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47話 最終選考作品

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「さ、最終選考に、残りました……!」

 ことりさんからそんな電話を受けたのは、二月の半ばのある金曜日のことだった。


 
 
 その日私は、ことりさんからの着信を放置して、三時間の残業をこなし、電車に揺られて夜の十時に帰宅した。ことりさんの電話は午後三時から始まり、几帳面に一時間おきに有った。
 靴を脱いでコートを掛けると、そのまま洗面所に行きお風呂のお湯はりのスイッチを押して、手を洗う。それからエアコンを付けて、ケトルのスイッチを入れる。部屋が暖まるまでは、ソファの上に丸めてあるブランケットにくるまって耐える。
 ここまでは、外出から戻った際に無意識で行われている一連の動作。
 いつもならもう一つ、ルーティンとして行っていることがあって、さらに深い意識レベルで行われている。なにかというと、プライベートのスマートフォンを見ること。なんだったら、帰りの電車でもずっと見ているそれを、今日はバッグの奥にしまいっぱなしにしてある。バッグは、部屋の隅に放られている。
 ケトルが沸いたところで、白湯を飲むか一瞬迷って、貰い物のハーブティーを選択する。ハーブティーに詳しくないけれど、カモミールとティーバッグに書かれているし、多分気持ちを落ち着ける効果があるはずだ。そう信じて、花を薄めたみたいな、果たしてこれを「ティー」と呼ぶのか、みたいな飲み慣れない液体をすする。すすりながら、バッグからスマートフォンを取り出す。
 心なしか、いつもよりも重さを感じる。

 すう、はあ、と深呼吸をして、 画面をタップ。メッセージアプリを起動する。メッセージの送信先はことりさん。アイコンは、モーミンのぬいぐるみから、白い帆船に変わっている。

『なにかありましたか? すみません、仕事が忙しくて出られませんでした』

 白々しい一文を打つのに、書いては消しを繰り返したせいで数分もの時間を要した。多分もうすぐ、お風呂が沸く。
 画面から目を離す隙もなく、既読がつく。そこから間断を許さずに着信があり、着信を告げる画面にスマートフォンの液晶いっぱいに広がる。
 手の中の機械の振動が私を急かす。早く、早く、早く私に伝えたいと。
 彼が伝えたいことは分かっていた。

「はい、もしもし。どうしました?」

 受話器のアイコンを上げて、そう言い終えるかどうかというところで、被さり気味にことりさんの声が返ってくる。

「さ、最終選考に、残りました……!」

 ――知っている。だって私はリリン編集部員だから。
 なんなら、高野先輩が今日その連絡をするところも隣で見ていた。午後三時前頃の出来事だ。
 高野先輩はトレーナー。私はトレーニー。だから、今後のためにと隣で見ていた。受話器から漏れ聞こえる、ことりさんの反応も全部知っている。
 始めは、何の話か分からないように間の抜けた声を返し、次に、移動します、とバタバタと音をさせ、その後には本当ですか? を繰り返し、最後にお礼の言葉をこれまた何度も繰り返した。
 淡々と、選考結果が出るまでの注意事項などを伝える高野先輩の隣で、ことりさんがもし受賞したら、ことりさんをことり先生と呼んで連絡を取り合うのは、高野先輩になるんだろうなあなんて考えていた。

 私だって、嬉しいのは嬉しい。
 でも、胸に小さな穴が空いて、そこから少しずつ砕けた貝殻みたいなものがさらさらと抜け落ちていくような感覚もあった。
 高野先輩の電話が終わってすぐ、私のプライベート用のスマートフォンが少し離れた私のデスクの上で震えた。

「出てきてもいいよ、きっと彼でしょ!」

 先輩が気を利かせて言ってくれるのを、「業務中なんで大丈夫です」と答えたときの私の顔は、きっとすごく落ち込んでいた。自分でも、どうしてそんな気持ちになるのか分からないけれど、私が担当させてもらえるかも、なんて期待があったのかもしれない。

 二人の夢を乗せたことりさんの作品は、高いところまで飛んでいった。
 私のおせっかいな連絡から端を発した、ことりさんの断筆危機も去ったし、書くことを諦めた私の亡霊コンプレックスも祓われた。それなのに、人間って……じゃないや、私って、なんて欲深いんだろう。
 素直にお祝いできなさそうな自分が、イヤだ。
 
 肩を落としているところで、椅子が九十度回転した。私の背中が、高野先輩に向けられる形になる。丸まった背中に高野先輩の小さな手が、バンバン! といささか乱暴に当てられた。
 
「あー、燃え尽きてますねえ。肩甲骨が炭になってますねえ。これは高野式の素人ストレッチじゃなんともならないかなあ」
 
「燃え尽き、ですか」

 そう呟くと、私の肩甲骨の下をぐいぐいと押しながら、高野先輩が言った。

「そ。ちょっと落ち着くまで、時間を置いたほうがいいかもね。鹿ノ子ちゃんの立場から、彼に何て言うべきか分かる?」

「おつかれさまでした、とかですかね」

「ちがーう!」

 高野先輩の声とともに、中指の第二関節を曲げているらしい拳が、こわばった背中の筋肉に突き刺さる。

いたっ!」

 私が抗議の声をあげるのに構わず、今度は両の拳でドスドスと背中を突かれる。え、ちがうってどういうこと? おつかれさまですは万能なはず!
 
「他人行儀をやめなさい! これは鹿ノ子ちゃんの作品でもあるんだからね! ちゃんと返事を考えること!」

 そう言って、とどめとばかりにもう一度、ドス! と私の背中に拳を入れた高野先輩は、煙草休憩ならぬヨガポージング休憩に入ってしまったのだった。



 
「……さん? 鹿ノ子さん? すみませんご都合悪かったですかね?」

 ことりさんの声で、ふっと私の意識が戻る。そうだ、半日近くかけて考えた、私が返すべき言葉。

「やりましたね。二人で、やれましたね」

「はい! なんていうか、もうここまでこれたら、満足です。今でも夢みたいですから。鹿ノ子さんのおかげです」

「ことりさんが書いたんですよ。ことりさんの力です。ちょっとお節介をさせてもらっただけです。それに……」

 そこまで言って、息がつまる。
 
「鹿ノ子さん?」

 ことりさんが、心配げな声を差し挟む。
 飲む気のわかないハーブティを入れたカップのふちを指でなぞりながら、私は言葉を続けた。

「……それに、最終選考まで残ったってことは、これから担当者がつきますね。今日電話をした、高野先輩になるんじゃないかな? おめでとうございます。半人前以下の私でも、ことりさん――いえ、ことり先生に伴走できて、勉強になりました。ありがとうございます」

 なんとかそこまで言って、通話を切った。
 あれだけ求めていた『結果』がすぐそこまで迫っている。それなのに、私はことりさんともう走れないことが、ことりさんの横でお節介を焼く理由が無くなりそうなことが、どうしようもなく虚しかった。

 お風呂がわきました。お風呂がわきました。
 
 給湯器がお風呂のお湯が沸いたことを、人工的な音声で知らせている。
 でも私は、その場でブランケットにくるまったまま、しばらく動けなかった。
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