連続殺人は一石四鳥

東山圭文

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連続殺人は一石四鳥

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 電話が鳴った。河合アリスからだ。まったく邪魔くさい女だ。だけれど今はターゲットに動きがない。午前中だし、まだ動きもなさそうだから、ちょっと出てやるか、と勇治はスマホを耳に当てた。
『もしもし。昨日、電話くれなかったけど……』
「ごめん。かなりごたごたしていて……」
 勇治は取り繕(つくろ)う。ごたごたしていたのは嘘ではない。何しろ電話の後で、刑事の小坂直樹がやって来たのだから。でも正直なところ、アリスの電話は忘却の彼方(かなた)に追いやられていたのだ。勇治の頭の中では、それだけ彼女はどうでもいい存在へと、成り下がってしまっている。なぜならパトロンは勇治に惚(ほ)れ込んでいるのでたやすくキープできるし、今は本命に全力投球しなければならないときだからだ。
『それで、昨日話した栞奈のことだけど……』
「殺されたんだろ。いま、警察から依頼が来て、俺も調べているところだ」
 本当の依頼主は警察ではなくてパトロンだけれど。勇治は誰に対しても自分をよく見せようと見栄を張るけれど、どうでもいい女に対しては見栄っ張りな嘘を付き放題だ。
『警察(サツ)?』
「そう。なかなか難しい事件でね。解決のために俺の力を借りたいって、昨日、蒲田署の刑事が泣きついてきたんだ」
『そうだったんだ。だから勇治くん、栞奈のこと知っていたのね?』
「ああ。まあ、そういうことだよ」
 昨日、電話を切るときにアリスが何で栞奈のことを知っているのかと、勇治に問い詰めたことを思い出した。
『そうなると、今日とか明日、わたしと会うのって難しくなるよね』
「そうだね。今日もこれから調査だ」
 本当はもう調査に入っているのだけれど。でも、そう言っておけば電話が切りやすくなる。
『となると、勇治くん。まさかわたしのこと、疑ったりしてない?』
 そう言われると、アリスが疑わしく思えてくる。
「疑うって、なぜ?」
『警察は絶対にわたしのことを悪く言っているに決まっている。だって、栞奈が殺された時間にわたしにはアリバイがないから。それに北斗のときも、わたしが殺していないと完全に証明されていないみたいだから……』
 彼女の言葉を聞いて、勇治は思い出した。佐藤北斗の死亡推定時刻も午後五時から七時の間。アリスは六時以降のアリバイが証明されたが、その前の一時間について、蒲田の町をぶらぶらしていたと言っていたが、その様子が映った防犯カメラの映像が見つからなかったということだろう。
「井原さんが殺害されたときに、アリバイが無いの?」
『うん。わたし、一昨日は体調が悪くて会社を休んで、一日じゅう家にいて、夜遅くに体調が良くなって栞奈のアパートに行ったら、警察の車が来ていたから……』
 アリスの声が不安そうにくぐもっている。確かにアリスは怪しいと勇治は改めて思った。何しろ公衆の面前で包丁を握って、みなみを殺そうとした女だ。いくら栞奈と仲良しだと言っても、何かをきっかけにして、怒りが爆発して直情的に犯行に及んでしまう可能性もあるからだ。
 でも久美が言っていたけれど、これは直情的な犯行ではない。どちらも凶器を予(あらかじ)め用意して、犯行後はその凶器を警察も見つけることができないどこかに隠しているのだから……そんなことを勇治が考えて、二人の間に無言の空気が流れているときに、受話器の向こうでライターを擦る音が聞こえた。アリスが煙草を吸い始めたようだ。
「となると、けっこう警察からも追及されたんだ?」
『そうよ。まるでわたしが犯人であるかのように』
「でもなぜアリスさんを疑うのかな。だって井原さんとは仲良しだったのだろ?」
『そうだけど、先週、ちょっと派手に喧嘩しちゃったから』
「喧嘩?」
『そう。喧嘩の原因について警察に全部は話してないんだけど……』そこで息を吹きかける音が聞こえた。煙草の煙を吐いたに違いない。『実はね。栞奈って亨二と別れてからずっと様子が変だったの。妙に周りを気にして、突然叫んだり泣いたりすることもあって……』
「それ、きっと麻薬が原因だね」
『えっ?』アリスが頓狂(とんきょう)な声を発した。
「うん。麻薬が原因だよ。おそらく好きだった彼と別れて、麻薬も手に入らなくなってしまった。違うかな?」
 勇治が問いかけたが、アリスは無言だ。自分の推理に自信を持った勇治は、さらに続ける。
「そんな井原さんに君は、丸山だけでなく覚醒剤とも縁を切ろうと言ったけれど、彼女は聞く耳を持たなかった。違うかな?」 
『警察から聞いたの?』
 そう聞いてくるということは、やはり本当なのだろう。自分の推理の鋭さに、勇治は酔いしれる。
「いや。そういうわけじゃない。でも調べていくうちにそう確信したんだ。まあ、詳しい調査結果も今日には出されると思うから、そこで彼女が麻薬の常習犯であったということは証明されると思うけどね」
 勇治は調子に乗って適当なことを言った。でも栞奈が麻薬に溺(おぼ)れていたのは間違いないはずだ。現役の刑事と、親友が認めているのだから。
「じゃあ、そろそろ仕事に行かなきゃ」
『来週になったら、会える?』
 これはアリスも脈ありだ。みなみとも、そしてパトロンともデートの予定が重ならなければ、会ってやってもいい。
「無事に事件が解決できた暁(あかつき)には」
『分かった。頑張って犯人を捕まえてね』
 アリスの言葉を聞いて電話を切った。これは中学生の時以来の持て期到来か、と勇治の顔がニヤけた。だけれども、すぐに夢は覚めてしまう。もしこの調査でみなみと覚醒剤の取引が成立し、彼女の罪が暴かれてしまったら、そもそも勇治はみなみとお付き合いすることなど出来なくなってしまうことに、今さら気付いたからだ。
 だったら、この仕事を下りるか。いや、そうしたら百万円を手に入れることは出来なくなってしまう。そうなるとみなみの上客になれない……勇治の中で葛藤が生じた。
 そこでいきなり肩を叩かれ、勇治の身体が跳ね上がった。背中にも冷たいものが伝う。振り返ると潤也だ。鬼の形相というか、ものすごい剣幕で立っている。右手の握りこぶしも震えて、さらがら金剛力士像といったところだ。
「ひえ~、桜葉……」
「このゲソ野郎。こんなところで何をやっているのだ?」
 ゲソはイカの脚のことだなんて、ボケにツッコミを入れる空気ではない。それよりも勇治は、この危機を逃れる見事な言い訳を探さないといけない。
「いや、ちょっと散歩していて、寄っただけだよ。だって俺の家、ここから歩いてすぐだろ。まあ、コンビニで弁当を買うついでに、煙草も買っておこうかな、なんて思っていたからさ……」
 必死に考えたが勇治にはこの程度の嘘しか思いつかなかった。でも勇治のアパートは、ここから徒歩五分程度。駅までの徒歩ルートからは外れているが、同じ新蒲田の町内だ。だけれども、当然のことながら潤也の表情は崩れない。金剛力士像のままだ。
 こうなったら、仕方がない。自分の正直な気持ちを吐露するしかないと、勇治は真剣な面持ちになって、潤也に対峙した。
「桜葉。絶対に笑わないでほしんだけど……」
「笑ってない。俺は怒っている」
「ああ。そりゃあ、見れば分かる。で、本当に笑わないでほしんだけど、同じ町内に住んでいるから、仲良くしないといけないかなと思って。というより、調査していくうちに、惚れちゃって……」
「惚れただと? 深田にか?」
 勇治は顔を俯かせて頷いた。
「マジでお前、ここがどうかなっちまったか?」
 勇治は力士像のまま、自分の頭を指し示し、唾を飛ばした。どうかなっちまったのは勇治の頭ではない。心だ。だけれど何も反論できず、勇治の身体はすくんだ。
「で、昨日とか大田には会っていないな?」
「もちろん。言いつけは守っている」勇治は顔を上げて即答した。
「それで、昨晩は何を食べた?」
「マグロだ」
 これも即答してしまう。でもすぐに口を滑らしてしまったことに気付いて、茫然(ぼうぜん)としてしまう。そんな勇治を、潤也は見逃すはずがない。
「マグロ? どこで食べた?」
 まさか本当のことは口が裂けても言えない。また、旅行がしたくなって京急に乗ってふと三崎漁港までマグロを食べに、というのも見え透いている。だったらこれしかない。
「家だけど、たまには米を炊いて自炊しようと思ってさ。でもそんな大それたもの、俺なんか作れないだろ。料理なんか滅多に作ったことがなくて、いつも外食とかコンビニ弁当で済ませてきているからさ。で、東急プラザでマグロの刺身を買ったんだよ。マグロとかのお刺身なら、手間暇いらずで簡単にご飯のおかずになるじゃないか。それに桜葉から二万円も借りているからちょっと奮発して……」
 得てして嘘と便所は、苦しければ苦しいほど長くなるというものだ。勇治は背中に次々と伝っていく冷や汗を感じながら、上目遣いで潤也の顔を伺っている。潤也は力士像の顔のままで、ある意味、無表情だ。
「お前、本当にゲソ野郎だな」
 やはり勇治の嘘がバレてしまったのだろうか。潤也はいきなり勇治の胸倉を掴んだ。元苛められっ子とは信じがたい強い力だ。勇治の足が宙に浮き、あまりの恐怖に身体ががくがくと震え始めた。
 潤也は怯える勇治の顔を睨み付けた。そして突き放すように手を放した。
「勝手にしろ。ゲソ野郎にはマジでゲソ女がお似合いだ」
 そこ、ゲソでなくてゲスなのですけど。と勇治がツッコミを入れる間もなく、潤也は勇治の前から消えていなくなった。潤也に絡まれている間、不覚にも目を離してしまった時間もあったが、幸いなことに、みなみに動きはなかったようだ。
 さて、勇治は先ほどの思考を再開させなければならない。それはうまくみなみの上客になって、彼女をゲットする方法だ。そもそもみなみが覚醒剤を持っている、または使用しているというのは、久美の思い込みだ。とにかく直樹をはじめ、警察が覚醒剤でマークしていたのはみなみではなく栞奈だったのだ。みなみが覚醒剤なんかに関わっているわけがない。だからみなみはシロだ。シロなのだから当然のことだが、取引を持ち掛けても知らないということになるだろう。そうなっても、いちおう久美の依頼は完遂(かんすい)したことになるから、百万円は手に入るはずだ。そのお金で、みなみの上客になることがじゅうぶんに可能だ。
 そう思うと、知らず知らず顔がニヤけてくる。おまけにパトロン兼保険の久美は、勇治に何の疑いも持たずに惚れ込んでいる様子だから、もっと勇治に貢(みつ)がせることも可能であるに違いない。それに飽きたらたまにアリスをつまみ食い。彼女だって、勇治の虜(とりこ)となっている。これぞまさしく日本版肉山脯(にくざんほ)林(りん)、日本版ハーレム、現代版大奥状態ではあるまいか。
 さらに勇治の顔がニヤけてくる。通りかかった女から、不審の視線を浴びてしまったほどだ。まずい。勇治は顔を引き締めて、みなみの部屋を横目にスマホをいじり始める。
 そうして調査を再開して一時間ほど。ちょうとお昼になったところで、部屋のドアが開いた。出てきたのは長い金髪を後ろで束ねて、化粧っ気のないみなみだ。スエットの上から背中に派手な刺繍(ししゅう)のスカジャンを羽織っている。エントランスに出てくると、下は黒のスエットにサンダル姿。殆どヤンキーという格好だ。だけれど怖い感じはまったくない。強がっているという感じだ。そんなみなみはちょっとコンビニなんかで買い物をして戻るといったところだろう。彼女は気だるそうにゆっくりと、右のほうへと歩き始めた。
 勇治は虎の背中を追う。そういえば虎だの龍だの鯉だの獅々(しし)だの鷹だの、プロ野球チームのマスコットになっている動物は、ヤンキーとかが着るスカジャンの背中に刺繍されるのが多いと勇治は感心した。ちなみに勇治の贔屓(ひいき)のチームはヤンキーの背中には似合わない。だって、ウサギだから。
 そんなことより、どこで彼女に声を掛けるかだ。まさか、この格好で彼女は遠出しないだろう。だいいち駅とは違う方向に歩いている。可能性が高いのはやはり近所のコンビニだ。そうしたら声を掛けるのはコンビニからの帰り道がベストだ。そう勇治が結論づけると、コンビニの看板が近づいてきて、そこへみなみの身体は吸い込まれていった。
 心臓がばくばくと激しく鼓動を打つのを覚えながら、みなみが出てくるのを待つ。路上で互いに面識のない女の子に声を掛ける、つまりナンパなんて松芝に勤めていたとき以来ない。ナンパのときはもっと軽い気持ちになれたが、今度はナンパでも単純なナンパではない。ナンパと同時に取引を持ち掛けないといけないのだ……
 みなみが出てきた。左手に袋をぶら下げている。コートの内ポケットに忍ばせてある高感度ボイスレコーダーのスイッチをオンにして、彼女の動きを伺う。彼女は店の入口の横に設置してある灰皿の横に立つと、煙草をくゆらせ始めた。今だ。勇治は屈託のない笑顔を浮かべながら、彼女の前に現れる。
「深田みなみさんですね?」
「そうだけど」
 初めて聞くみなみの声は、勇治の想像以上に高い声だ。それに大きな瞳も上目遣いで、突然声を掛けてきた勇治に怯え、警戒しているようにも見える。そんなみなみは、今にも食い付きそうに吠えて睨んでいる背中の虎とはまったく不釣り合いに感じた。それに両耳は大きいのから小さいのまで、まるでどこかの国の原住民のようにピアスだらけ。そんなピアスも似合わないし、金髪も似合わない。清楚な黒髪がいちばん似合う、あどけない顔だ。
「俺、亨二のダチなんだけどさ……」と言って勇治も煙草を銜える、煙草はすぐに見つかったが、ライターが見つからない。コートのポケットに手を突っ込み、さらにポンポンと手の平で叩いてライターを探す。
「ということは流星会の人?」
 みなみの目が笑った。さすがキャバ嬢だ。高そうなガスライターを取り出して、火を勇治の煙草の先にサッと差し出してくれた。勇治は軽く頭を下げて、その火を吸い込んだ。
 やはりナンバーワンキャバ嬢に火を点けてもらった煙草は旨(うま)い。でも、煙草をじっくり味わっている場合ではない。
「そうだ。それで少しセイザを譲ってほしいのだが」
 本当に伝えたいのは、お前が欲しいということだが……でもセイザと聞いて、みなみからどういう反応が返ってくるのか、勇治はとても気になった。そんな彼女はこれと言って反応もせず、薄い唇に微かな笑みを浮かべて紫煙を吐き出していた。
「お金、持っている?」
「ああ。金ならいくらでもある。とりあえず今日は十万円ぶんだ」
 本当にいくらでもある。そういう意味で使ったのだけれど、これはみなみにとって、そして勇治にとって、まずい展開ではないか。ここで金を持っているかと聞いてくるということは、わたしは覚醒剤を持っていますと、認めてしまうことになるからだ。
 みなみは勇治の頭から爪先まで、一通り見回した。
「ふうん。そうなんだあ。ちょっと格好いいけど、どう見ても金持ちには見えないけれどお」
「あいにく俺はファッションに金をまったく掛けない主義でね。いつも素材と中身で勝負しているのさ」
 勇治の着ているコートもジャケットもノーブランドで安物。パンツもそうだし、靴に至っては底が擦り減っている。雨の日には靴下の底が濡れてしまうくらい履き込んでいる。その代わりに、イケメンの顔という素材と、頭脳という中身で勝負だ。そんな素材と中身で勝負している勇治は、今は経済力だってある。安物のコートの内ポケットの中から、これもまたノーブランドの札入れを取り出して、中から一万円札を十枚ほど取り出して見せた。
 素材よし。中身よし。経済力高し。その三拍子が揃えば無敵だ。どんな堅固(けんご)な城だって落とすことができる。松芝電気に勤めていた勇治は、そのことを何度か経験している。それはみなみのような美女でも例外ではない。みなみの顔が一気に赤みを帯びた。そして上気した顔を俯かせる。耳から下がるピアスの金の鎖が揺れた。
「嫌だあ。みなみったら、チョー恥ずかしい」
「恥ずかしいって?」
 彼女は小さい頭を一つ、こくりと頷かせた。
「みなみったら、こんなヤンキー丸出しの格好で歩いちゃっているのを見られちゃっているし、煙草なんか吸って、鼻から煙も出しちゃっていたし。これじゃあ、初めて会ったのに、みなみの第一印象、チョー悪だね?」
 完全に落城した。みなみがセイザを持っているということもすっかり忘れて、しめしめと、勇治は唇に笑みを湛(たた)えて首を横に振った。
「そんなことない。ちょっと悪いくらいの女のほうが、俺にはちょうどいい」
「本当に?」
 ここまで来れば大丈夫だ。勇治は彼女の金髪の頭をポンポンと叩く。
「俺はもっとワルだからだ」
「そうだね。いきなりみなみにセイザが欲しいなんて言う人って、かなりワルだね」
 みなみは可笑しそうにクスクス笑った。その顔がとても愛らしい。金髪でなければ、そしてピアスだらけでなければ、可愛らしさが引き立つはずだ。
「これから、みなみの家に案内してあげたいんだけど、嫌かな?」
 これって、いきなり何でもOKということだ。勇治がもし犬なら尻尾を千切れんばかりに振り続け、もしシンバルを持ったチンパンジーならシンバルが壊れんばかりに叩き続けるに違いない。
 でも素材と中身と経済力とワルで勝負する男は、そんなことで喜びの感情を露(あらわ)にしてはいけないのだ。
「じゃあ、案内させてもらおうか」
「わあ。みなみ、チョー嬉しい」
 みなみは高くて甘い声で言って、吸っていた煙草を灰皿に落とした。そして勇治の腕に手を絡めてくる。勇治も煙草を灰皿に消すと、みなみは勇治を引っ張るように歩き始める。
「みなみって、けっこう病弱だから、寒いの弱いの。だから急ご」
「ああ。急ごう」
 行きのだらだらした歩みはどこへやら、勇治の足でも早歩きになる速さで、あっという間にマンションに到着した。みなみの鍵でオートロックのドアを開け、エレベータで三階に移動。そして突き当りの三〇一と、部屋番号の札が張り付けてあるドアを開けて、部屋の中へと入る。
 本当にみなみは寒いのが苦手なのだろうか。リビングダイニングは南国の空港に降りたときのような、もわっとした暑さで満たされていた。そしてお香(こう)を焚(た)いていたような、甘い果物のような匂いがした。
「コートはこのハンガーに掛けて、どこか適当につるしちゃって。ソファーにでも適当に座ってね」
 言われるままに、自分のコートを掛けたハンガーを、毛皮のコートやら革ジャンやらスカジャンやらが吊るされている木製のハンガーラックに掛けた。おそらくこの位置ならリビングでの会話は拾えるはずだ。小さく頷いて二人掛け用の小さめのソファーに腰を沈めた。
「とりあえず何か飲む? と言ってもアルコールしか置いてないけど」
「じゃあ、とりあえずビールを貰おうかな」
 みなみはにっこり笑って答え、缶ビールを勇治の前に置いて、勇治の隣に腰を下ろした。虎のスカジャンを脱いだ彼女は、黒のスエット姿。すっかり部屋着だ。
 缶のプルリングを開けて乾杯する。昼間からビールを飲むなんて久しぶりだ。それだけにとても美味しく感じる。
「そういえば、名前、まだ聞いていないんだけど……」
 みなみは派手なピアスを揺らして首を傾げ、勇治の顔を覗き込むようにして上目遣いで見た。
「ああ。そうだった。俺は田中勇治。亨二と同級生だ」
「同級生?」
 首を深く傾げている。もしかしたら北高の同級生の名前を頭の中で検索しているのかもしれない。
「高校じゃなくて中学だよ。高校は俺、嵐陽だから」
 勇治は得意げに胸を張る。案の定、みなみの顔がパッと明るくなって、「すご~い」と薄いピンクの唇が動いた。
「嵐陽なんてチョー頭がいいじゃん。みなみなんか、勉強ができないお馬鹿ちゃんだったから、やっとこさ北高を卒業したんだから。キョーちゃんも一緒だけど」
「キョーちゃん?」
「あっ。亨二のことよ。マブダチだからそう呼んでいるの」勇治の聞き返した言葉に、一瞬だけみなみの顔が凍(い)てついたように見えたが、すぐに相好(そうごう)を崩した。亨二がマブダチと聞いて、これは完全にカレシになれると、勇治は思わずほくそ笑んだ。「で、嵐陽ってことは、みなみたちみたいに高卒なわけないよね?」
「ああ。いちおう大学は慶稲田だよ」
 再び得意げに胸を張る。みなみのリアクションは予想どおりだ。大きい瞳を真ん丸にして驚いている。
「すご~い。みなみなんか、本当にお馬鹿すぎて、高校も卒業できるかどうか危なかったんだから。センセーからちゃんと卒業させてやるから、卒業式は出るなって言われちゃったし。卒業式で暴れる計画がバレちゃったみたいだったから。そんなだったから、大学なんて雲の上の存在だったし、慶稲田大学なんて、みなみにとっては宇宙の彼方のような存在」
「それじゃあ、まるで俺は宇宙人じゃないか」
 みなみは唇を少し尖(とが)らせた可愛い顔で、こくりと頷いた。
「そう。宇宙人。だって、ユウくんみたいに頭が良くて格好いい人、みなみ、見たことないもん」
「俺も、みなみのようなマブい女は初めてだぜ」
 マブいって完全に死語。笑われてしまうかと思ったが、みなみは形の良い顎を上げて、大きな瞳を閉じた。キスのおねだりだ。勇治はみなみの肩に腕を回して、唇を重ねる。最初は軽かったが、唇が開いて舌が侵入して絡み合う。互いの息と唾液(だえき)を交換し合う、深く長いキスになった。唇が離れると、彼女は恥ずかしそうに顔を俯かせた。
「煙草の味、しなかった?」
「大丈夫。俺も喫煙者だろ。気にならない」
「ありがと。そう言ってくれて、みなみ、嬉しい」
 恥じらうみなみに、勇治は満足感を覚えた。とにかく順調すぎるほど順調だ。何しろ、互いに出会って数分で女の部屋に上がり込み、そして僅(わず)か十数分の時間でキスまで成功したのだ。今までのナンパでも、こんなに早く事が進んだことはない。勇治史上、圧倒的な新記録更新だ。まるでウサインボルトの百メートル走の記録のように。きっとこの勢いなら、ベッドインの新記録だって樹立できる。しかもボルトのように。
 それもそうだが、久美からの依頼のことも忘れてはいけない。こんなに可愛らしいみなみから覚醒剤を手に入れないといけないのだ。そうしないと百万円は手に入らない。勇治は大き目な呼吸を一つした。
「ところで、セイザのことなんだけど……」
「あっ。すっかり忘れていた。みなみって、すぐ忘れちゃうのよね。本当にバカ」
 みなみは拳(こぶし)で自分の頭を叩き、舌をペロッと出してお道化た。それを見て勇治に再び衝撃が走った。
「それで、ユウくんが欲しいのは十万円ぶんだっけ?」
 勇治は落胆を覚えて「ああ」と頷いた。本当に取引が成立してしまったら、絶対にもう永遠に会えなくなってしまう。
「だったらあ、それだけの量を用意するの、ちょっと時間がかかっちゃうの。いくら何でも、ここにはみなみが一回に使うぶんしかないから。あるのはこれだけ」
 みなみはスエットのポケットの中に手を突っ込んで、何かを取り出して勇治に見せた。勇治はごくりと唾を飲み込んだ。本物の覚醒剤を見るのは初めてだ。刑事ドラマとかで見るように白い粉が小さいビニル袋に入っているのを、彼女は微笑みを唇に作って、指輪が幾つも光る指に挟(はさ)んで、勇治に見せている。彼女の可憐な微笑みを見ていると、白い粉は覚醒剤ではなく、高級な砂糖か塩かおしろいのように見える。でも、そんなわけがない。
 勇治は気を取り直して、唇の端に薄い笑みを浮かべた。動揺を隠してニヒルに振る舞わなければならない。
「時間って、どれくらいかかる?」
「そうねえ、明日なら大丈夫だと思う。ちょっとライン、入れてみる」
 みなみはソファーから立ち上がって、キッチンへと移動した。テーブルの上に置いてあったスマホを操作して、どこかにラインを送っている。やはり久美の言うとおり、みなみは覚醒剤の使用者で、売人とも繋がっていたのだ。
 だったら、一度でいいから、みなみを抱いておこう。勇治はそう決心した。ベッドインの記録だけでも大幅に更新させる。とにかく今日じゅうにそこまで持ち込めれば、新記録樹立は間違いなしだ。
「いま、送ったから、明日のお昼までには届くわね。それで、ユウくんに、お願いがあるんだけどお」
 みなみは勇治に凭(もた)れるように腰を下ろした。その肩に自然と勇治の腕が伸びる。
「何だい?」
「十万ね、前金で欲しいの。だって、みなみ、とてもバカだから、すぐお金を貰ったか、貰わなかったか、忘れちゃうから。だから、いつもこういうことは、前金でって決めているの。いい……?」
「分かったよ」
 勇治は立ち上がってハンガーラックのところに行き、自分のコートの内ポケットの中から財布を取り出した。財布の中からすべての一万円札を取り出して、ソファーの前のテーブルの上に置いて、再びみなみの隣に座った。彼女はその金を手に取って、嬉しそうに満面の笑みを見せる。
「ありがとう。分かってくれて、みなみ、チョー嬉しい」
「そうすると、明日の昼に訪ねれば、用意できているんだね?」
 みなみは二度、念を押すように頷く。「うんうん。いくらおバカなみなみでも、それは絶対に忘れないから」
「そうか。じゃあ、俺とのキスも?」
「ユウくん。それはどうかなあ」
 彼女は勇治に気を持たせようとしているのか、視線を流した。勇治の欲求は頂点に達する。こうなりゃ大幅記録更新だとばかり、勇治はソファーの上に彼女を押し倒した。みなみは微笑みを浮かべている。
「ここじゃ嫌。あっちがベッドルームだから、みなみを連れてって。キスだけじゃ、きっとユウくんのこと、みなみ、忘れちゃう」
 みなみは自分の頭の先にあるドアを指で示した。勇治は優しく頷いて、彼女を優しく抱きかかえる。いわゆるお姫様抱っこの状態で、部屋に入った。
 六畳ほどの部屋はピンクに統一されていた。壁も化粧台もカーテンもベッドカバーもすべて薄いピンク色だ。枕元には有名な猫のキャラクターの大きなぬいぐるみが置かれていている。黒と白で統一されたシックで機能的な感じがする久美の部屋と比べると、女の子の部屋という雰囲気を醸(かも)し出している。
 部屋の中央に鎮座するベッドの上にみなみを下ろすと、彼女は微笑んで自分からスエットを脱ぎ始めた。透き通るような肌と、黒い下着が露(あらわ)になる。久美ほど肉付きがよくなく胸もないけれど、想像通りの見事なプロポーションだ。コカ・コーラの瓶のように、腰のあたりはキュッと括(くび)れていて、白い脚もすらりと長く締まっている。そんな完璧な美しさだが、臍(へそ)に嵌(は)め込まれた玉のピアスはともかく、黒の下着に隠れていた小さな薔薇(ばら)のタトゥーを腰に見つけると、さすがの勇治も躊躇(ちゅうちょ)してしまった。
「タトゥー、あるんだ?」
「うん。若気(わかげ)の至り。みなってガチでワルだったから。でも今はチョーいい子だよ」
 みなみは気まずそうに目を伏せた。そうだった。久美もアリスも、みなみはかなりのワルだったと証言していた。だけど勇治は亨二のダチだ。流星会の組の者という設定だ。だったら、タトゥーごときで怯(ひる)んではいけない。それも下着に隠れてしまうくらいの、本当に小さいタトゥーではないか。
「そうだ。さっきも言ったけど、それくらい悪いほうが、俺には似合っている」
「みなみ。ガチで嬉しい」
 みなみが起き上がって勇治の身体に抱き着いてくる。勇治は彼女の身体の上になって、白い項(うなじ)を吸い、手は胸を攻め、みなみは喘(あえ)ぐような声を弱く出し始める。
と、そのとき、玄関の鍵が開く音が聞こえた。不意の出来事に、みなみの喘ぎが止まり、勇治の身体も硬直した。
「やべやべやべ。ガチでやべ。逃げて」
「逃げてって?」
 みなみの無茶苦茶な言葉に、勇治は戸惑う。何しろ勇治は生まれたままの素っ裸の姿だ。それに真冬だ。しかもここは三階だ。
「いいから、これ持って、すぐに窓から飛び降りて」
 脱ぎ捨てた勇治の衣類を押し付けて、みなみは窓を開けた。その顔は完全に色を失っている。と言われても勇治はベッドの上から動けない。言われたとおり飛び降りたら、骨折して病院に送られてしまうかもしれない。しかも生まれたままの姿だから、病院だけでは済まされないだろう。もし運よく骨折せずに済んだとしても、すぐ住民に発見されてしまう。いずれにしても警察だ。そして警察からも、蒲田の住民からも、国民からも、もちろん潤也からも、白い目で見られて、後ろ指をさされてしまうのだ。
 それだけは駄目だ。ぶるぶると勇治はかぶりを振った。
「何をしているの。いいから、早く飛び降りて」
 みなみが勇治の腕を引っ張る。そもそも何がヤバいのか。そして何で勇治が逃げなくてはいけないのか。その意味が勇治に分からなくなってくる。
「おい。みなみ。いねえのか?」
 外から男の低い声がした。もちろん初めて聞く声だ。状況は初めて勇治にも理解できた。でも勇治が逃げなくてはいけないというのはおかしい。勇治から部屋に押し掛けたのではなく、みなみが勇治を誘ったのだから。
「いいから。早く飛び降りて。ブツは絶対に用意しておくから」
「でもコートが……」
 と勇治が言いかけたところで、部屋のドアが開いてしまった。と同時に怒声が部屋の中に響き渡る。
「みなみ。てめえ、何をやってんだ?」
「キョーちゃん。みなみね、ユウくんに脅されて……無理やり、本当に無理やりなの……」
 こちらも黒い下着をつけたままの、ほぼ生まれた姿のみなみは、フローリングの床にへたり込んだ。その身体は恐怖にがくがく震えている。
「こいつが無理やり脅(おど)したのか?」
 男は勇治の顎を押し上げた。男と目が合う。パンチパーマで四角い顔。彼こそ正真正銘の丸山亨二だ。サングラスを掛けていない顔を始めて勇治は見たが、目はつぶらな瞳というやつで迫力に欠けている。しかし針金のように細い眉には威圧感がある。
 勇治は恐怖に全身が震え、ぶるぶるとかぶりを振った。
「お前、どっかで見た顔だな?」
「あら? ユウくんって、キョーちゃんのダチって言っていたし、キョーちゃんと中学の同級生で流星会の人だって」
 亨二は勇治の顎を片手で掴んだ。踏ん張っていないと顎の骨が砕けてしまいそうな、もの凄(すご)い力だ。その痛さに勇治は思い切り顔をしかめた。
「こんな男、俺は知らねえ。ダチでも同級生でも組のものでもねえ」
「だったら、キョーちゃん、警察(マッポ)?」
「違うだろ。だいいち警察なら、こんなところで、みなみを裸になんかしねえよ」
「キョーちゃん。そう言うけど、分からないわ。みなみが高校生のときに、警察に補導されたとき、若い警官がみなみのこと、ガチでオンナを見る目で見ていたもん。警官だって、所詮(しょせん)は男なんだから」
「どうして、みなみ、高校の時に警察署なんかに?」
「あ、あれよ。女ジェイソンがヘマやって」
「女ジェイソン?」
「そうよ。大田久美。あいつがヘマして、捕まったことがあったの」その言葉に勇治の身体が反応したのは言うまでもない。久美がヘマをやったということは、久美も高校生の時に、警察署に連れて行かされたのだ。「それよりキョーちゃん、その男。みなみのこと脅して、無理やりやろうとしたの」
「そうだったな。てめえ、みなみの頭の中が弱いのをいいことに、たぶらかそうとしただろ?」
 少し緩んでいた亨二の力が再び込められる。その中で勇治は声も出せずにかぶりを振った。
「キョーちゃん。みなみの頭の中が弱いって、あんまりじゃない?」
「だってそうだろ。お前、アルファベットをAから順番に最後まで全部言えるか?」
「もう。キョーちゃんたら。英語なんか使えなくたって、生きていけるんだから。ここは日本!」
「だったら、九九の七の段を言ってみろ」
「もう。これでも、昔はちゃんと言えたんだからね」
「本当にみなみみたいなバカ、見たことねえよ」
「あら、見ていたじゃない。高校のとき、みなみよりおバカだった奴がいたから」
 もしかしてそれって潤也のことだろう。コンドームとパンティに続く愉快な話が聞けるかもしれないと、こんな状況でも勇治は聞き耳を立てる。
「おお、桜葉か。あいつはマジでバカだった。九九どころか足し算すら怪しかったもんな」
「でしょでしょ。それでさあ、からかって苛めていたのに、勘違いしてチン●コ立っていたし。というより、キョーちゃん。その男、みなみ、ガチで怖かった」
 みなみを見ると、彼女はすでに生まれたままの姿ではなく、黒のスエットを着ていた。そして灰皿を床に置いて、座り込んだまま姿勢で煙草に火を点けている。
「てめえ、俺の女に手を出したな。みなみを危険な目に遭わせやがって。この落とし前、マジでどうつけるんだ、えっ?」
 亨二の顔が怒りで赤く染まる。そんな赤鬼のような顔が、彼の息の匂いを感じるくらいに近づく。土曜日だからというわけでもないだろうが、昼間から酒を飲んでいたようだ。亨二の息から酒の匂(にお)いがした。
「いや、その……落とし前と言われても……」
 口を押えられている勇治の言葉は、言葉になっていない。言葉はもぐもぐと口ごもっているだけだ。
「そう。みなみ、狼に狙われてとても怖かったあ」
 信じられないことにみなみは、煙をゆっくりと吐き出して、両腕を抱えてぶるぶる震える格好をしている。勇治の裸体も恐ろしさにぶるぶる震えて、止まらなくなってくる。
「やっぱ、金だな。人様のものを盗んで傷つけたら、慰謝料(いしゃりょう)を請求することが認められているんだよ。てめえは俺の女を盗んで、傷物にして、俺の心を傷つけたんだ。これって正当な権利だよな、えっ?」
 顎を握る亨二の指の力がより強まる。「傷物なんかにまだしていません。本当に許してください。ごめんなさい」と発したが、もちろん勇治の声は亨二の耳には届かず、勇治の口の中で籠(こも)るだけだ。
「みなみ。こいつの持ち物、すべて持って来い」
「着替えなら、ベッドの上にあるけれど」
「コートとかカバンとかあるだろ。その中にこいつの財布が入っているはずだ」
 コート、それはまずい。ポケットの中にはボイスレコーダーも入っている。勇治は立ち上がろうと力を入れた。しかし亨二はもう片方の手で勇治の頬を殴った。目の前に火花が散る強烈なパンチだ。勇治の裸体はベッドの上に倒れ込む。
「おい、みなみ。何か手足を縛れるヒモみたいなものも持ってこい」
「キョーちゃん。分かった」
 この流れでは間違いなく、勇治の手足が縛られてしまう。勇治は逃げようと身体を起き上がらせようと力を入れたが、亨二の巨体が勇治の裸体の上に覆い被(かぶ)さったから堪(たま)らない。ベッドの上で勇治は完全に押さえ込まれて、身動きが取れなくなってしまった。
「な、何をする。い、いったい、どうするつもりだ?」
「決まっているだろ。可愛い俺の女を誑(たぶら)かしたんだ。それなりの慰謝料を貰わないとな」
「い、いくらだ?」
 と聞いたところで、「キョーちゃん。こいつのコートの中から、こんなもの、出てきたんだけど」とみなみの声が聞こえた。これはまずい。勇治は身体を起こそうとしたが、もちろん微動だにしない。勇治の頭は亨二の手の平の下で、完全に押さえ込まれている。
「ボイスレコーダーじゃねえか。みなみ、こいつ何か変なこと言っていなかったか?」
「うん。言っていた」
 これで万事休すだ。勇治の身体からガクッと力が抜けた。
「内容によっては、気付かなければまずいことになっていたかもしれないぜ。みなみ、今すぐこいつを叩き壊せ」
「キョーちゃん。分かった。はい。これ、ロープ」
 その姿は見えないけれど、みなみがボイスレコーダーを何かで叩き割っている音が聞こえてきた。そして勇治の身体は、後ろで両手がきつく縛られ、続けて両脚が縛られてしまた。これで完全に身動きが取れなくなる。
「お、俺をいったいどうするんだ?」
「まずは金だ。みなみ、財布の中は?」
「チョー時化(しけ)てる。二万だけ」
「その前に十万も払っただろ。十万円も」勇治はムキになって声を張り上げた。
「みなみ、本当か?」
 勇治は顔を動かして立っているみなみの顔を見た。みなみは煙草をくゆらせて、激しくかぶりを振った。
「みなみ、知らない。そんなこと、知らないもん。キョーちゃん、信じてくれる?」
 信じられないことにみなみはしゃくり上げている。ここで涙はずる過ぎる。勇治は声を張り上げた。
「嘘だ。みなみ、チョー嬉しい、とかほざいて、喜んで十万円を受け取っただろ。知らないなんて嘘だ」
「てめえ!」と亨二は勇治の髪を掴んで上体を起き上がらせた。やはり亨二は、勇治よりもみなみの言うことを信じている。
「嘘だ。お前の女は嘘をついている」
「嘘だと、てめえ。人の女を嘘つき呼ばわりしやがって、これをよ、マジで名誉棄(き)損(そん)って言うんだよ」
 勇治は先ほどと逆の頬を思い切り殴られた。その勢いで勇治の裸体は、ベッドの上から床に落ちた。そのとき、頭を激しく打つ。痛さに顔をしかめていると、今度はその頭部を踏みつけられた。
「ホント、ガチでキョーちゃんの言うとおりだし。それじゃあ、みなみがチョー嘘つきで、サイテーな女みたいじゃね」
 勇治の頭を踏みつけているのはみなみだ。そしてみなみは可笑しそうに、ケラケラと笑い始めた。
「こいつ、桜葉と一緒じゃん。みなみに苛められて興奮して立っているし」
 恥ずかしいという感情は無かった。それよりも恐怖の感情が勇治の心の中を支配している。
「それよりよ。俺のダチだと言ってみなみを誑(たぶら)かせ、みなみを傷物にして、おまけにみなみに対して名誉棄損だ。これってよ、罪状は強制わいせつに名誉棄損ってやつだよな。たった二万で済むと思うか?」
「だから十万……」
「っていうか、みなみ、知らないから」
 再びみなみの足に力が入って、身体と心に感じる痛さに勇治は顔をしかめた。これはいわゆる美人局(つつもたせ)というやつだ。勇治はまんまと二人が仕掛けた罠に、引っ掛かってしまったのだ……
そのとき、勇治にふとよい考えが湧き上がってきた。佐藤北斗と井原栞奈だ。
「北高の同級生二人を殺したの、やっぱりあんたじゃないか?」勇治の頭を踏みつける足の力が緩んだ。ここぞとばかりに勇治は続ける。「どちらの殺しにも、あんたはアリバイが無いんだってな。それに佐藤はお前の元カレだし、井原はこの男の元カノだろ。それに犯行があった後に、六郷土手にある殺された佐藤の現場まで行っているよな。犯人は必ず現場に戻ってくると言うからな」
「何なの、この男。ストーカー?」みなみはそう言って、勇治の腹に蹴りを入れた。力がそれほど強くなかったからであろうか、痛さに慣れてしまったからであろうか、身体にも心にも痛みはまったく感じない。
「マジでお前、誰だ? 会話を録音していたし、タダ者ではないだろ?」
 再び亨二によって勇治の身体は起こされた。亨二は勇治の顎を掴んで、睨みを利かしている。
 もう、こうなったら怖いものはなにもない。しかし手も足も縛られて出せないのなら、口を出すしかない。勇治は唇を尖らせて、亨二の四角い顔に向かって痰(たん)を吐きつけてやった。勇治の痰は亨二の団子鼻のてっぺんに、面白いように命中した。ダーツなら百点ゲットできるだろう。
「あんた、キョーちゃんに何をするの!」
 みなみは高く尖った声で叫び、勇治の脇腹を蹴った。だけど痛くも痒(かゆ)くもない。やぶ蚊に刺されてしまった方がまだ痛い。
「それより、みなみ、何か顔を拭くものを持ってきてくれないか」
 亨二の言葉に頷いて、みなみはさっと背中の物入れからタオルを取り出して、それを亨二に手渡した。亨二はそれを使って、鼻の痰を拭き取った。そしてもう一度、針金の眉根を寄せて、勇治の顔を睨む。
「マジで、てめえ、誰だ?」
「一度、川崎で殺されそうになったのを助けてやった命の恩人だぜ。礼には及ばないけどな」
「はあ、どういうこと?」
 勇治はみなみの顔を睨んだ。「寸前のところで俺が止めてやったから、あんたは気付かなかっただろうけど、包丁を握って、あんたに向かって突進していった女がいたんだぜ。殺されそうなところを助けてやったんだから、慰謝料とか請求されるのって筋違いだと思うんだけどね。それより礼の一つや二つ、あってもいいと思うけど」
「はあ、殺されるって、そんな覚え、無いんですけどお。誰がみなみを殺すって言うの?」
「クスリで頭がどうかなって、気付かないんじゃないのか。お前が殺しの犯人なんだから、誰かに誕生日プレゼントとして命を狙われて当然だろ」
「誕生日プレゼントって、それって……」みなみがほくそ笑んだ。しまったと勇治の顔が引き攣(つ)る。「そう。絶対アリス。アリスって、すぐにカッとなっちゃうし、こいつが言うことがマジなら、北斗を殺したのをみなみと勘違いして殺そうとしていたに決まっている」
「お前、まさか河合アリスに頼まれたのか?」
 勇治はぶるぶると首を振った。頼まれたのはアリスじゃないし、たとえ当たってしまったとしても、勇治には守秘義務がある。口が裂けても、勇治の唯一の肉親というべき母親が人質に取られてしまったとしても、言えない。本当のことを言わないと殺すと脅かされてしまったら、本当のことを言ってしまうと思うけれど。
「そうだろ。お前、河合に雇われた探偵だろ?」
 勇治は再び激しくかぶりを振る。当たっているのは探偵だけだ。
「というかさあ、みなみ、絶対に殺していないし。だって、みなみ、おバカでしょ。おバカだから、犯人に嵌(は)められちゃったみたいなの。アリバイっていうの、それがどちらもみなみに無い時間に犯行が行われたって、キョーちゃん、言ったでしょ?」
「ああ。そうだ。みなみは誰かに利用されただけだ」
 亨二の言葉で、勇治は二つの事件の死亡推定時刻を思い出した。両方とも午後五時から七時の間だ。つまりみなみにとってはキャバクラの出勤前の時間帯。それもどちらの現場も川崎への出勤途中に位置している。確かに亨二の言うとおり、彼女が犯行に利用された可能性はあるかもしれない。
「それより、こいつだ。こいつの正体を暴かねえと。場合によっては、マジでこいつの内臓を東南アジアに売り払って、要らないものを東京湾の底に沈めないといけなくなる」
「まあ、みなみ、こわ~い」
 と、みなみが口を押えて身体をぶるぶると震わすのに合わせて、勇治の身体も恐怖に震えた。亨二みたいな連中が、殺した人間の内臓をどこか外国に売り払い、売り物にならない部位をコンクリ詰めにして東京湾の底に沈めるという話をよく聞く。でも、これは本当に行われているようだ。何しろ、蒲田から東京湾も近いし、港も近い。それに最近は忽然(こつぜん)と失踪(しっそう)してしまった行方不明者も多いという。
「貴様、何者だ?」
「田中勇治。出会ったとき、お前には名乗っただろ?」
 みなみの顔を睨(にら)んで言った。みなみは何食わぬ顔をして、新しい煙草に火を点けている。
「確かにそうだったわ。嵐陽から慶稲田に行ったって、みなみに話していた」
「そうだ。俺はお前たちみたいなクズとは違う。選ばれたエリートだ」
「うるせえ」怒声(どせい)と同時に亨二の拳が飛んできた。勇治の身体が吹っ飛ぶ。「口が減らねえ奴だ。みなみ、長めのタオルかなんか持ってこい。こいつに猿轡(さるぐつわ)を噛ませて、何も吠えられなくしてやる」
 亨二がそう言ったところで、玄関のドアを激しく叩く音が聞こえてきた。亨二もみなみも、そして勇治も、一瞬にして身体から動きが失われた。激しいノックは続く。
「深田さん。開けてください。蒲田署の者です。もし開けてくださらないのなら、ドアを叩き壊して中に入れさせてもらいます。深田さん……」
「やべやべやべ。マジでやべ。みなみ、マジで逃げないと……」
 みなみは白い粉の入ったビニル袋を手に持って、亨二に示した。粉の正体は高級な砂糖や塩やおしろいではなく、やはり覚醒剤だったのだ。
「刑事さん。深田みなみは覚醒剤を持っていますよ!」
「てめえ、黙れ!」みなみが勇治の顔面に足蹴りを食らわせた。今度は肉体的な痛みを感じる。「ねえ、それにみなみね、今日は検査されたらガチで終わっちゃうの……どうすればいいかな?」
「こうなったら、逃げるしかねえ……か」
 亨二が部屋の窓を開け、そのまま飛び降りた。靴も履いていない、靴下のままだ。それをみなみの黒のスエットと金髪の背中は、窓から外を眺めている。
「みなみ、こわ~い。ムリムリムリ……」
「怖くない。みなみ。俺が支えるから、ここに向かって飛び降りてこい!」
ドアを叩く音にかき消されそうになりながらも、亨二の叫び声が下から聞こえてきた。
「ムリムリムリ。みなみが、運動神経がなくて、高いところが苦手なの、キョーちゃんだって知っているじゃない」
「バカ言ってんじゃねえ。捕まっちまうんだぞ!」
「刑事さん。裏にも回ってください。裏から深田と丸山が逃げようとしています!」と勇治が叫ぶ。
「深田さん。ドアを壊します」と刑事の声。
 ドアを叩き壊す音が起きたと同時に、「キャーッ」という甲高い悲鳴を上げて、みなみの背中がふわっと浮いて消えた。同時に刑事たちが、次々と非常階段を下りて行く音が聞こえてきてきた。
 入ってきたのは四人の蒲田署の刑事だ。先頭には直樹の顔だ。
「田中さん。そんな趣味があったのですか?」
直樹は可笑しそうにクスッと笑った。助かった。けれど勇治は恥ずかしさと怒りが込み上げてくる。何しろ勇治の身体は生まれたままの姿で、手足をロープで縛られている。普通でないプレイをしていたように思われたに違いない。
「そんなわけ、ないだろ。殺されかけていたんだ。早く解(ほど)いてくれ」
「分かりました……田中さんも分かっていると思いますが、署には来ていただきます。もちろん洋服を着てですよ。それと、このことは大田け……いや、大田さんには内緒にしておきますから、ご安心ください」
「オオタケ?」
「ああ。大田さんのことですよ。僕の大学時代の同級生で大竹さんという親しくさせていただいた女性がいるのですが、大田さんが彼女にそっくりで、おまけに名字も似ているので、ついつい言い間違えてしまうのです」
 直樹ははにかむように言って、手足のロープを解いてくれた。


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