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きっとそれは最期の、
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ダンスパーティー当日の業務はそれはつまらないものだった。何しろ食事などの配膳は給仕の担当の仕事だ。だから幸太郎の仕事なんてものはほぼないに等しい。することと言ったら主人の品位を下げないようにきちんと立っていることだけ。それも伊藤が「気疲れするでしょう」と代わってくれて、バルコニーで隠れて休むことが出来た。
「何してるの」
「ご主人様」
伊藤から聞いたのだろう、時嗣がバルコニーにやってくる。業務は終わったのだろうか。バルコニーに二人きりになると、時嗣は不服そうに顔を歪ませた。
「幸太郎は僕だけのなのに、みんな執事さん可愛いわねって言う」
あまりに緊張していた幸太郎にご婦人方が声をかけてくれたりした。既に忘れたい記憶だが、時嗣には別の様に見えたのだろう。
「心配しなくても誰も取りませんよ。俺は貴方だけのモノです」
そう言うと時嗣は一度思考を停止させた後、言葉を脳内で噛み砕いて意味を理解したのか、かあっと顔を赤くした。
「……案外嫉妬深いんですね」
「…………嫉妬深い男は嫌い?」
「ご主人様は例外です」
夜風が二人の間を通った。
身体が無駄に強い俺はまだしも、時嗣はこのままじゃ風邪をひいてしまうかもしれない、そう思った幸太郎は時嗣の肩を抱いて「戻りましょう」と声をかけた。
だがそれは悪手だったとすぐに気づく。ふいに近づいた顔にやばい、と思った時には遅かった。唇を塞がれたのは数秒にも満たなかったが、ここは公共の場と言っても差し支えない。いつ誰が見てもアウトな状況に内心で冷や汗がダラダラと流れ出る。櫻木家の子が使用人、しかも男と関係を持っているなんて知れたら大ごとだ。
「……バレたらもう二度と会えなくなってしまいますよ」
それは時嗣もわかっているはず。それなのに自ら寿命を短くしていくのには理解しかねる。時嗣は一時の迷いにしても自分に悪い思いは抱いていないはずで、幸太郎が処分されることは彼の願うところではないだろうに。
「それなんだけど」
時嗣は呟くようにそう言って、その言葉は肌寒い冬の空に溶けていく。
「幸太郎はずっと僕の味方でいるって最初に言ってくれたよね? それは今も変わらない?」
「勿論です」
最初は、あの館で生き残るための口約束だった。
でも今は違う。一人の人間としての時嗣の成長を最期まで見届けてみたいと思う。がらにもなく情が湧いたと言えばそれまでだ。だけど、彼の幸せの為なら身を引き裂いてもいいと思うほどには「そう」なってしまったのは確かで、幸太郎は自分の中の変化に追いつけないほどに驚いていた。だって、誰も愛せなかった自分がこんな子供に絆されるなんて。人生何があるかわからない。その人生は遅かれ早かれ近々終わりを迎えるのだろうけれど。幸太郎だって、いくら馬鹿でもこの関係を永遠に隠し通せるほど自分達は器用ではないし、あの館も甘くないのはわかっている。だからそれまで。それまでは、彼の側で成長を見守らせてほしい。
それは人生で初めて、存在もしない神様に願ったことだった。
「幸太郎、あのね。もし嫌だったら嫌って言っていいんだけど……」
「俺が貴方に嫌なんて言ったことありますか?」
「これはメイドの幸太郎じゃなくて、一人の人間としての幸太郎に言ってるの。……あのね、もし僕が二十歳になったら、僕と一緒にあそこから逃げてほしい」
「逃げる? どこに?」
「どこでもいい。幸太郎と一緒なら」
夢物語だ。時嗣は政略結婚の道具。旦那様は時嗣が逃げ出すのを許しはしないだろう。そして誑かした自分のことも。でも、ここで彼の夢を否定するのはなんだか可愛そうな気がして、幸太郎は微笑みで答えた。
「俺は貴方と共にあります。もし、その時まで貴方の気持ちが変わらなければ、いつでもお供いたしますよ」
数年も経てば、忘れてしまう口約束かも知れない。
それでも、自分だけは覚えておこうと幸太郎は思った。
それは自分の命に関する事柄だからと言うこともあるけれど、今この時、そんな感情が彼の中に芽生えたことが、なによりも幸太郎にとって特別なことだから。
「だって俺は、ご主人様の味方ですから」
死刑宣告に変わりないと言うのに、不思議と心は満たされていた。
自分が一人の人間として見てもらえることがこんなにも嬉しいことなんて、こんなに心があったかくなるなんて、人生で初めて知った。
「味方。ねえ、幸太郎」
時嗣は幸太郎に応えづらい問題を投げかける。
「幸太郎は、僕の事好きじゃないでしょ」
「……好きの定義によるとしか」
苦肉の策でそう絞りきった言葉は時嗣を余計に苛立たせた様だった。
「はっきり言って良いよ」
「……」
「いつものご褒美もたかがキスだって思ってるでしょ。僕だってそのくらいわかるよ、もうすぐ大人だもん」
バレたか。数秒の沈黙の中身を察し、時嗣はまた不機嫌になった。
「……幸太郎は大人だから大したことないことかもしれないけどさ。僕にとってはキスだって、すっごくドキドキして、一世一代の、みたいなことなのに。なんかズルい」
「ご主人様……」
あぁ、どうして自分の主人はこんなにも可愛らしいのだろう。
下を向いていじけた様に呟いた時嗣の姿に胸の奥がぎゅっとなる。
「ご主人様。俺はご主人様の事、大好きですよ」
「幸太郎……」
キスされる雰囲気だな、と幸太郎は察した。近づく唇を人差し指で制止すると「ダメですよ」と笑う。
「ご主人様は勘違いしてらっしゃいます。ここには――……一般的な思考回路の女性はいませんし、学校にも行ったばかりで恋愛どころじゃないでしょう。婚約者はアレですし、きっと、それで消去法で俺になっただけです。ご主人様がバイであるなら、の話ですが。それこそご主人様くらいの歳の子供は友愛と性愛の勘違いがしやすいのですから」
すぐに好きな人なんて変わりますよ、そう頭を撫でると時嗣は強く手を払い叫んだ。
「幸太郎は何もわかってない!」
幸太郎は当然のことに目を丸くする。
肩で息をする時嗣は涙の膜を張った瞳で幸太郎に向き合った。
「なんで信じてくれないの⁉ 僕は幸太郎のことちゃんと好き! これは勘違いじゃない! それなのに否定ばっかりされて僕がどれだけ嫌だったかわかる?」
「ご主人様、落ち着いてくださ……」
「幸太郎は僕のでしょう⁉ だったら! 僕を好きになってよ……!」
ぽろりと、綺麗で澄んだ瞳から涙が一粒溢れた。
「……僕をまた、ひとりぼっちにしないで」
その表情は不安で、悲痛で、必死だった。
まるで、母親から引き剥がされる寸前の子供のような。いや、実際そうなんだろう。
時嗣にとって唯一のまともな人間である幸太郎が、どうしても自分の手に落ちてくれない。これでは自分の味方がいなくなってしまう。そうすれば自分はまたひとりぼっちだ、と。
「ご主人様。俺はずーっとご主人様の味方です。この先何があっても。あなたが本当に後悔しないなら、なんだってしてあげたい」
それは本心だ。
「……どうして」
「あなたがこの世界で初めて、俺を求めてくれたからです」
ずっといらない人間だと思ってた。
自分の人生すらどうでもよくなるくらいには。
「……貴方が求めるなら、恋人、という約束ですしセックスもやぶさかではありません。でも、勢いでそんなことしたらきっと後悔します。だから、それは――……貴方がもっと大きくなって、それこそ、いつか貴方がここが嫌になって俺を連れ出してくれた時に」
「……幸太郎の、ばか」
「なんとでも」
もし、その道を選ぶなら、一緒に居られるリミットはあと数年、それをこの子は知らなくていい。そのあと、自分がどうなるかも。
いつのまにか更生とはかけ離れた事に加担してしまっているな、と自嘲気味に笑う。婚約者と結婚させる為に雇われたのにその逃避行を自分から約束してしまってどうする。それでも、自分を拾ってくれた旦那様には悪いが、幸太郎はこの子の味方であり続けたいのだ。どうしてか、なんてのは過去の自分に聞けばいい。似ているのだ。過去の自分と。この子供にひとりぼっちの気持ちは味わいさせたくない。それから、大人に振り回される理不尽さも。
自分なんてどうでもよくて、死んだってよかった。
行くところなんかなかったから、ずっと終わりの日を待ってた。
それを変えてくれたのが、時嗣だった。
最初は「仕事だから」と放っておけなかった。それが婚約者の一件から「守ってあげなきゃ」になって、パーティの時に「この子の為ならなんだってする」に変わった。
そんなのは初めてだった。世界はいつだって自分に厳しくて、誰も、何も、愛してくれなかったくせに、あの子供だけを与えてくれた。
(あとすこし……)
自分は、いつか来るかもしれないその日の為に準備だけするだけだ。
どうなっても構わない。だけど、この子だけは何をしてでも守ろう。
バルコニーから見える星空に誓う。それに応えるようにポラリスは空の中で一等、眩しい輝きを放っていた。
「何してるの」
「ご主人様」
伊藤から聞いたのだろう、時嗣がバルコニーにやってくる。業務は終わったのだろうか。バルコニーに二人きりになると、時嗣は不服そうに顔を歪ませた。
「幸太郎は僕だけのなのに、みんな執事さん可愛いわねって言う」
あまりに緊張していた幸太郎にご婦人方が声をかけてくれたりした。既に忘れたい記憶だが、時嗣には別の様に見えたのだろう。
「心配しなくても誰も取りませんよ。俺は貴方だけのモノです」
そう言うと時嗣は一度思考を停止させた後、言葉を脳内で噛み砕いて意味を理解したのか、かあっと顔を赤くした。
「……案外嫉妬深いんですね」
「…………嫉妬深い男は嫌い?」
「ご主人様は例外です」
夜風が二人の間を通った。
身体が無駄に強い俺はまだしも、時嗣はこのままじゃ風邪をひいてしまうかもしれない、そう思った幸太郎は時嗣の肩を抱いて「戻りましょう」と声をかけた。
だがそれは悪手だったとすぐに気づく。ふいに近づいた顔にやばい、と思った時には遅かった。唇を塞がれたのは数秒にも満たなかったが、ここは公共の場と言っても差し支えない。いつ誰が見てもアウトな状況に内心で冷や汗がダラダラと流れ出る。櫻木家の子が使用人、しかも男と関係を持っているなんて知れたら大ごとだ。
「……バレたらもう二度と会えなくなってしまいますよ」
それは時嗣もわかっているはず。それなのに自ら寿命を短くしていくのには理解しかねる。時嗣は一時の迷いにしても自分に悪い思いは抱いていないはずで、幸太郎が処分されることは彼の願うところではないだろうに。
「それなんだけど」
時嗣は呟くようにそう言って、その言葉は肌寒い冬の空に溶けていく。
「幸太郎はずっと僕の味方でいるって最初に言ってくれたよね? それは今も変わらない?」
「勿論です」
最初は、あの館で生き残るための口約束だった。
でも今は違う。一人の人間としての時嗣の成長を最期まで見届けてみたいと思う。がらにもなく情が湧いたと言えばそれまでだ。だけど、彼の幸せの為なら身を引き裂いてもいいと思うほどには「そう」なってしまったのは確かで、幸太郎は自分の中の変化に追いつけないほどに驚いていた。だって、誰も愛せなかった自分がこんな子供に絆されるなんて。人生何があるかわからない。その人生は遅かれ早かれ近々終わりを迎えるのだろうけれど。幸太郎だって、いくら馬鹿でもこの関係を永遠に隠し通せるほど自分達は器用ではないし、あの館も甘くないのはわかっている。だからそれまで。それまでは、彼の側で成長を見守らせてほしい。
それは人生で初めて、存在もしない神様に願ったことだった。
「幸太郎、あのね。もし嫌だったら嫌って言っていいんだけど……」
「俺が貴方に嫌なんて言ったことありますか?」
「これはメイドの幸太郎じゃなくて、一人の人間としての幸太郎に言ってるの。……あのね、もし僕が二十歳になったら、僕と一緒にあそこから逃げてほしい」
「逃げる? どこに?」
「どこでもいい。幸太郎と一緒なら」
夢物語だ。時嗣は政略結婚の道具。旦那様は時嗣が逃げ出すのを許しはしないだろう。そして誑かした自分のことも。でも、ここで彼の夢を否定するのはなんだか可愛そうな気がして、幸太郎は微笑みで答えた。
「俺は貴方と共にあります。もし、その時まで貴方の気持ちが変わらなければ、いつでもお供いたしますよ」
数年も経てば、忘れてしまう口約束かも知れない。
それでも、自分だけは覚えておこうと幸太郎は思った。
それは自分の命に関する事柄だからと言うこともあるけれど、今この時、そんな感情が彼の中に芽生えたことが、なによりも幸太郎にとって特別なことだから。
「だって俺は、ご主人様の味方ですから」
死刑宣告に変わりないと言うのに、不思議と心は満たされていた。
自分が一人の人間として見てもらえることがこんなにも嬉しいことなんて、こんなに心があったかくなるなんて、人生で初めて知った。
「味方。ねえ、幸太郎」
時嗣は幸太郎に応えづらい問題を投げかける。
「幸太郎は、僕の事好きじゃないでしょ」
「……好きの定義によるとしか」
苦肉の策でそう絞りきった言葉は時嗣を余計に苛立たせた様だった。
「はっきり言って良いよ」
「……」
「いつものご褒美もたかがキスだって思ってるでしょ。僕だってそのくらいわかるよ、もうすぐ大人だもん」
バレたか。数秒の沈黙の中身を察し、時嗣はまた不機嫌になった。
「……幸太郎は大人だから大したことないことかもしれないけどさ。僕にとってはキスだって、すっごくドキドキして、一世一代の、みたいなことなのに。なんかズルい」
「ご主人様……」
あぁ、どうして自分の主人はこんなにも可愛らしいのだろう。
下を向いていじけた様に呟いた時嗣の姿に胸の奥がぎゅっとなる。
「ご主人様。俺はご主人様の事、大好きですよ」
「幸太郎……」
キスされる雰囲気だな、と幸太郎は察した。近づく唇を人差し指で制止すると「ダメですよ」と笑う。
「ご主人様は勘違いしてらっしゃいます。ここには――……一般的な思考回路の女性はいませんし、学校にも行ったばかりで恋愛どころじゃないでしょう。婚約者はアレですし、きっと、それで消去法で俺になっただけです。ご主人様がバイであるなら、の話ですが。それこそご主人様くらいの歳の子供は友愛と性愛の勘違いがしやすいのですから」
すぐに好きな人なんて変わりますよ、そう頭を撫でると時嗣は強く手を払い叫んだ。
「幸太郎は何もわかってない!」
幸太郎は当然のことに目を丸くする。
肩で息をする時嗣は涙の膜を張った瞳で幸太郎に向き合った。
「なんで信じてくれないの⁉ 僕は幸太郎のことちゃんと好き! これは勘違いじゃない! それなのに否定ばっかりされて僕がどれだけ嫌だったかわかる?」
「ご主人様、落ち着いてくださ……」
「幸太郎は僕のでしょう⁉ だったら! 僕を好きになってよ……!」
ぽろりと、綺麗で澄んだ瞳から涙が一粒溢れた。
「……僕をまた、ひとりぼっちにしないで」
その表情は不安で、悲痛で、必死だった。
まるで、母親から引き剥がされる寸前の子供のような。いや、実際そうなんだろう。
時嗣にとって唯一のまともな人間である幸太郎が、どうしても自分の手に落ちてくれない。これでは自分の味方がいなくなってしまう。そうすれば自分はまたひとりぼっちだ、と。
「ご主人様。俺はずーっとご主人様の味方です。この先何があっても。あなたが本当に後悔しないなら、なんだってしてあげたい」
それは本心だ。
「……どうして」
「あなたがこの世界で初めて、俺を求めてくれたからです」
ずっといらない人間だと思ってた。
自分の人生すらどうでもよくなるくらいには。
「……貴方が求めるなら、恋人、という約束ですしセックスもやぶさかではありません。でも、勢いでそんなことしたらきっと後悔します。だから、それは――……貴方がもっと大きくなって、それこそ、いつか貴方がここが嫌になって俺を連れ出してくれた時に」
「……幸太郎の、ばか」
「なんとでも」
もし、その道を選ぶなら、一緒に居られるリミットはあと数年、それをこの子は知らなくていい。そのあと、自分がどうなるかも。
いつのまにか更生とはかけ離れた事に加担してしまっているな、と自嘲気味に笑う。婚約者と結婚させる為に雇われたのにその逃避行を自分から約束してしまってどうする。それでも、自分を拾ってくれた旦那様には悪いが、幸太郎はこの子の味方であり続けたいのだ。どうしてか、なんてのは過去の自分に聞けばいい。似ているのだ。過去の自分と。この子供にひとりぼっちの気持ちは味わいさせたくない。それから、大人に振り回される理不尽さも。
自分なんてどうでもよくて、死んだってよかった。
行くところなんかなかったから、ずっと終わりの日を待ってた。
それを変えてくれたのが、時嗣だった。
最初は「仕事だから」と放っておけなかった。それが婚約者の一件から「守ってあげなきゃ」になって、パーティの時に「この子の為ならなんだってする」に変わった。
そんなのは初めてだった。世界はいつだって自分に厳しくて、誰も、何も、愛してくれなかったくせに、あの子供だけを与えてくれた。
(あとすこし……)
自分は、いつか来るかもしれないその日の為に準備だけするだけだ。
どうなっても構わない。だけど、この子だけは何をしてでも守ろう。
バルコニーから見える星空に誓う。それに応えるようにポラリスは空の中で一等、眩しい輝きを放っていた。
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