【完結】自傷探偵と日南くん。〜ときどき幽霊〜

ep19.向かいの女

　それにしても、なんで姉の名前を。
　俺は斜め後ろの会話に聞き耳を立てる。葛西は誰かと話しているようだが、彼の向かいには誰もいない。オレンジジュースがそこにある、それだけだ。
「……キミを裏切ったのは悪いと思っている。でも、今は新くんがいるから無理だ」
（俺の名前が出てきた）
「…………芽衣子、じゃあどうしたらキミは納得してくれるんだ」
　やっぱり、聞き間違いではなかった。でも相手は不在。いつもの病気か何かだろうか？
　でもどうして姉の事を？　姉と葛西は面識はない。やっぱりいつもの病気だろう。姉の事を調べているうちに幻覚でも見るようになったか。
「……それは何回もやっただろう。無理だよ、何回やっても死ねない」
（物騒なこと言いだしたな）
「…………わかった、わかったよ。でももう少し待ってくれ、新くんに……」
（また俺の話してる）
　その時だった。
「——っ⁉」
　ありえないものを見てしまった、と声を出しそうになる口を手で塞いでどうにか声を殺した。だって、だって、向かいには誰もいないのに。
「お、お客様！　お怪我ありませんか⁉」
　床に広がったオレンジジュースの海を女性店員がモップを持って拭う。割れたグラスが射した日光に反射してキラキラと輝いている。
「す、すみません」
　ハンカチでテーブルの上を拭く葛西の腕が席から見える。
（……今の、見間違いじゃないよな）
　俺の目がおかしくなければ。
　——あのグラスは、誰も触っていないのに倒れた。
「……本当にすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。いつもお連れ様とご利用ありがとうございます」
「あ……、すみません……」
　葛西と店員の話し声が聞こえてくる。あれから度々、葛西はここに来ているのか？
（でもお連れ様って言ってたよな……？）
　葛西はひとりのはずだ。何度確認しても向かいには誰もいない。俺の認識がおかしいのだろうか？
　そう色々考えているうちに、掃除は終わったようで女性店員がバックに下がり別の店員が新しいオレンジジュースを持ってくる。新人らしい男性店員はこわばった表情でテーブルにオレンジジュースを置き、逃げるように去っていった。
「……物にあたらないでくれ、芽衣子」
　葛西はそうため息を吐いた。それが耳を通り過ぎるほど、奇怪な現象が目の前で起きている。
　先ほど、男性店員が持ってきたオレンジジュースは、一度瞬きをするうちに氷だけを残して空になっていた。