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連続殺人は一石四鳥
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今日は昨日と打って変わって、今日がこの冬でいちばんの寒さになっているようだ。スマホのニュースによると、都心でも最低気温が氷点下となり、最高気温も5度までしか上がらないという。それに曇りの天気予報どおり、どんよりした雲が澱(よど)むように立ち込めていて日差しを遮(さえぎ)っている。まさしく冷蔵庫の中にいるような寒さで、張り込み調査をする身にはとてもきつい。
みなみの住むマンションは、勇治の家から徒歩で五分という近さだった。五階建てのマンションはエントランスが道路に面していて、運がいいことに丁字(ていじ)路の正面だ。部屋のドアも、ドアに続く通路も道路から見えるので、部屋への出入りが容易に確認することができる。そのうえ、彼女の部屋は301号室、つまり三階の角部屋だ。ドアの隣には窓だって勇治のほうに向いてくれている。夜になれば電気が点いて在宅なのかも確認できそうだ。
勇治はブロック塀に背中を凭(もた)れ、マンションからは電柱の陰になるようにして立っている。コンビニ袋をぶら下げて、寒さからコートの襟を立ててスマホをいじりながら、みなみの住む部屋のドアを伺っている。スマホとコンビニの袋も、探偵にとっては重要なアイテムである。こんな格好で長時間同じ場所にいても、コンビニに寄った近所の人間がスマホでメールを打っていると思われて、あまり怪しまれないからだ。近所の人間であっても、都会では誰も分からない。もちろんこれは自称名探偵桜葉潤也の受け売りだ。
そして、そのコンビニの袋の中には、使うときにいつでも取り出せるように様々なアイテムが入っている。夜間でも現場を撮ることができる赤外線録画機能付きカメラ。多少離れたところからも録音できる高感度のボイスレコーダー。急な雨の時だけでなくいざとなれば身を隠すのにも使える折り畳み傘。どこでもすぐに食事ができるようにカロリーメイト。それと小型懐中電灯と単眼鏡だ。
これも潤也からの受け売りだが、テレビドラマなどで、双眼鏡を使って堂々とターゲットを観察する「名探偵」がいるけれど、連中は決して「名探偵」ではない。こんな街中で双眼鏡を使うのは、目立つし、荷物としてもかさばってしまう。それに周りから怪しまれる。東京で双眼鏡を使っても怪しまれないのは、中山競馬場と、渋谷のNHKホールで行われる紅白歌合戦での野鳥の会くらいだろう。こんな街中で双眼鏡を使うと、下手すれば覗きと勘違いされて、通報されてしまう可能性がある。しかしその点、手の平サイズの単眼鏡なら目立たないしコンパクト。確かに潤也の言うとおり、誰にも怪しまれずに調査をすることができる。
着いたとき301号室が在室なのか勇治は疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)だったが、調査を開始しておよそ二時間半が経過した午後一時少し前に、動きがあった。宅配ピザがのバイクがエントランスの前に停まり、宅配ピザ屋は301号室のドアの前に立ったのだ。そのとき勇治は急いで単眼鏡を取り出して、右目に当てた。そして思わず唾(つばき)を飲み込んだ。
ピザ屋に対応したのはみなみだった。ピザ屋の頭の半分くらいしかない小顔のみなみは、愛らしい大きな瞳と、通った鼻筋、そして締まった顎(あご)のラインを持っていて、写真どおりの美女で可愛らしい感じがする。しかし長い金髪はぼさぼさな感じがして、黒地に金文字のスエットを着て、まさにヤンキーという格好だ。ヤンキーなんて今や、二十三区内ではすっかり廃(すた)れてしまって絶滅危惧種に指定されそうだ。都心では殆ど見ることができない。蒲田のような都心から少し離れた川沿いの町にはまだかなりの数が生息しているようだ。
みなみはキャバ嬢だ。だから午前中は動きがないと最初から織り込み済みだ。これから忙しくなる。しかし腹が減っては戦もできない。勇治はコンビニ袋の中からカロリーメイトを取り出して、周りを見渡してから齧(かじ)った。簡単な昼食を済ますと、携帯灰皿を取り出して煙草に火を点けた。
そのとき、勇治の前を一人の女性が通った。そのときに、きつめの化粧の匂いがした。顔は見えなかったけれど、長い粟色の髪で長身の女だ。紺のコートに白のパンツにブーツという、少し派手な格好をしている。彼女は勇治の前を通り過ぎてマンションの前の歩道まで歩いたところで立ち止まって、みなみが住むマンションを見上げた。何階の部屋を見ているのか分からないが、明らかにみなみの部屋の窓がある位置の下に立っていた。そしてエントランスの中に入っていく。
エントランスを入ると、入り口はオートロックになっている。そこを潜り抜け、エレベータで何階まで行くのだろうかと、勇治はマンションを注視した。しかし彼女の姿は上の階には現れず、再びエントランスから出てきた。女は面長でハーフっぽい顔をしかめていた。
彼女は再び勇治に背中を向け、みなみの部屋の真下で立って建物を見上げた。そして明らかに首を傾げた。目的の部屋を呼び出したのだけど、留守なのはおかしい、と言いたそうだ。勇治は急いでコンビニ袋の中から小型カメラを取り出して、その姿をカメラに収めた。何となくだが、彼女はみなみの部屋を訪ねるためにやって来て、居留守を使われたような気がしたのもあるけれど、何と言ってもハーフっぽい美人で勇治の好みであったからだ。
そうなると、彼女は再び勇治のいるほうに向かって歩いてくる可能性が高い。何しろ、勇治の背中のほうから、つまり駅のほうから歩いてきたのだ。駅に戻るためには、勇治の立っている前を通ることになる。そのときに、正面からの写真を撮る。そして彼女に声を掛けて話を聞くべきなのか、また声を掛けるのならどう掛けたらいいのか、勇治は片手で煙草を、もう片方の手で小型カメラを持ちながら、考えを巡らせた。
私はこういう者ですが、と探偵という身分を明かして話を聞こうか。それともお姉ちゃん、お茶でも一緒にどう? なんて軽いノリで話を聞こうか。というより、今どき、そんなナンパをする男も絶滅危惧種だし、だいいちお茶なんかに誘ったら、この場所を離れないといけなくなるではないか。でも、一時間くらいなら、このまま動きもないだろうから、外しても構わないのではないか、と考えたところで、女は勇治のほうではなく、丁字路を勇治から見て向かって左のほうに歩いて行ってしまった。
チェッと勇治は舌打ちして、カメラをコンビニ袋の中に収めた。そして、これでいいのだと勇治は自分に言い聞かせた。やはり調査中だし、勇治が外している間に、みなみに動かれてしまってはまずい。それに面長ハーフよりも、みなみのほうがずっとずっと勇治のタイプだ。
それから十分くらいして、今度はエントランスの真ん前に、一台の車が止まってしまった。中から出てきたのは、黒と白のコートを着た男の二人だ。二人の男は颯爽(さっそう)と走って、マンションのエントランスの中へ消えていった。
そして二人の男はエレベータを三階で降りたのだ。三階の通路を足早に歩いていく。勇治は急いでコンビニ袋の中から小型カメラを取り出した。三階の通路を歩く、二人の男の姿をカメラに収める。そして驚いたことに、男たちは301号室のドアまで歩いたのだ。
これは何かある。絶対にピザ屋の宅配なんかとは違う。
勇治は男たちの姿を再び写真に収めた。そしてドアが開く。中から金髪が目立つみなみが顔を出す。その姿もパシャリ。
今度は単眼鏡を取り出して覗き込んだ。勇治に背中を向けている格好の男たちの顔は見えないが、みなみの顔はバッチリだ。先ほどとは違って、長い金髪をドライヤーで巻いて整えたようだ。耳たぶからは派手な金色のピアスが垂れ下がっているのが見える。着ているのも先ほどみたいにスエットではない。大きく胸元が開いたシャツに、黒のスーツのような上着を着ている。どうやら出かける時間が近いようだ。
男が質問をしているのだろうか。みなみは神妙な面持ちで、何度か顔を頷かせていた。そして一度だけ、あからさまに顔をしかめて、首を横に振った。慌てて今度はカメラを持って、もう一度パシャリ。そうして十分ちょっと経過しただろうか、男たちが頭を下げると、ドアが閉まった。時刻を確認する。午後二時ちょうどだ。
二人の男は三階の通路をエレベータに向かって歩いていく。勇治は電柱の陰に隠れて、様子を伺う。エントランスから出てきた男たちは二言三言の言葉を交わして、車に乗り込んだ。そして車を発進させていなくなった。三階の通路に動きはない。
二人組の男の正体は何だろう? 二人組の男といって真っ先に思い浮かぶのは、日本を代表するミュージシャンと、最近はMCなどマルチに活躍するお笑い芸人だ。いくらみなみが美女だとはいえ、そんな有名人が東京の端っこ蒲田の、それもまた端っこの場末の地にわざわざ出向くことはない。すると男が二人というと、ゲイというやつか? 彼女は会話中に顔もしかめていたではないか。ゲイのカップルに嫌悪感を抱いているに決まっている。いや、違う。だとしたら……そう。二人組の男といえば、あとは刑事だ。
勇治はコンビニ袋の中から小型カメラを取り出して、映像を確認した。いちばん最初に撮ったものに、二人の男の横顔が映っていた。それを拡大してみる。黒いほうは年配の男で、おそらく四十代後半から五十代であろう。四角い顔で眼光が鋭い。白いほうは若い男だ。年齢は行っても三十代前半。勇治と同じくらいの年齢で、二十代後半の可能性が高い。口元が締まった顔立ちで、そこそこ女の子には持てそうだ。もちろん勇治ほどではないだろうけれど……でも、彼らは蒲田署の刑事ではない。初めて見る顔だ。勇治は蒲田署の刑事なら全員の顔と名前が分かる。
勇治は再び思考を深めた。刑事ではないとすると、彼らは借金の取り立てにやって来たのかもしれない。もしかしたら、久美が話していた麻薬の話が本当で、みなみは麻薬に手を染め、それも断つことができなくなってしまい、どんどん欲するようになってしまった。麻薬を手に入れるのに、キャバ嬢の仕事でいくら稼(かせ)いでも足りなくなってしまい、それで高利貸しに借りるようになってしまう。そこでも返済が滞って、悪質な業者に嵌(はま)ってしまった……
勇治は次の写真を画面に出して、映像に映ったみなみの顔を拡大した。大きな瞳はマスカラとアイシャドーでさらに強調されている。唇は鮮やかなピンクの口紅が塗られている。ピザ屋が来た時はほぼスッピンだったのだろう。化粧を施された顔は可愛らしいというよりは、綺麗の一言だ。やはり先ほどマンションを訪れた女なんかより、絶対にみなみだ。もちろんオタクの大田久美よりも、みなみの方がずっといい。なぜなら久美は顔をいじくった人工的な美女だが、みなみは素材の美しさを活(い)かした天然の美女なのだから。
本命はもちろんみなみで、パトロン兼保険で久美をキープしておく。潤也の何でも兼用という精神の影響を受けて、そう勇治が結論づけたところで、みなみが動き始めた。部屋から出てきたみなみは、こちらに背中を向けてドアに鍵を掛けている。勇治は慌てて単眼鏡をコンビニ袋から取り出して、彼女の様子を観察した。化粧で整えられた小顔は、つんと澄まして通路を歩き、エレベータに乗り込んだ。
時間を確認する。二時半を回ったところ。店に出勤する時間にしてはまだ早い。もしかしたら同伴か。そんなことを考えながら、勇治は身構えた。というのも、もし彼女が蒲田駅に向かうのなら、勇治が立っている前を歩いていくのが近道だからだ。そうなるとニアミスすることになる。勇治は単眼鏡をコンビニ袋の中に仕舞い、姿が彼女の視界に入らぬよう、電柱の陰に隠れた。
やがてエントランスから、みなみが出てきた。どこかの動物保護団体から怒られそうな、なにかの毛で出来たであろう毛皮のコートを着ている。その下から伸びる脚は、薄い黒のストッキングと踵が高いピンヒールだ。脚は勇治の想像以上に長く、そしてなまめかしい。こんな姿で街中を歩かれては、多くの若者が欲情し、多くの老爺が卒倒してしまうに違いない。もちろん健康的な勇治は前者で、身体のどこからか性欲が湧き上がってきた。
彼女はやはり勇治のほうに向かってくる。勇治は電柱の陰に目立たぬように立って、スマホの画面を眺める振りをして、通り過ぎるのを待った。彼女は尖(とが)った踵をコツコツと響かせて、彼の前を通り過ぎる。そのときに、化粧の匂いが鼻を突いた。彼女の背中を見る。こちらを振り返る様子はない。勇治に気付いていないか、気付いたとしても気に留めていないかの、どちらかだ。
勇治は少し距離を置いて、彼女の尾行を開始した。昨日の井原栞奈のようにふらつくことなく、しっかりした足取りで歩みを進めている。長い金髪をなびかせた後姿の身体のラインは細いけれども、栞奈のように決して病的な細さではない。モデルのようなスタイルがいい芸術的な細さだ。久美の言うことは間違いで、やはり麻薬をやっているのは栞奈のほうである。みなみではない。
駅の近くまで来ると、人通りが多くなる。駅へと続く人通りが多くなる道の手前の雑居ビルの前で、突然みなみは立ち止まった。誰かと待ち合わせをするのではないかと、勇治は色めき物陰に隠れてカメラを手にする。そして喫煙所でもなく灰皿も置いていないというのに、彼女は肩から提げた黒いバッグの中から煙草を取り出して何食わぬ顔で火を点けた。ピンクの唇を尖らせて、細長い煙を吐き出す。勇治はそんな彼女の姿を写真に収めておく。勇治はさらにカメラを手にして身構えて待ち人がやってくるのを待ったが、吸い終わった煙草を地面に落としてヒールの踵で押し潰すと、勇治に背中を向けて駅へと続く道に入っていった。美人なのに行儀が悪い。勇治は慌ててカメラを袋の中に仕舞って、尾行を再開した。
ここでは彼女の姿を見失わないように、彼女との距離を詰めて後を追った。割と長身で金髪だから、鮒(ふな)の水槽に紛れてしまった錦鯉(にしきごい)を探すように、往来が多くても目標は目に留まりやすい。そして彼女の美しさは、男たちの視線を集めるようだ。勇治に向かってくる男どもの多くは、彼女の姿に目線を奪われていた。
そうして路地をくねくねと曲がって、蒲田駅に着いた。彼女はJRの改札に入った。スイカとかパスモとかを持ち合わせていない勇治は焦りながらも、彼女が上りと下り、どちらのホームに行くのか目で追いながら、切符を購入した。どうせ経費で下りるのだからと、五百円で買えるいちばん高い切符を買うことにする。そうすれば運賃清算に引っ掛からない可能性が高いからだ。大きな駅だと清算している間に彼女の姿を見失ってしまうことも考えられる。そういうことを咄嗟(とっさ)に考えつくところが、我ながら頭がいいと、勇治は自画自賛した。
彼女は下り方面のホームに行った。間もなく電車が来るという案内放送が構内に流れている。勇治は走ってホームへと急いだ。ちょうど電車が止まって、扉が開いたタイミングで、彼は電車に飛び乗った。
さて、これから、彼女を探さなければならないと思ったら、何と彼女は彼の目の前に立っていたから、さすがに勇治も身体が硬直した。それもきつい化粧の匂いを嗅(か)げる近さだ。チラッと彼女の顔を伺ったが、勇治を気に留めている様子はまったくない。派手なピアスが揺れる耳にコードレスイヤホンが嵌(は)め込まれていて、形のいい顎を上下させてリズムを取っている。勇治は扉が閉まると、そそくさと奥のほうへと移動した。イヤホンから流れる音楽に合わせて小さく揺れている金色の頭を、吊革(つりかわ)につかまりながら凝視する。
多摩川の鉄橋を渡って、川崎の駅に着く。さっそく金色の頭が動いた。電車を降りる。もちろん勇治も続く。
そうだったのだ。彼女は川崎のキャバクラで勤務しているのだ。だから高い切符を買う必要が無かったのだ。川崎までなら百六十円だ。その切符を買っておいて、請求するのは実際に買った四百七十円の切符。経費請求の時になぜ高いのか聞かれないだろうし、聞かれたとしても理由はきちんと説明できる。しかしここで東海道線に乗り換えて、横浜の先まで行くのかもしれない。そうなればこの切符を買っておいて良かったということになる。しかし勇治の淡い期待は見事に裏切られた。彼女は東海道線に乗り換えることなく、改札口を出てしまった。
彼女は改札を出ると、ラゾーナがある西口に向かった。そして二階にある割と大きめのカフェの中に入っていった。周りを見渡したけれども、店の中を覗けるような場所はない。こうなると、彼女が店から出てくるのを待つしかなさそうだ。店には出入り口は一か所しかない。店内から出てくるのを、少し離れたベンチに座って外で待つことにした。
店への出入りはけっこうあった。平日の午後の洒落たカフェだから、ほとんどが若い女性、それもグループだ。しかし彼女が店に入って十五分ほどして、丸山亨二がやってきて勇治は色めき立った。
彼はパンチパーマの四角い顔で黒のサングラスを掛けている。黒い革のコートを着て、黒のパンツ、そして長くて黒いマフラーを首からぶら下げている。まるで忍者か黒子のように黒づくめのスタイルだ。おまけに体格ががっちりしていて柄(がら)も悪い。決してお洒落なカフェに入るようなスタイルではない。彼が入れば、中にいる若い女たちのお喋りも止まってしまうに違いないだろう。だけれでも、彼はそんなことにお構いなしに、お洒落なカフェの中に入っていった。時間は午後三時二十分だ。
しまった。すっかり興奮してしまい、カメラで彼を撮るのを忘れてしまった。でも、二人が一緒に店を出たところを写せばいい。そう勇治は思い直してカメラを手に取った。そういえば今日は彼女の誕生日だ。誕生日なのだから、カレシとデートというは自然の流れであろう。出勤まで時間はたっぷりある。
キャバ嬢の出勤時間は早くても七時。同伴なら九時以降でもいいと聞いたことがある。だから店に行くのはまだ早い。これからたっぷり二人でみなみの誕生日を祝ってから、出勤するのだろう。そうなると、ここから横浜辺りに移動して、予約したフレンチだのイタリアンだのあるいは中華だのを食べながら誕生日を祝って、そこから出勤。あるいは同伴になるのかもしれない。
それにしても、なぜみなみはあんな男を選んだのだろうか。勇治は首を傾げた。久美の言うとおり、彼はどう見てもヤクザかチンピラだ。そして勇治のように、ハンサムでもないし、イケメンでもない。もしかしたら、イケメン俳優よりも、スィーツが大好きな強面(こわおもて)レスラーのほうが彼女のタイプなのだろうか。そんなことはない、と勇治はかぶりを振った。そして突然、彼の心の奥に澱(よど)んでいた不安が湧き上がってきた。
それは栞奈がみなみを殺しに来るかもしれないという不安だ。今日はみなみの誕生日。久美の言うとおり、栞奈が突然現れて、みなみの命を狙うかもしれないのだ。というより、この瞬間、この近くに隠れて機会を伺っているのかもしれない。そう思って辺りを見回す。待ち合わせらしき女性が何人かいたが、その中に栞奈らしい女性はいなかった。
というわけで、勇治は全身に心臓の鼓動を感じながら、二人が店から出てくるのを待った。そして出てきたのはまもなく五時という時間。先にみなみが出てきて、レジで勘定を払ったのだろうか、すぐに後から亨二が出てきた。みなみが亨二の腕に手を絡ませる。とにかくここぞとばかり勇治は写真を撮りまくった。そして二人は身体を密着させて、ゆっくり駅のほうへと歩いていく。
雑踏の中で見失わないように注視しながら二人を尾行する。もちろん栞奈が現れるのかもしれないと辺りも見回す。驚いたことに二人は駅の改札口を通り過ぎて、東口の地下街アゼリアへと入っていった。川崎の西口は十年くらい前に再開発された新しい街だが、東口は古くからの町で、飲食店や風俗店などが軒を連ねる歓楽街も残っている。そんなところに、愛するカノジョの誕生日を祝うようなお洒落な店があるというのだろうか。二人は寄り添いながら地上へ上がって、アーケードのある商店街に入っていった。アーケード通りも、蒲田に比べると大きくて長いが、蒲田と同じで庶民的な店やファーストフードが軒を連ねている。そんなアーケード街を抜けると、二人は真新しいビルへと入っていった。その姿をカメラに収める。そしてエレベータの扉が開いて、二人は入った。
とそこで突然、ものすごい勢いで、勇治の後ろから誰かが駆けてきた。女だ。勇治も駆け出して、咄嗟に彼女の腕を掴む。二人の乗ったエレベータの扉が閉まる。鈍い音がホールに響く。落ちたのは刃渡りが二十センチくらいはあろうかという包丁だ。
勇治は自力で大惨事を回避したヒーローだ。何しろ一人の女の犯行を未然に防ぎ、一人の美女の命を救ったのだから。
「何をするんだよ!」
女は鋭い目で勇治を睨(にら)んで、床に落ちた包丁を拾った。女は栞奈ではない。昼過ぎに、みなみのマンションに来た面長のハーフの女だ。運よく、みなみたちには見られていないし、ここにいるのも勇治と女の二人だけだ。
「君は、お昼ごろに蒲田にいたね?」
勇治の言葉で、細い身体を屈めて拾い上げた包丁をバッグの中に仕舞った女の顔が、動揺したかのように引き攣った。そしてすぐまた睨んでくる。
「あんた、警察(サツ)?」
「いいや」勇治は首を振った。「そうじゃないけど、たぶん君の味方だと思う」
「それにしても、あの二人、こんな店を予約して、いい気になりやがって」
二人が乗ったエレベータは五階で停まっていた。
案内板で五階の店を見て驚いた。そこは勇治のような貧乏人は決して近寄らせない高級感やセレブ感を漂わせる店だ。川崎や蒲田といった京浜工業地区に不釣り合いな店である。蒲田もそうだが川崎も、もつ煮込みと焼き鳥が名物の立ち飲み屋がいちばんよく似合う。だのに、二人が入った店は東京でも港区あたり、神奈川でも横浜の港周辺が似合いそうな、伊勢海老と黒毛和牛が名物の鉄板焼きの店だ。値段のほうも、夜のコースは最低でも一万円する。
そこでスーツを着た男の一団が、こちらにやって来た。ここで会話するのも憚(はばか)れる。ちょうど道路を挟んだ向かい側に、蒲田や川崎のような場末の雰囲気が漂う喫茶店があった。あそこの道路側の席ならビルの入り口も見張れそうだし、煙草も吸えそうだし、コーヒー一杯の値段も安そうだ。勇治は喫茶店を指さした。
「良かったら、あの店で少し話を聞かせてもらえませんか?」
「いいわ。あそこだったら、あの二人が出てきたところが見えると思うから」
というわけで、勇治と女は喫茶店に入った。夕方だというのに客は誰もいない。難なくビルの入り口という舞台が横向きに見られる特等席に座ることができた。コーヒーは一杯四百円だし、テーブルにはちゃんと灰皿も置かれている。全席喫煙席らしく、勇治にとっては理想的な喫茶店だ。
注文したコーヒーが届けられると、さっそく女が煙草に火を点けた。それに合わせて勇治も煙草を吸い始める。
「そういえば、あんた、名前は?」
「田中勇治、二十八歳の独身」と答えると、女は可笑しそうにプッと煙を吹き出した。
「わたしと同い年じゃん。ぜんぜんそんなふうに見えないし」
「だったら、年上に見えた?」
「なわけないじゃん。絶対に下」
日本人よりも色素が薄い茶色い瞳が笑った。肌の色もかなり薄い。この薄さこそ、彼女が純粋な日本人でないことを物語っているようだ。
「ところで、君の名は?」
再び彼女は煙を吹き出した。数年前に大流行した映画のタイトルで聞いてしまったからだろう。
「わたしは、河合アリス。アリスはカタカナ。ママの国でも一般的な女の子の名前になるからということで、付けられたの」
「ということは、やっぱりどこかの国の人とのハーフなんだね?」
「そう。ママはアメリカン。バリバリの白人」
アリスは誇らしげに言って、コーヒーカップに口を付けた。口紅が濃く塗られているみたいで、白いカップの縁に紅が付いた。
「そうすると英語もペラペラなんだ」
「ううん。ママも日本語ペラペラだから家の中はずっと日本語で、逆にパパはそれほど英語が喋れないから、そうでもないの。きっと向こうの小学生低学年くらいの英語力かな」
アリスははにかむような笑みを浮かべた。勇治は前かがみになって、彼女の顔に顔を近づける。
「ところで、どうしてあんなことを?」
彼女も顔を近づけてくる。化粧の匂いは昼と比べるときつくない。むしろ煙草の匂いを消してくれて、程よい香りに感じた。
「憎かったから。本気で殺そうと思ったの。止めたときは怒りで頭の中がいっぱいだったけれど、今はもう勇治くんが止めてくれたのをとても感謝している」
勇治は心の中でガッツポーズ。勇治の好感度が、アリスの中でぐっとアップしているからだ。何しろ彼女が罪を犯してしまうのを食い止めたのだから。アリスは勇治の好みのタイプではないけれど、彼女もいつでも会えるようにキープしていいレベルの女だ。何しろハーフで見栄えがいい。そして次は、みなみをものにするのだ。勇治のお陰で殺害を免(まぬ)れることができたみなみに対して、勇治の好感度をぐっと上げる。君が殺されそうになるのを助けてあげたのだよ、なんて教えてあげて。
「それは良かった。憎しみで人を殺したら、新たな罪と憎しみが生まれるから」
勇治の言葉にアリスは首を傾げた。でもすぐに表情が崩れた。
「そうね、きっと勇治くんの言うとおりね。あんな奴、ぶっ殺したところで、わたしの罪は一生消えないし、奴の遺族からも憎まれてしまうって意味ね」
勇治は感心して頷いた。アリスは勇治の予想以上に頭が切れるみたいだ。勇治の言葉の意味を完全に理解している。でも、それほど頭が切れる彼女が、あんな短絡的な行動を取ってしまったのか、興味が湧いてくる。
「そうすると、お昼ごろ深田が住んでいるマンションの前にいたけれど、まさか、そこからずっと彼女を見張っていた?」
アリスは首を横に振った。「在宅がどうかを確かめてから、いったん家に帰ったわ。それでもう一度出直して、川崎に来た。あいつが同伴するときに待ち合わせで利用するカフェは分かっていたから。そこに行ったら偶然、あの二人が出てくるところだった」
そこから勇治と同じように、尾行していたようだ。そのことは勇治も気付かなかった。
「それで殺そうと思って、さっきあんなことをしたんだね?」
「そう。それまでは人通りも多かったから、なかなかチャンスがなくて」
確かに彼女の言うとおりだ。東口に抜ける駅の構内はもちろん、地下街も地上に出てからの歓楽街も往来が激しかった。
「それで、どうして殺したいほど憎いの?」
アリスは唇を噛みしめて目を伏せてしまった。理由は話したくないのだろう。でも理由を聞きたい。勇治は煙草を吸い、再び前のめりの姿勢になる。
「話したくないのなら別にいいんだけれど。でも、できたらアリスさんの手助けをしたいんだ。俺のできる範囲で」
「ありがと」彼女はこくんと頷いた。そして潤ませた茶色い瞳を上げる。「実は、昨日、わたしのカレシが殺されちゃって……」
「エエッ!」
勇治は思わず声を荒げてしまった。真ん前でアリスが顔をしかめて、唇に人差し指を当てている。幸い客は二人以外に誰もいない。そして店員も厨房(ちゅうぼう)に入ったままだった。
「ごめん。ごめん。ちょっとというか、かなり驚いてしまった……」
そりゃあそうだ。いくら女性にだらしのない勇治にも、赤くて温かい血が流れている。罪のない人が死んだと聞いて、驚いたり悲しんだり怒ったりしないのは、独裁者とテロリストくらいだ。
「そりゃあ、そうよね。それで昨日の夜、北斗とのデートの待ち合わせがあって、北斗というのがわたしのカレシの名前なんだけどね、佐藤北斗というの。それで、北斗が来るのをずっと待っていたんだけど、ぜんぜん来ないから、何度もラインを送ったんだけど、なかなか既読にならなかったし、だから電話も掛けたんだけど、繋がらなかったから。六時に待ち合わせていて、待ち合わせのお店が閉店になる十時まで待っていたんだけれど、結局、お店に来なかったし、ラインも既読にならないし、電話にも出なかったの」
「それで、カレシの家に行ったの?」
彼女はかぶりを振った。「行けなかった。だって、付き合い始めたばかりで、一人暮らしを始めた北斗がどこに住んでいるのか分からなかったから。実家の連絡先も分からなかったし、蒲田の町のどこかに住んでいるということしか、分からなかったから……」
「それで、警察に連絡したの?」
再び彼女はかぶりを振った。「しなかった。だってまさか殺されているとは思わないでしょ。きっとわたしのことを嫌いになってしまったと思ったから。だからコンビニでお酒を買い込んで、一人で飲みながら泣いたわ」
「アリスさんみたいな美人が、どうして嫌われたと思ったわけ?」
美人なんてとんでもないと照れると思ったら、アリスはコーヒーを少し啜って、スルーした。
「だって北斗の元カノがみなみだから」
なるほど、と勇治は納得した。殺された北斗は、ちょっと前までチョウザメの卵を食べていたけれど、今は鮭の卵しか食べられなくなってしまい、チョウザメの卵の味が忘れられなかったのだ。勇治にとっては何とも羨ましい話だ。なぜなら勇治はちゃんとしたカノジョなんかいなくて、この数年間、鱈(たら)の卵すら食べたことが無かったのだから。鮭の卵でも上玉だというのに、チョウザメの卵を欲するだなんて、なんて贅沢(ぜいたく)な話だろうか。罰(ばち)が当たって殺されてしまっても仕方があるまい。
「それで、今朝になって刑事がうちに来たの。何度も北斗の携帯電話にラインを送っていたし、何度も電話を掛けていたから、わたしのところに来たみたいだった」
アリスは粟色の長い髪をかき上げて、新しい煙草に火を点けた。釣られるように勇治も新しい煙草に火を点ける。
「それで、どんなことを聞かれたの?」
「なぜ昨晩は何度も北斗の携帯電話にラインして電話を掛けたのかのということ。そんなの、わたし達のラインを読めば分かるのにね。それから、勇治くんに聞かれたのと同じで、連絡がつかないのなら、なぜ家に行かなかったのかということ。それから、北斗の交遊関係と、昨日の午後五時から七時まで、わたしがどこで何をしていたのかということ。どの質問にも正直に答えたわ」
午後五時から七時の間の行動を聞くということは、アリスも犯行を疑われたということだ。そしてその時間に犯行が行われたことになる。
「正直に答えたって、アリスさんは何て答えたの?」
「まず携帯にラインとか電話をしつこくしたのは、デートの約束の時間になっても北斗がなかなか来なかったから。さっき、勇治くんにも話したけど、家に行かなかったのは、付き合ってまだ日が浅くて、家の場所が分からなかったから。そうそうそう、デートの約束なんかをすっぽかされたことがあるか、ということも聞かれたわ。まだそんなにデートもしていないけれど、無いと答えた。というより北斗は、待ち合わせの時間より、たいてい五分とか十分前に来ていたとも言ったわ。それからわたしの昨日の行動だけど、五時に仕事が終わってから六時までの間は、待ち合わせの蒲田に移動して、一人で町をぶらぶらしていて、六時からはずっと待ち合わせのカフェにいたという感じだったわ」
アリスは昨日のことを詳細に思い出すように、首を傾げたり、むつかしそうに顔をしかめたりしながら答えてくれた。だけれど、勇治がいちばん聞きたいのは、そこではない。
それに勇治は先ほどから、亨二とみなみが入ったビルの入り口を張るのも、忘れてはいない。アリスの話に頷きながらも、目はちゃんとビルの入り口を張っている。こんなことができるのだから、潤也ではなく勇治こそが名探偵ではないだろうか。
「それと、北斗さんの交遊関係は、何て答えたの?」
「北斗の元カノでみなみのことは話したわ。あとはわたしも交遊関係を知らなかったから話さなかったけれど、でも今さっき、とても驚いた。みなみの奴、亨二と一緒にいたじゃない。亨二って他にスレンダーなカノジョがいるのよ。そしたら、よけいに怒りが込み上げてきちゃってね。実は、そのカノジョとわたし、昔から仲が良いから」
アリスは一息にまくし立てた。かなり興奮しているようだ。勇治も驚く。アリスはみなみばかりか、亨二とも顔見知りだ。そして栞奈とも仲がいいと言う。ということは……煙草をくゆらせて少しだけ考える。
アリスはきっと北高出身だ。北高にはアリスの他に、みなみと整形しているけれど久美とくる。北高は学力の偏差値こそ低いのに、女の子の顔面偏差値ときたらどれだけ高いのか。勇治は驚きを禁じ得なかった。学力の偏差値がやたら高い嵐陽でも、これだけ顔面偏差値の高い美女が揃(そろ)っていただろうか。
「となると、アリスさんも北高出身?」
「そうだけど……」アリスは唇を緩ませて紫煙を吐き出した。そして首を傾げる。「あれ、田中勇治くんって、そんな子、北高にいたかしら?」
「俺は嵐陽高だよ。そこから慶稲田大」
と、勇治はさりげなく自分の学歴をアピール。高学歴のイケメンと知ると、尊敬の眼差しが向けられ、「すごお~い」と感嘆の声をあげるのだが……
「そんな人が、なぜわたし達のことに興味を持つのよ?」
いぶかしげな眼差しが向けられ、とがめるような声で聞いてきた。予想外の反応に、勇治はまごついた。頭の中を必死に回転させて考えるが、なかなか良い言い訳は出てこない。依頼者である久美の名前を出してしまうのがいちばん疑われないで済むのだろうけれど、それはやってはいけない。守秘義務があるからだ。
いくら追い詰められていても、勇治は名探偵だ。ビルの入り口から目を離さないという任務も忘れていない。もちろん異常なしだ。
「やっぱ、あんた、警察(サツ)でしょ?」
どうやらアリスは、そうとう警察を憎んでいるようだ。とにかく勇治は、こんなに振ったら乳飲み子なら脳挫傷(ざしょう)で死んでしまうのではないかというくらい、大仰に首を振った。頭を振りながら、返す言葉を考える。
「俺の中学の時の同級生なんだけれど、桜葉潤也って奴、知らない? 奴も北高出身なんだけど……」
こうなりゃ、自称名探偵の潤也を引き合いに出すしかない。同じ北高でも小坂直樹だと、思い切り警察関係者だから。
潤也の名を聞いて、アリスは少し首を傾げた。すぐにリアクションが無いということは、幸運なことにそれほど仲が良くないようだ。そして彼女の表情が一気に崩れた。
「あっ、思い出した。超オタクで根暗な子!」
聞いて勇治は思わず吹き出した。彼の知る中学時代の潤也は、昔の歌みたいに、ナイフみたいに尖って触るものみな傷つけていた悪ガキだ。それが高校生になったら、オタクで根暗になってしまったのである。そんな潤也の姿は想像できない。
「桜葉がオタクで根暗って、本当に?」
「そうよ。それでも少しでも勉強ができれば、わたしらから苛(いじ)められることもなかったと思うけど、勉強ができなかったわたしなんかよりも、さらに成績が悪かったから」
「苛められていたんだ?」
アリスは懐かしそうな目になって頷いた。
「あの頃は無茶やって、マジで楽しかった。水を入れたコンドームを頭からぶつけてやったこともあったわ。そしたら桜葉って、泣きそうになっていたし」
「それって、アリスさんが中心になって苛(いじ)めたの?」
「わたしじゃないわ。わたしとか、亨二のカノジョとかが女子の問題児だったんだけど、そんなわたし達をみなみが操(あやつ)っていたから」
亨二のカノジョとは栞奈のことだ。やはり麻薬に溺れてしまうだけあって、彼女は高校の時から問題を起こしていたのだ。
「彼女がアリスさんたちを操っていたって?」
「あいつ、とにかく男子に持てまくっていたから。亨二たち男子の不良たちも、一つ上の学年の不良たちも、女の武器を最大限に使って虜(とりこ)にしちゃったのよ。いわゆるぶりっ子ってやつ。で、あまりにも調子ぶっこいているから、わたしらでボコしてやろうと呼び出してやったわ。そうしたら、亨二たちから仕返しがくるって逆に脅されて。それからわたしら、あいつの言いなりになってしまったってわけ。とにかく美人で小顔でお洒落で脚が長くてスタイルが良くて、勉強と中身以外は何一つあいつに敵わなかった。性格は思い切りブスで成績も悪かったんだけど、高校生くらいの男子なんかは外見だけで女の子のことを判断するし、脳(のう)味噌(みそ)が足りない女のほうが逆に持てるから。勉強ができなくていわゆるバカキャラ。でも普通のバカじゃないの。男を味方につけるように計算しているのが見え見えで、すごくずる賢(がしこ)いのよ」
アリスの顔には悔しさが滲(にじ)み出ていた。いまだに外見だけで判断してしまう勇治のことも、何だか非難されているようでこそばゆく思えてくる。
「そうだね。俺もそんな時期があったなあ」と勇治は遠い目をして答えた。実は今でもそうなのだけれど。
いくら遠い目をしていても、勇治は名探偵だ。ビルの入り口から目を離さないという任務も忘れていない。もちろん異常なしだ。
アリスは灰皿に掛けてあった自分の煙草がすっかり短くなって、フィルターまで焦がしているのに気付いて、派手なネイルが施(ほどこ)されている指先で押し潰して消した。
「というより、勇治くん。その桜葉がどうしたっていうのよ」
「ああ、あいつって、信じられないことに、深田さんのことが好きなんだよ。高校生の時からずっとみたいだけど……」
「うっそー」とアリスは声を上擦(うわず)らせた。もちろん彼女のことを好きなのは、潤也ではなくて勇治なのだけど。「それって、マジであり得ないし。みなみと桜葉じゃ、月とすっぽん、提灯(ちょうちん)と釣り鐘で、雲泥(うんでい)の差があるから。それにマジで、桜葉ってチョーMじゃね? だってわたしらに苛められていたのって、あいつの指図だって分かっているはずだから」
アリスは勇治の嘘を鵜呑みにして、可笑しそうにケラケラ笑った。それに合わせて勇治も笑みをこぼす。
「それで、あいつ、俺に相談してきたんだ。何しろ俺って、俺たちの中学の時の同級生が被害者の殺人事件を、見事な推理で解決に導いたからね。そんな噂を聞きつけたのだと思う。それで、彼女のことが好きで結婚も考えているから、調査してほしいって頼まれたんだ」
「そうなの~。きも~い」とアリスは可笑しそうに両手を抱えて震える格好を見せた。「ということは、勇治くんって探偵さん?」
「まあ、大したことはないのだけれどね。探偵みたいなことをしていると言ったほうがいいかな」
と、勇治はさりげなく言って、新しい煙草を銜えた。事件を見事な推理で解決した、と言ったのは嘘だけれど、探偵みたいなことをしている、と言っておけば嘘にはならない。嘘を含めて、アリスは勇治の言うことすべてを信じてくれたようだ。
「そんなことないよ。勇治くんはすごい探偵さんだよ。だって、カッとなってしまったわたしの犯行を防いでくれたじゃん。すごいと思う」
「いやいや、それほどでも……」
勇治は照れながら後頭部を掻いた。そして銜えた煙草に火を点けた。お金の心配をしなくてもいいことに、今日は午前中の調査からすでに十本以上、煙草を吸っている。
いくら照れていても、勇治は名探偵だ。ビルの入り口から目を離さないという任務も忘れていない。もちろん異常なしだ。
「ということは、もう彼女を襲ったりはしないね?」
「しない」とアリスはしおらしく頷いた。「しない代わりに、勇治くんの連絡先、教えてくれる?」
「いいよ」と頷くと、アリスの顔が一気に雲が取れたかのように晴れ渡った。
アリスも落ちた。やはり嵐陽高から慶稲田大のイケメンの名探偵は持てるのだ。だったらみなみもじゅうぶんに落とせる。勇治は内心うまく行ったとほくそ笑んだ。
しかし名探偵であるのに、勇治は一つ大きなミスをしていることに気付いて、動揺した。アリスとの会話を録音するのをすっかり忘れてしまっていたからだ。
今日は昨日と打って変わって、今日がこの冬でいちばんの寒さになっているようだ。スマホのニュースによると、都心でも最低気温が氷点下となり、最高気温も5度までしか上がらないという。それに曇りの天気予報どおり、どんよりした雲が澱(よど)むように立ち込めていて日差しを遮(さえぎ)っている。まさしく冷蔵庫の中にいるような寒さで、張り込み調査をする身にはとてもきつい。
みなみの住むマンションは、勇治の家から徒歩で五分という近さだった。五階建てのマンションはエントランスが道路に面していて、運がいいことに丁字(ていじ)路の正面だ。部屋のドアも、ドアに続く通路も道路から見えるので、部屋への出入りが容易に確認することができる。そのうえ、彼女の部屋は301号室、つまり三階の角部屋だ。ドアの隣には窓だって勇治のほうに向いてくれている。夜になれば電気が点いて在宅なのかも確認できそうだ。
勇治はブロック塀に背中を凭(もた)れ、マンションからは電柱の陰になるようにして立っている。コンビニ袋をぶら下げて、寒さからコートの襟を立ててスマホをいじりながら、みなみの住む部屋のドアを伺っている。スマホとコンビニの袋も、探偵にとっては重要なアイテムである。こんな格好で長時間同じ場所にいても、コンビニに寄った近所の人間がスマホでメールを打っていると思われて、あまり怪しまれないからだ。近所の人間であっても、都会では誰も分からない。もちろんこれは自称名探偵桜葉潤也の受け売りだ。
そして、そのコンビニの袋の中には、使うときにいつでも取り出せるように様々なアイテムが入っている。夜間でも現場を撮ることができる赤外線録画機能付きカメラ。多少離れたところからも録音できる高感度のボイスレコーダー。急な雨の時だけでなくいざとなれば身を隠すのにも使える折り畳み傘。どこでもすぐに食事ができるようにカロリーメイト。それと小型懐中電灯と単眼鏡だ。
これも潤也からの受け売りだが、テレビドラマなどで、双眼鏡を使って堂々とターゲットを観察する「名探偵」がいるけれど、連中は決して「名探偵」ではない。こんな街中で双眼鏡を使うのは、目立つし、荷物としてもかさばってしまう。それに周りから怪しまれる。東京で双眼鏡を使っても怪しまれないのは、中山競馬場と、渋谷のNHKホールで行われる紅白歌合戦での野鳥の会くらいだろう。こんな街中で双眼鏡を使うと、下手すれば覗きと勘違いされて、通報されてしまう可能性がある。しかしその点、手の平サイズの単眼鏡なら目立たないしコンパクト。確かに潤也の言うとおり、誰にも怪しまれずに調査をすることができる。
着いたとき301号室が在室なのか勇治は疑心(ぎしん)暗鬼(あんき)だったが、調査を開始しておよそ二時間半が経過した午後一時少し前に、動きがあった。宅配ピザがのバイクがエントランスの前に停まり、宅配ピザ屋は301号室のドアの前に立ったのだ。そのとき勇治は急いで単眼鏡を取り出して、右目に当てた。そして思わず唾(つばき)を飲み込んだ。
ピザ屋に対応したのはみなみだった。ピザ屋の頭の半分くらいしかない小顔のみなみは、愛らしい大きな瞳と、通った鼻筋、そして締まった顎(あご)のラインを持っていて、写真どおりの美女で可愛らしい感じがする。しかし長い金髪はぼさぼさな感じがして、黒地に金文字のスエットを着て、まさにヤンキーという格好だ。ヤンキーなんて今や、二十三区内ではすっかり廃(すた)れてしまって絶滅危惧種に指定されそうだ。都心では殆ど見ることができない。蒲田のような都心から少し離れた川沿いの町にはまだかなりの数が生息しているようだ。
みなみはキャバ嬢だ。だから午前中は動きがないと最初から織り込み済みだ。これから忙しくなる。しかし腹が減っては戦もできない。勇治はコンビニ袋の中からカロリーメイトを取り出して、周りを見渡してから齧(かじ)った。簡単な昼食を済ますと、携帯灰皿を取り出して煙草に火を点けた。
そのとき、勇治の前を一人の女性が通った。そのときに、きつめの化粧の匂いがした。顔は見えなかったけれど、長い粟色の髪で長身の女だ。紺のコートに白のパンツにブーツという、少し派手な格好をしている。彼女は勇治の前を通り過ぎてマンションの前の歩道まで歩いたところで立ち止まって、みなみが住むマンションを見上げた。何階の部屋を見ているのか分からないが、明らかにみなみの部屋の窓がある位置の下に立っていた。そしてエントランスの中に入っていく。
エントランスを入ると、入り口はオートロックになっている。そこを潜り抜け、エレベータで何階まで行くのだろうかと、勇治はマンションを注視した。しかし彼女の姿は上の階には現れず、再びエントランスから出てきた。女は面長でハーフっぽい顔をしかめていた。
彼女は再び勇治に背中を向け、みなみの部屋の真下で立って建物を見上げた。そして明らかに首を傾げた。目的の部屋を呼び出したのだけど、留守なのはおかしい、と言いたそうだ。勇治は急いでコンビニ袋の中から小型カメラを取り出して、その姿をカメラに収めた。何となくだが、彼女はみなみの部屋を訪ねるためにやって来て、居留守を使われたような気がしたのもあるけれど、何と言ってもハーフっぽい美人で勇治の好みであったからだ。
そうなると、彼女は再び勇治のいるほうに向かって歩いてくる可能性が高い。何しろ、勇治の背中のほうから、つまり駅のほうから歩いてきたのだ。駅に戻るためには、勇治の立っている前を通ることになる。そのときに、正面からの写真を撮る。そして彼女に声を掛けて話を聞くべきなのか、また声を掛けるのならどう掛けたらいいのか、勇治は片手で煙草を、もう片方の手で小型カメラを持ちながら、考えを巡らせた。
私はこういう者ですが、と探偵という身分を明かして話を聞こうか。それともお姉ちゃん、お茶でも一緒にどう? なんて軽いノリで話を聞こうか。というより、今どき、そんなナンパをする男も絶滅危惧種だし、だいいちお茶なんかに誘ったら、この場所を離れないといけなくなるではないか。でも、一時間くらいなら、このまま動きもないだろうから、外しても構わないのではないか、と考えたところで、女は勇治のほうではなく、丁字路を勇治から見て向かって左のほうに歩いて行ってしまった。
チェッと勇治は舌打ちして、カメラをコンビニ袋の中に収めた。そして、これでいいのだと勇治は自分に言い聞かせた。やはり調査中だし、勇治が外している間に、みなみに動かれてしまってはまずい。それに面長ハーフよりも、みなみのほうがずっとずっと勇治のタイプだ。
それから十分くらいして、今度はエントランスの真ん前に、一台の車が止まってしまった。中から出てきたのは、黒と白のコートを着た男の二人だ。二人の男は颯爽(さっそう)と走って、マンションのエントランスの中へ消えていった。
そして二人の男はエレベータを三階で降りたのだ。三階の通路を足早に歩いていく。勇治は急いでコンビニ袋の中から小型カメラを取り出した。三階の通路を歩く、二人の男の姿をカメラに収める。そして驚いたことに、男たちは301号室のドアまで歩いたのだ。
これは何かある。絶対にピザ屋の宅配なんかとは違う。
勇治は男たちの姿を再び写真に収めた。そしてドアが開く。中から金髪が目立つみなみが顔を出す。その姿もパシャリ。
今度は単眼鏡を取り出して覗き込んだ。勇治に背中を向けている格好の男たちの顔は見えないが、みなみの顔はバッチリだ。先ほどとは違って、長い金髪をドライヤーで巻いて整えたようだ。耳たぶからは派手な金色のピアスが垂れ下がっているのが見える。着ているのも先ほどみたいにスエットではない。大きく胸元が開いたシャツに、黒のスーツのような上着を着ている。どうやら出かける時間が近いようだ。
男が質問をしているのだろうか。みなみは神妙な面持ちで、何度か顔を頷かせていた。そして一度だけ、あからさまに顔をしかめて、首を横に振った。慌てて今度はカメラを持って、もう一度パシャリ。そうして十分ちょっと経過しただろうか、男たちが頭を下げると、ドアが閉まった。時刻を確認する。午後二時ちょうどだ。
二人の男は三階の通路をエレベータに向かって歩いていく。勇治は電柱の陰に隠れて、様子を伺う。エントランスから出てきた男たちは二言三言の言葉を交わして、車に乗り込んだ。そして車を発進させていなくなった。三階の通路に動きはない。
二人組の男の正体は何だろう? 二人組の男といって真っ先に思い浮かぶのは、日本を代表するミュージシャンと、最近はMCなどマルチに活躍するお笑い芸人だ。いくらみなみが美女だとはいえ、そんな有名人が東京の端っこ蒲田の、それもまた端っこの場末の地にわざわざ出向くことはない。すると男が二人というと、ゲイというやつか? 彼女は会話中に顔もしかめていたではないか。ゲイのカップルに嫌悪感を抱いているに決まっている。いや、違う。だとしたら……そう。二人組の男といえば、あとは刑事だ。
勇治はコンビニ袋の中から小型カメラを取り出して、映像を確認した。いちばん最初に撮ったものに、二人の男の横顔が映っていた。それを拡大してみる。黒いほうは年配の男で、おそらく四十代後半から五十代であろう。四角い顔で眼光が鋭い。白いほうは若い男だ。年齢は行っても三十代前半。勇治と同じくらいの年齢で、二十代後半の可能性が高い。口元が締まった顔立ちで、そこそこ女の子には持てそうだ。もちろん勇治ほどではないだろうけれど……でも、彼らは蒲田署の刑事ではない。初めて見る顔だ。勇治は蒲田署の刑事なら全員の顔と名前が分かる。
勇治は再び思考を深めた。刑事ではないとすると、彼らは借金の取り立てにやって来たのかもしれない。もしかしたら、久美が話していた麻薬の話が本当で、みなみは麻薬に手を染め、それも断つことができなくなってしまい、どんどん欲するようになってしまった。麻薬を手に入れるのに、キャバ嬢の仕事でいくら稼(かせ)いでも足りなくなってしまい、それで高利貸しに借りるようになってしまう。そこでも返済が滞って、悪質な業者に嵌(はま)ってしまった……
勇治は次の写真を画面に出して、映像に映ったみなみの顔を拡大した。大きな瞳はマスカラとアイシャドーでさらに強調されている。唇は鮮やかなピンクの口紅が塗られている。ピザ屋が来た時はほぼスッピンだったのだろう。化粧を施された顔は可愛らしいというよりは、綺麗の一言だ。やはり先ほどマンションを訪れた女なんかより、絶対にみなみだ。もちろんオタクの大田久美よりも、みなみの方がずっといい。なぜなら久美は顔をいじくった人工的な美女だが、みなみは素材の美しさを活(い)かした天然の美女なのだから。
本命はもちろんみなみで、パトロン兼保険で久美をキープしておく。潤也の何でも兼用という精神の影響を受けて、そう勇治が結論づけたところで、みなみが動き始めた。部屋から出てきたみなみは、こちらに背中を向けてドアに鍵を掛けている。勇治は慌てて単眼鏡をコンビニ袋から取り出して、彼女の様子を観察した。化粧で整えられた小顔は、つんと澄まして通路を歩き、エレベータに乗り込んだ。
時間を確認する。二時半を回ったところ。店に出勤する時間にしてはまだ早い。もしかしたら同伴か。そんなことを考えながら、勇治は身構えた。というのも、もし彼女が蒲田駅に向かうのなら、勇治が立っている前を歩いていくのが近道だからだ。そうなるとニアミスすることになる。勇治は単眼鏡をコンビニ袋の中に仕舞い、姿が彼女の視界に入らぬよう、電柱の陰に隠れた。
やがてエントランスから、みなみが出てきた。どこかの動物保護団体から怒られそうな、なにかの毛で出来たであろう毛皮のコートを着ている。その下から伸びる脚は、薄い黒のストッキングと踵が高いピンヒールだ。脚は勇治の想像以上に長く、そしてなまめかしい。こんな姿で街中を歩かれては、多くの若者が欲情し、多くの老爺が卒倒してしまうに違いない。もちろん健康的な勇治は前者で、身体のどこからか性欲が湧き上がってきた。
彼女はやはり勇治のほうに向かってくる。勇治は電柱の陰に目立たぬように立って、スマホの画面を眺める振りをして、通り過ぎるのを待った。彼女は尖(とが)った踵をコツコツと響かせて、彼の前を通り過ぎる。そのときに、化粧の匂いが鼻を突いた。彼女の背中を見る。こちらを振り返る様子はない。勇治に気付いていないか、気付いたとしても気に留めていないかの、どちらかだ。
勇治は少し距離を置いて、彼女の尾行を開始した。昨日の井原栞奈のようにふらつくことなく、しっかりした足取りで歩みを進めている。長い金髪をなびかせた後姿の身体のラインは細いけれども、栞奈のように決して病的な細さではない。モデルのようなスタイルがいい芸術的な細さだ。久美の言うことは間違いで、やはり麻薬をやっているのは栞奈のほうである。みなみではない。
駅の近くまで来ると、人通りが多くなる。駅へと続く人通りが多くなる道の手前の雑居ビルの前で、突然みなみは立ち止まった。誰かと待ち合わせをするのではないかと、勇治は色めき物陰に隠れてカメラを手にする。そして喫煙所でもなく灰皿も置いていないというのに、彼女は肩から提げた黒いバッグの中から煙草を取り出して何食わぬ顔で火を点けた。ピンクの唇を尖らせて、細長い煙を吐き出す。勇治はそんな彼女の姿を写真に収めておく。勇治はさらにカメラを手にして身構えて待ち人がやってくるのを待ったが、吸い終わった煙草を地面に落としてヒールの踵で押し潰すと、勇治に背中を向けて駅へと続く道に入っていった。美人なのに行儀が悪い。勇治は慌ててカメラを袋の中に仕舞って、尾行を再開した。
ここでは彼女の姿を見失わないように、彼女との距離を詰めて後を追った。割と長身で金髪だから、鮒(ふな)の水槽に紛れてしまった錦鯉(にしきごい)を探すように、往来が多くても目標は目に留まりやすい。そして彼女の美しさは、男たちの視線を集めるようだ。勇治に向かってくる男どもの多くは、彼女の姿に目線を奪われていた。
そうして路地をくねくねと曲がって、蒲田駅に着いた。彼女はJRの改札に入った。スイカとかパスモとかを持ち合わせていない勇治は焦りながらも、彼女が上りと下り、どちらのホームに行くのか目で追いながら、切符を購入した。どうせ経費で下りるのだからと、五百円で買えるいちばん高い切符を買うことにする。そうすれば運賃清算に引っ掛からない可能性が高いからだ。大きな駅だと清算している間に彼女の姿を見失ってしまうことも考えられる。そういうことを咄嗟(とっさ)に考えつくところが、我ながら頭がいいと、勇治は自画自賛した。
彼女は下り方面のホームに行った。間もなく電車が来るという案内放送が構内に流れている。勇治は走ってホームへと急いだ。ちょうど電車が止まって、扉が開いたタイミングで、彼は電車に飛び乗った。
さて、これから、彼女を探さなければならないと思ったら、何と彼女は彼の目の前に立っていたから、さすがに勇治も身体が硬直した。それもきつい化粧の匂いを嗅(か)げる近さだ。チラッと彼女の顔を伺ったが、勇治を気に留めている様子はまったくない。派手なピアスが揺れる耳にコードレスイヤホンが嵌(は)め込まれていて、形のいい顎を上下させてリズムを取っている。勇治は扉が閉まると、そそくさと奥のほうへと移動した。イヤホンから流れる音楽に合わせて小さく揺れている金色の頭を、吊革(つりかわ)につかまりながら凝視する。
多摩川の鉄橋を渡って、川崎の駅に着く。さっそく金色の頭が動いた。電車を降りる。もちろん勇治も続く。
そうだったのだ。彼女は川崎のキャバクラで勤務しているのだ。だから高い切符を買う必要が無かったのだ。川崎までなら百六十円だ。その切符を買っておいて、請求するのは実際に買った四百七十円の切符。経費請求の時になぜ高いのか聞かれないだろうし、聞かれたとしても理由はきちんと説明できる。しかしここで東海道線に乗り換えて、横浜の先まで行くのかもしれない。そうなればこの切符を買っておいて良かったということになる。しかし勇治の淡い期待は見事に裏切られた。彼女は東海道線に乗り換えることなく、改札口を出てしまった。
彼女は改札を出ると、ラゾーナがある西口に向かった。そして二階にある割と大きめのカフェの中に入っていった。周りを見渡したけれども、店の中を覗けるような場所はない。こうなると、彼女が店から出てくるのを待つしかなさそうだ。店には出入り口は一か所しかない。店内から出てくるのを、少し離れたベンチに座って外で待つことにした。
店への出入りはけっこうあった。平日の午後の洒落たカフェだから、ほとんどが若い女性、それもグループだ。しかし彼女が店に入って十五分ほどして、丸山亨二がやってきて勇治は色めき立った。
彼はパンチパーマの四角い顔で黒のサングラスを掛けている。黒い革のコートを着て、黒のパンツ、そして長くて黒いマフラーを首からぶら下げている。まるで忍者か黒子のように黒づくめのスタイルだ。おまけに体格ががっちりしていて柄(がら)も悪い。決してお洒落なカフェに入るようなスタイルではない。彼が入れば、中にいる若い女たちのお喋りも止まってしまうに違いないだろう。だけれでも、彼はそんなことにお構いなしに、お洒落なカフェの中に入っていった。時間は午後三時二十分だ。
しまった。すっかり興奮してしまい、カメラで彼を撮るのを忘れてしまった。でも、二人が一緒に店を出たところを写せばいい。そう勇治は思い直してカメラを手に取った。そういえば今日は彼女の誕生日だ。誕生日なのだから、カレシとデートというは自然の流れであろう。出勤まで時間はたっぷりある。
キャバ嬢の出勤時間は早くても七時。同伴なら九時以降でもいいと聞いたことがある。だから店に行くのはまだ早い。これからたっぷり二人でみなみの誕生日を祝ってから、出勤するのだろう。そうなると、ここから横浜辺りに移動して、予約したフレンチだのイタリアンだのあるいは中華だのを食べながら誕生日を祝って、そこから出勤。あるいは同伴になるのかもしれない。
それにしても、なぜみなみはあんな男を選んだのだろうか。勇治は首を傾げた。久美の言うとおり、彼はどう見てもヤクザかチンピラだ。そして勇治のように、ハンサムでもないし、イケメンでもない。もしかしたら、イケメン俳優よりも、スィーツが大好きな強面(こわおもて)レスラーのほうが彼女のタイプなのだろうか。そんなことはない、と勇治はかぶりを振った。そして突然、彼の心の奥に澱(よど)んでいた不安が湧き上がってきた。
それは栞奈がみなみを殺しに来るかもしれないという不安だ。今日はみなみの誕生日。久美の言うとおり、栞奈が突然現れて、みなみの命を狙うかもしれないのだ。というより、この瞬間、この近くに隠れて機会を伺っているのかもしれない。そう思って辺りを見回す。待ち合わせらしき女性が何人かいたが、その中に栞奈らしい女性はいなかった。
というわけで、勇治は全身に心臓の鼓動を感じながら、二人が店から出てくるのを待った。そして出てきたのはまもなく五時という時間。先にみなみが出てきて、レジで勘定を払ったのだろうか、すぐに後から亨二が出てきた。みなみが亨二の腕に手を絡ませる。とにかくここぞとばかり勇治は写真を撮りまくった。そして二人は身体を密着させて、ゆっくり駅のほうへと歩いていく。
雑踏の中で見失わないように注視しながら二人を尾行する。もちろん栞奈が現れるのかもしれないと辺りも見回す。驚いたことに二人は駅の改札口を通り過ぎて、東口の地下街アゼリアへと入っていった。川崎の西口は十年くらい前に再開発された新しい街だが、東口は古くからの町で、飲食店や風俗店などが軒を連ねる歓楽街も残っている。そんなところに、愛するカノジョの誕生日を祝うようなお洒落な店があるというのだろうか。二人は寄り添いながら地上へ上がって、アーケードのある商店街に入っていった。アーケード通りも、蒲田に比べると大きくて長いが、蒲田と同じで庶民的な店やファーストフードが軒を連ねている。そんなアーケード街を抜けると、二人は真新しいビルへと入っていった。その姿をカメラに収める。そしてエレベータの扉が開いて、二人は入った。
とそこで突然、ものすごい勢いで、勇治の後ろから誰かが駆けてきた。女だ。勇治も駆け出して、咄嗟に彼女の腕を掴む。二人の乗ったエレベータの扉が閉まる。鈍い音がホールに響く。落ちたのは刃渡りが二十センチくらいはあろうかという包丁だ。
勇治は自力で大惨事を回避したヒーローだ。何しろ一人の女の犯行を未然に防ぎ、一人の美女の命を救ったのだから。
「何をするんだよ!」
女は鋭い目で勇治を睨(にら)んで、床に落ちた包丁を拾った。女は栞奈ではない。昼過ぎに、みなみのマンションに来た面長のハーフの女だ。運よく、みなみたちには見られていないし、ここにいるのも勇治と女の二人だけだ。
「君は、お昼ごろに蒲田にいたね?」
勇治の言葉で、細い身体を屈めて拾い上げた包丁をバッグの中に仕舞った女の顔が、動揺したかのように引き攣った。そしてすぐまた睨んでくる。
「あんた、警察(サツ)?」
「いいや」勇治は首を振った。「そうじゃないけど、たぶん君の味方だと思う」
「それにしても、あの二人、こんな店を予約して、いい気になりやがって」
二人が乗ったエレベータは五階で停まっていた。
案内板で五階の店を見て驚いた。そこは勇治のような貧乏人は決して近寄らせない高級感やセレブ感を漂わせる店だ。川崎や蒲田といった京浜工業地区に不釣り合いな店である。蒲田もそうだが川崎も、もつ煮込みと焼き鳥が名物の立ち飲み屋がいちばんよく似合う。だのに、二人が入った店は東京でも港区あたり、神奈川でも横浜の港周辺が似合いそうな、伊勢海老と黒毛和牛が名物の鉄板焼きの店だ。値段のほうも、夜のコースは最低でも一万円する。
そこでスーツを着た男の一団が、こちらにやって来た。ここで会話するのも憚(はばか)れる。ちょうど道路を挟んだ向かい側に、蒲田や川崎のような場末の雰囲気が漂う喫茶店があった。あそこの道路側の席ならビルの入り口も見張れそうだし、煙草も吸えそうだし、コーヒー一杯の値段も安そうだ。勇治は喫茶店を指さした。
「良かったら、あの店で少し話を聞かせてもらえませんか?」
「いいわ。あそこだったら、あの二人が出てきたところが見えると思うから」
というわけで、勇治と女は喫茶店に入った。夕方だというのに客は誰もいない。難なくビルの入り口という舞台が横向きに見られる特等席に座ることができた。コーヒーは一杯四百円だし、テーブルにはちゃんと灰皿も置かれている。全席喫煙席らしく、勇治にとっては理想的な喫茶店だ。
注文したコーヒーが届けられると、さっそく女が煙草に火を点けた。それに合わせて勇治も煙草を吸い始める。
「そういえば、あんた、名前は?」
「田中勇治、二十八歳の独身」と答えると、女は可笑しそうにプッと煙を吹き出した。
「わたしと同い年じゃん。ぜんぜんそんなふうに見えないし」
「だったら、年上に見えた?」
「なわけないじゃん。絶対に下」
日本人よりも色素が薄い茶色い瞳が笑った。肌の色もかなり薄い。この薄さこそ、彼女が純粋な日本人でないことを物語っているようだ。
「ところで、君の名は?」
再び彼女は煙を吹き出した。数年前に大流行した映画のタイトルで聞いてしまったからだろう。
「わたしは、河合アリス。アリスはカタカナ。ママの国でも一般的な女の子の名前になるからということで、付けられたの」
「ということは、やっぱりどこかの国の人とのハーフなんだね?」
「そう。ママはアメリカン。バリバリの白人」
アリスは誇らしげに言って、コーヒーカップに口を付けた。口紅が濃く塗られているみたいで、白いカップの縁に紅が付いた。
「そうすると英語もペラペラなんだ」
「ううん。ママも日本語ペラペラだから家の中はずっと日本語で、逆にパパはそれほど英語が喋れないから、そうでもないの。きっと向こうの小学生低学年くらいの英語力かな」
アリスははにかむような笑みを浮かべた。勇治は前かがみになって、彼女の顔に顔を近づける。
「ところで、どうしてあんなことを?」
彼女も顔を近づけてくる。化粧の匂いは昼と比べるときつくない。むしろ煙草の匂いを消してくれて、程よい香りに感じた。
「憎かったから。本気で殺そうと思ったの。止めたときは怒りで頭の中がいっぱいだったけれど、今はもう勇治くんが止めてくれたのをとても感謝している」
勇治は心の中でガッツポーズ。勇治の好感度が、アリスの中でぐっとアップしているからだ。何しろ彼女が罪を犯してしまうのを食い止めたのだから。アリスは勇治の好みのタイプではないけれど、彼女もいつでも会えるようにキープしていいレベルの女だ。何しろハーフで見栄えがいい。そして次は、みなみをものにするのだ。勇治のお陰で殺害を免(まぬ)れることができたみなみに対して、勇治の好感度をぐっと上げる。君が殺されそうになるのを助けてあげたのだよ、なんて教えてあげて。
「それは良かった。憎しみで人を殺したら、新たな罪と憎しみが生まれるから」
勇治の言葉にアリスは首を傾げた。でもすぐに表情が崩れた。
「そうね、きっと勇治くんの言うとおりね。あんな奴、ぶっ殺したところで、わたしの罪は一生消えないし、奴の遺族からも憎まれてしまうって意味ね」
勇治は感心して頷いた。アリスは勇治の予想以上に頭が切れるみたいだ。勇治の言葉の意味を完全に理解している。でも、それほど頭が切れる彼女が、あんな短絡的な行動を取ってしまったのか、興味が湧いてくる。
「そうすると、お昼ごろ深田が住んでいるマンションの前にいたけれど、まさか、そこからずっと彼女を見張っていた?」
アリスは首を横に振った。「在宅がどうかを確かめてから、いったん家に帰ったわ。それでもう一度出直して、川崎に来た。あいつが同伴するときに待ち合わせで利用するカフェは分かっていたから。そこに行ったら偶然、あの二人が出てくるところだった」
そこから勇治と同じように、尾行していたようだ。そのことは勇治も気付かなかった。
「それで殺そうと思って、さっきあんなことをしたんだね?」
「そう。それまでは人通りも多かったから、なかなかチャンスがなくて」
確かに彼女の言うとおりだ。東口に抜ける駅の構内はもちろん、地下街も地上に出てからの歓楽街も往来が激しかった。
「それで、どうして殺したいほど憎いの?」
アリスは唇を噛みしめて目を伏せてしまった。理由は話したくないのだろう。でも理由を聞きたい。勇治は煙草を吸い、再び前のめりの姿勢になる。
「話したくないのなら別にいいんだけれど。でも、できたらアリスさんの手助けをしたいんだ。俺のできる範囲で」
「ありがと」彼女はこくんと頷いた。そして潤ませた茶色い瞳を上げる。「実は、昨日、わたしのカレシが殺されちゃって……」
「エエッ!」
勇治は思わず声を荒げてしまった。真ん前でアリスが顔をしかめて、唇に人差し指を当てている。幸い客は二人以外に誰もいない。そして店員も厨房(ちゅうぼう)に入ったままだった。
「ごめん。ごめん。ちょっとというか、かなり驚いてしまった……」
そりゃあそうだ。いくら女性にだらしのない勇治にも、赤くて温かい血が流れている。罪のない人が死んだと聞いて、驚いたり悲しんだり怒ったりしないのは、独裁者とテロリストくらいだ。
「そりゃあ、そうよね。それで昨日の夜、北斗とのデートの待ち合わせがあって、北斗というのがわたしのカレシの名前なんだけどね、佐藤北斗というの。それで、北斗が来るのをずっと待っていたんだけど、ぜんぜん来ないから、何度もラインを送ったんだけど、なかなか既読にならなかったし、だから電話も掛けたんだけど、繋がらなかったから。六時に待ち合わせていて、待ち合わせのお店が閉店になる十時まで待っていたんだけれど、結局、お店に来なかったし、ラインも既読にならないし、電話にも出なかったの」
「それで、カレシの家に行ったの?」
彼女はかぶりを振った。「行けなかった。だって、付き合い始めたばかりで、一人暮らしを始めた北斗がどこに住んでいるのか分からなかったから。実家の連絡先も分からなかったし、蒲田の町のどこかに住んでいるということしか、分からなかったから……」
「それで、警察に連絡したの?」
再び彼女はかぶりを振った。「しなかった。だってまさか殺されているとは思わないでしょ。きっとわたしのことを嫌いになってしまったと思ったから。だからコンビニでお酒を買い込んで、一人で飲みながら泣いたわ」
「アリスさんみたいな美人が、どうして嫌われたと思ったわけ?」
美人なんてとんでもないと照れると思ったら、アリスはコーヒーを少し啜って、スルーした。
「だって北斗の元カノがみなみだから」
なるほど、と勇治は納得した。殺された北斗は、ちょっと前までチョウザメの卵を食べていたけれど、今は鮭の卵しか食べられなくなってしまい、チョウザメの卵の味が忘れられなかったのだ。勇治にとっては何とも羨ましい話だ。なぜなら勇治はちゃんとしたカノジョなんかいなくて、この数年間、鱈(たら)の卵すら食べたことが無かったのだから。鮭の卵でも上玉だというのに、チョウザメの卵を欲するだなんて、なんて贅沢(ぜいたく)な話だろうか。罰(ばち)が当たって殺されてしまっても仕方があるまい。
「それで、今朝になって刑事がうちに来たの。何度も北斗の携帯電話にラインを送っていたし、何度も電話を掛けていたから、わたしのところに来たみたいだった」
アリスは粟色の長い髪をかき上げて、新しい煙草に火を点けた。釣られるように勇治も新しい煙草に火を点ける。
「それで、どんなことを聞かれたの?」
「なぜ昨晩は何度も北斗の携帯電話にラインして電話を掛けたのかのということ。そんなの、わたし達のラインを読めば分かるのにね。それから、勇治くんに聞かれたのと同じで、連絡がつかないのなら、なぜ家に行かなかったのかということ。それから、北斗の交遊関係と、昨日の午後五時から七時まで、わたしがどこで何をしていたのかということ。どの質問にも正直に答えたわ」
午後五時から七時の間の行動を聞くということは、アリスも犯行を疑われたということだ。そしてその時間に犯行が行われたことになる。
「正直に答えたって、アリスさんは何て答えたの?」
「まず携帯にラインとか電話をしつこくしたのは、デートの約束の時間になっても北斗がなかなか来なかったから。さっき、勇治くんにも話したけど、家に行かなかったのは、付き合ってまだ日が浅くて、家の場所が分からなかったから。そうそうそう、デートの約束なんかをすっぽかされたことがあるか、ということも聞かれたわ。まだそんなにデートもしていないけれど、無いと答えた。というより北斗は、待ち合わせの時間より、たいてい五分とか十分前に来ていたとも言ったわ。それからわたしの昨日の行動だけど、五時に仕事が終わってから六時までの間は、待ち合わせの蒲田に移動して、一人で町をぶらぶらしていて、六時からはずっと待ち合わせのカフェにいたという感じだったわ」
アリスは昨日のことを詳細に思い出すように、首を傾げたり、むつかしそうに顔をしかめたりしながら答えてくれた。だけれど、勇治がいちばん聞きたいのは、そこではない。
それに勇治は先ほどから、亨二とみなみが入ったビルの入り口を張るのも、忘れてはいない。アリスの話に頷きながらも、目はちゃんとビルの入り口を張っている。こんなことができるのだから、潤也ではなく勇治こそが名探偵ではないだろうか。
「それと、北斗さんの交遊関係は、何て答えたの?」
「北斗の元カノでみなみのことは話したわ。あとはわたしも交遊関係を知らなかったから話さなかったけれど、でも今さっき、とても驚いた。みなみの奴、亨二と一緒にいたじゃない。亨二って他にスレンダーなカノジョがいるのよ。そしたら、よけいに怒りが込み上げてきちゃってね。実は、そのカノジョとわたし、昔から仲が良いから」
アリスは一息にまくし立てた。かなり興奮しているようだ。勇治も驚く。アリスはみなみばかりか、亨二とも顔見知りだ。そして栞奈とも仲がいいと言う。ということは……煙草をくゆらせて少しだけ考える。
アリスはきっと北高出身だ。北高にはアリスの他に、みなみと整形しているけれど久美とくる。北高は学力の偏差値こそ低いのに、女の子の顔面偏差値ときたらどれだけ高いのか。勇治は驚きを禁じ得なかった。学力の偏差値がやたら高い嵐陽でも、これだけ顔面偏差値の高い美女が揃(そろ)っていただろうか。
「となると、アリスさんも北高出身?」
「そうだけど……」アリスは唇を緩ませて紫煙を吐き出した。そして首を傾げる。「あれ、田中勇治くんって、そんな子、北高にいたかしら?」
「俺は嵐陽高だよ。そこから慶稲田大」
と、勇治はさりげなく自分の学歴をアピール。高学歴のイケメンと知ると、尊敬の眼差しが向けられ、「すごお~い」と感嘆の声をあげるのだが……
「そんな人が、なぜわたし達のことに興味を持つのよ?」
いぶかしげな眼差しが向けられ、とがめるような声で聞いてきた。予想外の反応に、勇治はまごついた。頭の中を必死に回転させて考えるが、なかなか良い言い訳は出てこない。依頼者である久美の名前を出してしまうのがいちばん疑われないで済むのだろうけれど、それはやってはいけない。守秘義務があるからだ。
いくら追い詰められていても、勇治は名探偵だ。ビルの入り口から目を離さないという任務も忘れていない。もちろん異常なしだ。
「やっぱ、あんた、警察(サツ)でしょ?」
どうやらアリスは、そうとう警察を憎んでいるようだ。とにかく勇治は、こんなに振ったら乳飲み子なら脳挫傷(ざしょう)で死んでしまうのではないかというくらい、大仰に首を振った。頭を振りながら、返す言葉を考える。
「俺の中学の時の同級生なんだけれど、桜葉潤也って奴、知らない? 奴も北高出身なんだけど……」
こうなりゃ、自称名探偵の潤也を引き合いに出すしかない。同じ北高でも小坂直樹だと、思い切り警察関係者だから。
潤也の名を聞いて、アリスは少し首を傾げた。すぐにリアクションが無いということは、幸運なことにそれほど仲が良くないようだ。そして彼女の表情が一気に崩れた。
「あっ、思い出した。超オタクで根暗な子!」
聞いて勇治は思わず吹き出した。彼の知る中学時代の潤也は、昔の歌みたいに、ナイフみたいに尖って触るものみな傷つけていた悪ガキだ。それが高校生になったら、オタクで根暗になってしまったのである。そんな潤也の姿は想像できない。
「桜葉がオタクで根暗って、本当に?」
「そうよ。それでも少しでも勉強ができれば、わたしらから苛(いじ)められることもなかったと思うけど、勉強ができなかったわたしなんかよりも、さらに成績が悪かったから」
「苛められていたんだ?」
アリスは懐かしそうな目になって頷いた。
「あの頃は無茶やって、マジで楽しかった。水を入れたコンドームを頭からぶつけてやったこともあったわ。そしたら桜葉って、泣きそうになっていたし」
「それって、アリスさんが中心になって苛(いじ)めたの?」
「わたしじゃないわ。わたしとか、亨二のカノジョとかが女子の問題児だったんだけど、そんなわたし達をみなみが操(あやつ)っていたから」
亨二のカノジョとは栞奈のことだ。やはり麻薬に溺れてしまうだけあって、彼女は高校の時から問題を起こしていたのだ。
「彼女がアリスさんたちを操っていたって?」
「あいつ、とにかく男子に持てまくっていたから。亨二たち男子の不良たちも、一つ上の学年の不良たちも、女の武器を最大限に使って虜(とりこ)にしちゃったのよ。いわゆるぶりっ子ってやつ。で、あまりにも調子ぶっこいているから、わたしらでボコしてやろうと呼び出してやったわ。そうしたら、亨二たちから仕返しがくるって逆に脅されて。それからわたしら、あいつの言いなりになってしまったってわけ。とにかく美人で小顔でお洒落で脚が長くてスタイルが良くて、勉強と中身以外は何一つあいつに敵わなかった。性格は思い切りブスで成績も悪かったんだけど、高校生くらいの男子なんかは外見だけで女の子のことを判断するし、脳(のう)味噌(みそ)が足りない女のほうが逆に持てるから。勉強ができなくていわゆるバカキャラ。でも普通のバカじゃないの。男を味方につけるように計算しているのが見え見えで、すごくずる賢(がしこ)いのよ」
アリスの顔には悔しさが滲(にじ)み出ていた。いまだに外見だけで判断してしまう勇治のことも、何だか非難されているようでこそばゆく思えてくる。
「そうだね。俺もそんな時期があったなあ」と勇治は遠い目をして答えた。実は今でもそうなのだけれど。
いくら遠い目をしていても、勇治は名探偵だ。ビルの入り口から目を離さないという任務も忘れていない。もちろん異常なしだ。
アリスは灰皿に掛けてあった自分の煙草がすっかり短くなって、フィルターまで焦がしているのに気付いて、派手なネイルが施(ほどこ)されている指先で押し潰して消した。
「というより、勇治くん。その桜葉がどうしたっていうのよ」
「ああ、あいつって、信じられないことに、深田さんのことが好きなんだよ。高校生の時からずっとみたいだけど……」
「うっそー」とアリスは声を上擦(うわず)らせた。もちろん彼女のことを好きなのは、潤也ではなくて勇治なのだけど。「それって、マジであり得ないし。みなみと桜葉じゃ、月とすっぽん、提灯(ちょうちん)と釣り鐘で、雲泥(うんでい)の差があるから。それにマジで、桜葉ってチョーMじゃね? だってわたしらに苛められていたのって、あいつの指図だって分かっているはずだから」
アリスは勇治の嘘を鵜呑みにして、可笑しそうにケラケラ笑った。それに合わせて勇治も笑みをこぼす。
「それで、あいつ、俺に相談してきたんだ。何しろ俺って、俺たちの中学の時の同級生が被害者の殺人事件を、見事な推理で解決に導いたからね。そんな噂を聞きつけたのだと思う。それで、彼女のことが好きで結婚も考えているから、調査してほしいって頼まれたんだ」
「そうなの~。きも~い」とアリスは可笑しそうに両手を抱えて震える格好を見せた。「ということは、勇治くんって探偵さん?」
「まあ、大したことはないのだけれどね。探偵みたいなことをしていると言ったほうがいいかな」
と、勇治はさりげなく言って、新しい煙草を銜えた。事件を見事な推理で解決した、と言ったのは嘘だけれど、探偵みたいなことをしている、と言っておけば嘘にはならない。嘘を含めて、アリスは勇治の言うことすべてを信じてくれたようだ。
「そんなことないよ。勇治くんはすごい探偵さんだよ。だって、カッとなってしまったわたしの犯行を防いでくれたじゃん。すごいと思う」
「いやいや、それほどでも……」
勇治は照れながら後頭部を掻いた。そして銜えた煙草に火を点けた。お金の心配をしなくてもいいことに、今日は午前中の調査からすでに十本以上、煙草を吸っている。
いくら照れていても、勇治は名探偵だ。ビルの入り口から目を離さないという任務も忘れていない。もちろん異常なしだ。
「ということは、もう彼女を襲ったりはしないね?」
「しない」とアリスはしおらしく頷いた。「しない代わりに、勇治くんの連絡先、教えてくれる?」
「いいよ」と頷くと、アリスの顔が一気に雲が取れたかのように晴れ渡った。
アリスも落ちた。やはり嵐陽高から慶稲田大のイケメンの名探偵は持てるのだ。だったらみなみもじゅうぶんに落とせる。勇治は内心うまく行ったとほくそ笑んだ。
しかし名探偵であるのに、勇治は一つ大きなミスをしていることに気付いて、動揺した。アリスとの会話を録音するのをすっかり忘れてしまっていたからだ。
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