行ってみます? ラストのエピソードに関わってくるので、見ておくと良いかと」

「そうですね、構内は大体撮れたかな、あ、階段! 階段だけ撮りますね! 雰囲気見たいんで、鹿ノ子さん下から見上げるみたいにして立てます?」
 
「りょーかいでーす」

 思ったよりも浮かれた声が出てしまった。
 ずっと作品のやりとりばかりしていたので、私の側もいい気分転換になっているらしい。
 何枚か写真を撮って、私たちは校舎を後にした。
 画角を指定するってことは、ことりさんの中でまた、物語が具体的な輪郭をもって見えてきているのかもしれない。
 これでスランプから復活してくれたらいいなあ、なんて思いながら木立に囲まれた細い道を歩いているときだった。
 パシャ、と後ろから、シャッターの音がする。
 思わず振り向くと、もう一度、パシャ、と鳴る。

 撮影していたのは、ことりさんだ。

「すみません、すごくいいだったので」

 恐縮することりさんを見て、私の心臓が今までにない動きをした。
 もしかしたら、キュン、というものかもしれない。なんて考えて、いやいやいや、と打ち消す。
 右手で「違う」のジェスチャーをしている私を見て、ことりさんがますます恐縮する。

「消しますね、勝手に撮っちゃったんで。ホントすみません」

「あ、違うんです! イメージ広げるお手伝いになるなら全然いいんです! この右手の動きは別の理由で! ほんとに別の!」

「ならいいんですけど……」

 そんなやり取りをしながら細い道を抜けた先、小さな、古い教会が見えた。
 扉は開け放たれていて、外には開館時間が書かれている。開館時間内なら、自由に入って良いようだ。
 カメラマークに赤いバツが描かれている。撮影は禁止らしい。

 磨かれた木の床を歩き、薄暗い教会の奥に進む。壁にはキリストの受難の絵が描かれていて、不信心な私からするとちょっとグロテスクに思えるものもある。
 先に進むと、一番奥には講壇こうだんがある。神父さんが立って説教する場所だ。

「撮影出来ないから、スケッチします」

 そう言ってことりさんが、ずらりと並ぶ木製のベンチのうち、教会の真ん中あたりにあるものに腰掛ける。
 自然に、私もその隣に座ることになった。
 窓から差し込む光は、だいだいの色を帯びてきている。
 隣から、ノートにペンを走らせる音が聞こえてくる。文字を書くのと違って、一本一本に長さのある線を引いていく音は気持ちがいい。
 一定のリズムを刻む、しゅー、しゅ、しゅ、という音を聞いていると、私の頭が揺れ始める。座った途端に、疲労と眠気が一気に襲ってきたのだ。
 
 船を漕ぎ始める寸前の私の隣で、ノートに視線を落としたまま、ことりさんが呟いた。

「これまでが順調すぎたんです。恋を知らないってことに、気付くのが遅すぎた。キュンも知らない僕が、この作品を書き続けられるのか自信が無い」

「ん、でも、人間がちゃんと書けて、れると、思いましたよぉ。肛虐のやつもぉ」

 怪しくなった呂律で、そう答える。

「あれは想像と、それから、借り物です。父の作品とか、他の作品とか、そういうものからの。キュンを体感している鹿ノ子さんとは違うんです」

「えええ、私、キュン分かってないれすよ。あれはぁ、先輩の、うけうりで、れる……」

 そう伝えたところまでは、覚えている。
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