逆転関が原殺人事件

東山圭文

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「申し上げます。蒲生秀行が降伏を拒否しました」
 上杉が出した条件は、降伏して城を明け渡せば、蒲生秀行以下城内の兵の命を助ける、蒲生家の本領安堵を上杉景勝も一緒になって秀頼公に願い出るというものだった。それだけ寛大な条件を出したのに、秀行は上杉の大軍相手に徹底抗戦の構えだ。
 籠城する秀行の軍は約一万。対する上杉軍は四万だ。それに結城秀康の大軍は下野国にはほとんどいない。徳川家は四方から敵の侵入を食らって、下野国に軍勢を派遣する余裕などないのだ。
「秀行は徳川一門のつもりか」
 景勝は下唇を噛んだ。秀行はまだ十七歳。四倍以上の大軍に囲まれたら、怯えて降伏するだろうと目論(もくろ)んでいたが、その目論見は外れてしまった。
「おそらく豊臣のことを信用していないのでしょう。中でも治部少輔殿のことを毛嫌いしていると存じます」
 側に控えていた直江兼続が答えた。蒲生家は氏郷によって会津を領する大名家になったが、氏郷が死んで幼い秀行が継ぎ、そのときに起きた騒動を理由に宇都宮に減封されたが、それは石田三成が強引にすすめたということを、景勝は思い出した。三成は、秀行が親徳川であることから、蒲生家の減封を強く進めたのだった。そんな三成とのしこりが秀行に残っているのだろう。
「とにかく、ここでは、できる限り兵は減らしたくない。降伏に応じないからと、力攻めをしたら、勝てることは勝てるが、味方の被害も大きくなろう」
「殿のおっしゃるとおりです。ここは城を囲んだまま、動かないのがよろしいかと存じます」
 動かないのが良いという兼続の言葉が、景勝には理解できない。宇都宮を過ぎれば、結城秀康の結城城はわずかな兵しか残っていないし、武蔵に入ればたいした抵抗もなく江戸に辿り着けそうだからだ。江戸までは、それほど堅い守りの城も無い。
「兼続。動かないのが良いとは、どういうことか? 我らの行き先は、江戸までそれほど大きな抵抗も無さそうではないか。ここを過ぎれば江戸まで容易く行けるぞ」
「だからこそ、留まるのです」兼続が答えた。「東海道のお味方も、東山道のお味方も、すぐには江戸に辿り着けませぬ。そんななか、もし我らが江戸に到達すれば、秀康の軍勢がこちらに反転してくることも考えられます」
「そうしたら、東海道の味方と、挟み撃ちにすればよかろう」
「その前に、我らが蒲生軍と結城軍に、挟み撃ちされるかもしれませぬ」
 景勝の背中に冷たいものが走った。そうなると、いくら兼続がいても、負けてしまうだろう。
「ならば、我らはどうすれば良いのだ?」
「毛利軍が上野を平定し、武蔵に入るのを待ちましょう。いくら堅固な高崎も、毛利の大軍が襲い掛かれば、落ちるでしょう。進むのはそれからでも遅くありませぬ」


 毛利の大軍に真田軍が合流して、上野に侵入し、吉井・小幡の城を落として高崎城を囲んでいた。高崎城を落とせば、上野はほぼ豊臣方になる。
城主の井伊直政は東海道方面に出陣していて留守で、守る城兵は五千人程度。しかしながら高崎は井伊直政が治めるようになってから整備された町で、城も二重の堀を巡らせて堅固だ。それに主はいなくても、守るのは戦国最強騎馬軍団と恐れられた、武田の赤備えを継承している井伊の赤備えの兵だ。力攻めをすると、こちらもかなりの損害を被ってしまう。そこで降伏勧告の使者を城内に送ることにした。
「申し上げます。上杉様が下野に攻め込みました」
「佐竹様が下総に、里見様も上総に侵入しました」
 相次ぐ朗報に、毛利輝元は口元を緩めて、安堵の表情を浮かべた。そして真田昌幸に顔を向ける。直接、息子の信繁を見たわけではないけれど、信繁は居住まいを正した。
「それで真田殿。沼田勢が攻め込んでくることはあるまいな?」
 沼田勢とは真田信之のことである。信之は信繁の兄であるけれども、本多忠勝の娘を妻に迎えていることから、徳川方についている。
「はい。愚息は沼田を守るだけでございます。我らが攻め込まない限り、我らを攻めることはございません」
 昌幸は慇懃(いんぎん)に答えた。徳川に味方してしまっている信之の印象を悪くしないためだと、信繁は理解した。
「しかしながら、真田殿は表裏比興の者。我々凡人には、何を考えているのか、まったく分かりませぬ。それはご子息も同じこと。ここは後顧の憂いを取り除いておいた方が良い。ぜひとも真田殿が先陣となって、沼田を攻めていただきたいものだ」
 発言したのは、毛利家の外交僧、安国寺恵瓊(えけい)である。昌幸は恵瓊の皺だらけの顔を睨みつけた。
「もし、そう命令されるのであれば、我らも沼田に籠って、お相手いたそうか?」
 昌幸の発言に、恵瓊は顔を引きつかせて視線を逸らした。彼の巨体が一度大きく震えたのが、信繁にも分かった。
「真田殿の申すとおりであろう。ここで我らの背後を突いてくるのは、愚の骨頂というもの。安国寺殿、そうとは思わぬか」
 そう言ったのは吉川広家である。毛利家の親戚で重臣でありながら、家康と通じていて、美濃においては最後まで戦況を日和見して動かなかったと、信繁は聞いている。そんな先入観があって、広家の薄笑いが、とてもずる賢く見えてしまう。
「裏切り者の恥知らずが」
 恵瓊の口がそう動いたのを、信繁は読み取った。だが広家は平然な顔をしている。聞こえなかったのだろう。聞かなかったのかもしれない。
 そんな広家の横で、一人の若武者が身体を震わせて座っていた。小早川秀秋だ。秀秋は秀吉の正室寧々の甥で、秀吉の養子になった後で、名君・小早川隆景の養子になっている。そんな秀秋だが、朝鮮の役で秀吉の逆鱗に触れて大幅に減封されたが、秀吉の死後に家康の計らいによって、大幅に加増された経緯がある。家康の恩義を感じて、彼も家康に通じていた。神経質そうに白い顔を歪(ゆが)めていて、何だかいやいや軍を出しているように見える。
 信繁は身体を震わせた。毛利両川と称され、吉川も小早川も毛利にとっては大事な両輪だ。その両家も毛利を中心にまとまっていない。だから毛利が不利と見れば、どちらも毛利から離れて行ってしまいそうだ。そう思うと、輝元という男が哀れに見えてきた。
「ここは真田殿の言葉を信じようぞ。こちらから手を出さねば、決して信之殿は毛利を攻めてこない。だから早いところ高崎を片付けて、武蔵に進軍するのだ」
 輝元がそう言い終えたところで、城へ遣いに行った者が戻ってきた。
「申し上げます。敵は我らの要求を拒否して、兵刃を交えようとの返答です」
「な、何と……」輝元が言葉を詰まらせた。「兵の数は、こちらは二十倍もあるのだぞ。それでも籠城すると?」
「はい」遣いは控えたまま大声で頷いた。
「圧倒的に数では劣るのに、戦うとは……」
「中納言殿。それが東夷(あずまえびす)でございます。風情に欠けますが、義に厚いものでござる。たとえ敵が大きくて、こちらが劣勢でも、義のためなら戦い抜く。それが東夷の本来の姿でござるよ」
 昌幸は薄く笑って、軍議の席を立った。信繁も慌ててそれに続く。信繁は少し早歩きして、高崎の城が見渡せる丘のところで昌幸に追い付いた。
「信繁。済まぬ。わしとしたことが少し熱くなってしまった」
「安国寺恵瓊が、我らを信用しなかったからですか?」
 昌幸は黙って高崎城を眺めた。上田と比べたら、ずいぶんと広くて堅固な城だ。
「我らは義のために戦っている。わしもそう、信之もそう、そしてそなたもそう。そしてあの城に籠る兵たちもそうだ。自分たちが圧倒的に劣勢であっても、己の義のために戦い抜くのであろう。彼らも、武田信玄公のご遺志を貫いている」
 昌幸の言うことの意味は、信繁にもよく分かった。城に籠る兵は、井伊の赤備え。武田家の重臣・山県昌景(まさかげ)が率いていた最強軍団を、武田家滅亡後は井伊直政が引き継いだのだ。そして昌幸ももともとは武田信玄の家臣で、信長に攻められ武田家が滅亡しそうなときは、信玄の息子・勝頼を信濃に迎え入れようとして、武田家のお家再興を本気で模索していた。しかし勝頼は甲斐に留まってしまい、本能寺の変の直前に織田信長に攻められ武田家は滅亡してしまった。
「しかし、吉川も小早川も、どうだ? 家康が有利と見れば家康になびき、今度は豊臣が有利と見れば豊臣になびく。毛利輝元もそうであろう。連中は義でなく、利で動いている。そういう連中に、我ら、東夷の心持は理解できぬであろう」
 昌幸は薄く笑った。毛利を嘲笑するものだ。
「すると父上は、もし毛利が付いてこなくなっても、真田だけでも江戸を攻めるということですか?」
「当然だ」
 頷いた昌幸の目は、若武者のようにぎらぎらと輝いて見えた。


 福島正則からの書状が届いて、本多正信は久しぶりに晴れやかな気分となった。書状の内容は、内応に応じるとのこと。それも黒田長政も一緒だ。
 早速、その書状を秀康に報告しに行った。しかし秀康は正則の書状を読み返したあと、大きなため息をついて正信の顔を眺めた。
「正信。でかしたぞ」
 とは言うものの、でかしたという感じはない。何だか落城寸前の城主のように、憂鬱そうな顔をしている。戦となると意気揚々な秀康にしては珍しい。やはり誰かに命を狙われているのかもしれないという疑念があるのだろう。
「秀康様。あのことが気になっているのでございましょうか?」
 正信は単刀直入に聞いてみた。もちろんあのことと言うのは、秀康の命が狙われていることだ。
「あのこととは?」と秀康は惚(とぼ)けた。正信は居住まいを正す。
「秀康様のお命が狙われていることでございます」
 言うと、秀康は自嘲気味に笑った。
「わしも少し考えが変わった。わしを殺す者がいたら返り討ちにしようと思っていたが、今ではわしが殺されて徳川が纏(まと)まるのであれば、喜んで殺されようと思っておる」
 正信は首を横に振った。
「とんでもございません。秀康様がいらっしゃらないと、この難局を乗り切ることはできません」
「そんなことよりも、本当にうまくいくかどうかだ」
 秀康の言葉に正信は首を傾げた。何がうまくいくのか、よく分からない。
「うまくいくかどうかとは?」
「福島正則と黒田長政がこちらの誘いに応じることだ。それがうまく行けば我らは勝てる。しかしうまくいく保証はない」
「うまくいく保証がないというのは、どういうことでしょうか?」
 正信が尋ねると、秀康は再び自嘲した。
「敵が動いてくれるかどうかだ。現に我らがここに陣を敷いてから、敵は一歩も動かぬではないか。夜襲を仕掛けても、慌てる様子がない」
「そんなことはありません」と正信は大仰に首を横に振った。「最初の夜襲では、宇喜多秀家の首に、あと一歩というところまで入り込んだではないですか」
「しかし、その後はかなり用心されてしまっている。敵がこの峠に攻め込んできてくれないと、福島も黒田も動けまい」
 確かに秀康の言うとおりだ。彼らが内応するのなら、敵方が動き、峠に陣を張る秀康軍と戦う時しかない。
「ならば、こちらから韮山を攻め込んでみてはいかがでしょうか? 韮山には福島殿も黒田殿もおりますゆえ」
 これで正信の考えは秀康に伝わったはずだ。韮山には福島・黒田の他に、石田三成と小西行長がいるだけだ。その数、二万五千。そのうちの半分が内応しているのだ。こちらが韮山に攻め込めば、圧倒的に有利に戦える。
 だけれども、秀康はむつかしい顔をして腕を組んで苦しそうに唸った。そして正信に顔を向ける。
「我らが韮山を攻めている間に、興国寺がどう動くかだ」
「山中城を奪われると?」
 正信の言葉に、秀康は首を横に振る。
「そうじゃ。まだ興国寺の主力が韮山を攻めた我らの背後を突くのであれば、勝機はじゅうぶんにある。いちばんまずいのは、興国寺が韮山の味方を捨て石にして、この峠を目指して陣を張られたら、我らが困る。この峠を越えなければ、関東に戻れまい」
 さすが秀康だ。正信は舌を巻いた。やはり、この危機を乗り越えるためには、秀康の力が必要なのだ。
 でも、脳裏にお江の顔が浮かんでくる。
 正信の本心は、秀康を亡き者にして、自分も死ぬつもりだ。だけれど、それをやるのは、少なくとも今ではない。この危機を乗り越えた後だ。今は徳川家のために、秀康の力が必要なのだ。
「それに、味方の中にも、わしの命を狙っている者がおるからな」
 秀康は正信の顔を眺めて、また自嘲した。それを見て、正信は見透かされているような気がして、背中に冷たいものが走った。
「さて、でもこうしている間にも、毛利と上杉が迫ってきておろう。そうなると、我らもここにいつまでも留まるわけにはいかなくなる」
「江戸に退くということですか?」正信は不安になって尋ねる。このまま江戸に退いたら、敵への工作も意味がなくなってしまうからだ。
「いや。退く前に一つ、細工(さいく)をしなくてはいけないだろう」
 秀康は唇に自信のありそうな笑みを作った。


 石田三成は小西行長、福島正則、黒田長政とともに、伊豆の韮山城を守っている。宇喜多秀家などの本隊は興国寺城だ。興国寺と韮山は平坦な道で繋がれていて、軍隊の行き来は容易だが、この両城から相模に侵攻するとなると、山中城と箱根峠を超えなければならない。そこには結城秀康の大軍が陣を張っている。そこでの戦いとなると、いくら兵力に勝っていても、地の利は徳川軍にあって、豊臣軍は不利になる。
「しかし、敵が動くまで待たねばいかないというのは、辛気臭いものよ。こうして、むさくるしい顔も見なくてはならないからの」
 福島正則はそう言って高笑いをした。むさくるしい顔というのは三成のことだ。三成はぐっと堪える。
「ここは敵が退くのを待つのみだ。退いたらこちらに勝機がある」
「小西殿。そんな悠長なことを言っていられるか? 毛利も上杉も苦戦をしているだろう。ここは敵を突破して、我らが助けに行かねばならないのではないのか?」
 正則は行長に食って掛かる。確かに正則の言うとおりだ。毛利軍は高崎で、上杉軍は宇都宮で、それぞれ激しい抵抗を受けているという報告があった。高崎は堅固な城で、城兵も強い。また宇都宮は籠城兵が多い。どちらも数日の戦いで落ちる感じはなさそうだ。
「それで、福島殿はどうされたいのか?」
 島左近が尋ねた。正則は左近を睨みつける。
「もちろん、興国寺の味方とともに、峠の敵を蹴散らすまで。先鋒はそれがしが承る」
「この間も申したが、ここは動かぬ方が良いという意味が、福島殿には分からないのか?」
 正則は左近の顔を、さらに厳しく、鬼のような形相になって睨みつけた。
「山の上にいる敵の方がずっと有利だと申したいのであろう。それくらい、分かっておる。ならば、我々が正面から突き、別動隊が敵の側面、もしくは背後を突けばよかろう。そうすれば兵力に勝る我らが勝利」
 正則の作戦は尤(もっと)もだ。隣で長政も頷いている。三成の隣に座っている三成も、小さく唸った。
「ならば、福島殿のご提案、それがしが備前宰相殿に進言いたそう」
 それでその日の軍議は終了となった。正則と長政が広間を出ていく。広間に残ったのは、行長と三成、そして左近だ。左近が行長と三成に顔を近づける。
「お二人は彼らを、どうご覧になっていますか?」
「どうとは、どういうことだ?」
 三成が尋ねた。左近が深刻な顔になる。
「徳川に内通しているかもしれませぬ」
「内通!」と行長が頓狂(とんきょう)な声を出して、すぐに口を塞(ふさ)いだ。三成の胸の内にも衝撃が走る。左近は大きく頷いた。
「はい……申し上げにくいのですが、殿が……」
 左近の言いたいことは三成にはよく分かる。「憎まれていると申したいのだろう」と自嘲した。
「はい。憎まれているというより、恨まれているのかと」
 左近も薄く笑う。そして行長の顔を眺めた。
「小西様。もし彼らの提案が通ると、我が軍の損害は大きくなるでしょう。彼らの他にも徳川の誘いがあるのは確実です。まさか島津様まで寝返るとは思いませんが、島津様のところにも誘いがあるのは間違いありません。他にも、細川・池田・山内・田中など、美濃まで徳川に味方していたところには誘いがあるはずです。福島・黒田だけならまだしも、もしそれら全てが敵に通じていて、寝返ったとなると、それは一大事でございます」
「では、どうしたら良いのか?」
 行長は苦悩に満ちた顔で、左近に聞いた。三成も左近の顔を凝視する。
「はい。我らが先に動いたら負けると思います」
「我らが先に動いたら負けると?」
 三成の問い掛けに、左近は大きく頷いた。
「はい。敵が動かない限り、我らは動いてはなりませぬ」
「左近。どういうことだ?」
「はい。さすがに敵も完全に勝てると思わない限り、峠を下りてこちらを攻めることはないでしょう。たとえ福島と黒田が裏切っても、興国寺から背後を突かれ、別動隊が峠を占領してしまったら、終わりでございます」
「攻めてこぬということは、興国寺の方に裏切り者がおらぬということか?」
「御意(ぎょい)にございます」左近は行長に頭を下げた。「あちらに徳川に内通する者がおれば、峠を下りて韮山を取り返しにくるでしょう。でも、一向に動きがありません。少なくとも、興国寺に内通者のない状態で、有利な野戦に持ち込むなら良いのですが、城攻めは分が悪いと見ているのでしょう」
「なるほど。それで先に動いたらどのみち負けるのか?」
 左近は三成の顔を見て頷いた。
「御意にございます。ここは興国寺に徳川の内通者がいないことを信じて、敵が退くのを待つのが得策でございます」
 何だか薄い氷の上のような、いつ崩れるか分からない不安定なところにいるような気持ちに、三成は思った。


 良い報せは一つもない。徳川秀忠は不安に駆られていた。
 会津を出た上杉軍は下野に侵入して宇都宮の蒲生軍を下して、結城にて佐竹軍と合流して六万もの大軍となっている。そして毛利軍は高崎城を落として、沼田を除いた上野を平定してしまっている。その十万の軍勢には、あの真田昌幸も合流しているのだ。この二つの大軍が、いままさに武蔵に進攻しようとしていた。手薄になった上総には安房の里見軍が侵攻している。
 武蔵には川越、松山、忍と堅固な城があるけれども、どこも城兵がじゅうぶんにいない。そればかりでなく、この江戸も城兵が少ない。結城秀康の七万の主力が小田原に行ったきり、帰ってこないからだ。
「小田原はどうなっている?」
 秀忠は目の前で控える榊原康政に尋ねた。康政は浮かぬ表情をしている。うまく行っていないのが、秀忠にも伝わる。
「はい。敵が動けば勝機があるのですが、なかなか動かない模様です」
「それより姉上じゃ。この戦を終わらせるように、大阪の姉上に文を認(したた)めた。返事はまだ来ておらぬか?」
 秀忠の隣に座るお江が、神経質に声を尖らせた。お江がそんな手紙を淀君に送っていたのは、秀忠も初耳だ。それにそんな願いが届くわけもない。
「はい。まだでございます」
 康政は控えながら、慇懃に答えた。
「それより康政。そのほうのところに、大野治長から内応の誘いがあったというが、真(まこと)か?」
 お江の質問に、秀忠は肝を冷やした。それは本人に面と向かって聞いてはならないことだ。控えて座っている康政の巨体が、大きく震えているのが、秀忠にも見て取れた。だけれど、お江はそんなことも気に留めず、目くじらを立てて康政の身体を睨みつけている。
「はいっ。仰せのとおりでございます」
「それで、実は大阪に通じでいるのではないのか?」
 堪らず、秀忠は大きく咳払いをした。いくら何でも、康政に聞くことではない。
「決して通じてはおりません。通じているとお疑いなら、それがし、腹を切ってご覧に入れます」
 康政は詫びるように頭を下げたまま、声を張らした。秀忠はお江に身体を向ける。
「お江。敵の内応に乗ったものは、内応の誘いがあったと自ら申し出ない。その点で、康政がいちばん信頼できるから、小田原にも行かせず、江戸で余の近くにおるように命じたのだ」
 秀忠は強い口調で言った。お江にこれほど強い口調で言ったのは、おそらく初めてだ。六つも年上で性格が強いお江に、秀忠は理不尽なことがあっても強く言えずにいた。お江は秀忠の意外な言葉に、目を丸くして驚いていた。
「康政。済まぬ。お江もことがうまく行かず、苛立ちが抑えきれないようだ。そなたに当たってしまい、申し訳ない」
「はい。お方様のご心中、お察し申し上げます」
 再び康政はひれ伏す。お江は顔を逸らした。
「それで、改めて小田原の状況であるが、いかがである?」
「はい」と康政は秀忠の近くに寄って、二人の間に地図を広げた。「敵は伊豆に侵入し、石田隊、小西隊、福島隊、黒田隊が韮山城を落とし、宇喜多、島津などの主力は興国寺にいて、二つに分かれております。それで結城秀康様は箱根峠と山中城に防衛線を張りました」
 結城秀康の名を聞いて、お江の目が尖ったのが、秀忠にも分かった。お江が秀康のことを毛嫌いしているのは、秀忠も気が付いていた。それは、秀忠を廃して秀康を立てようという動きが家中にあるからだ。
 でも秀忠は気に留めず、康政と話を続ける。
「その福島と黒田は、内通に応じておるのだろ?」
「御意にございます。戦いになったら、こちらに寝返るでしょう」
「だったら、兄上はなぜ韮山を攻めぬのか? 余なら一気呵成に韮山を奪い返すところだが」
「はい。箱根にある七万のうち五万でも、韮山を攻めれば城は落ちましょう。ただ、興国寺がどう動くかです」
「背後を突かれるということか?」
「御意。しかしながら、それだけではありませぬ。敵が韮山を捨て石にして、箱根峠を登る可能性もあります。山中城が落ちれば最後。韮山の味方が再び関東に入るのが困難になります」
「敵がそこまで考えておるというのか?」
「少なくとも、秀康様はそのように思われております。そして敵に、島津義弘、島左近といった強者がございます」
 康政の回答に、秀忠は言葉を失った。島津義弘に島左近といったら、父親の家康と共に全国にその名を知らしめた名将だ。そんな彼らと秀康は比肩している。やはり今の徳川に、秀康は必要不可欠なのだ。凡庸な秀忠など遠く及ばない。
「敵が箱根を攻めぬのも、味方に裏切りがおるからか?」
「御意。山を登っている間に、敵と味方の内応軍に攻められたら、一溜(ひとたま)りもございませぬ。小田原は我慢比べでございます」
「うむ」と秀忠は唸った。味方の兵力では、四方から攻めてくるどこか一隊の侵攻を抑え込むのがやっとなのだ。そこを何とか抑え込んでも、もう三方は確実に徳川の城を落としている。徳川領八国のうち、上野・下野・下総・伊豆は、ほぼ敵の手に落ちてしまっている。上総では大多喜城が里見の攻撃にどうにか持ちこたえてはいるが、ここも孤立無援。落城するのも時間の問題だ。
 広間に重い空気が流れた。もう足元の武蔵に、二十万近い敵が迫ってきている。
「申し上げます。毛利勢と上杉勢が、武蔵国に侵入。忍城と松山城を囲んでおります」
 近習の報告に、秀忠は動揺した。その二十万近い大軍が、武蔵に入ってしまったのだ。この二つの城が落ちれば、江戸城の守りは川越城しか残らなくなる。その川越も城兵はわずかだ。
「康政。これで大丈夫なのか? 我らは毛利と上杉に勝てるのか?」
 お江の極度に興奮した尖った声が響く。康政はひれ伏したまま、黙ってしまう。
「これでは大丈夫でなかろう。秀康が余計なことをしてくれたおかげで、逆にこの江戸が窮地に追い込まれてしまったのではないのか。康政、どうなのじゃ?」
「はい。しかしながら、東海道を下る敵を、抑え込んでいるのは確かでございます」
 お江の大きな目が剥(む)いた。その目で康政を睨みつけている。
「康政。そのほうは秀康を擁護するのか?」
「擁護するも何もございません。現に、いちばん早く関東に侵入した東海道の敵を、足止めさせております」
「康政。黙れ。あの男はきっと江戸を丸裸にするために、大軍を引き連れて小田原に向かったのじゃ。それでも足りずに正信の兵まで要求したのじゃ。お陰でこの江戸は守る兵も満足におらず、瀕死(ひんし)の状態ではないか」
 お江は立ち上がった。そしてひれ伏す康政の頭に唾を吐きかける。それを見て、秀忠は慌てて立ち上がり、お江の身体を抑えた。
「お江。何をいたす。康政は何も悪くなかろう」
 秀忠がそう厳しく言うと、お江は秀忠の抑える腕を振り切って、座り直した。
「秀忠殿。姉上に文を認めても、なしの礫(つぶて)じゃ。このままでは徳川が滅んでしまうではないか?」
「敵が退けば大丈夫だ」
 お江は目を剥いて秀忠を睨みつけた。
「敵が退くと、秀忠殿は本気でお考えか?」
「そ、それは……」秀忠は言葉に詰まった。もちろん有利な敵が退くとは考えられない。「兵が多いと兵糧を食う。関東の兵糧は我らが買い占めたので、敵も手に入らぬ。長くはおられない可能性がある」
 さらに厳しい目が、秀忠に向けられた。
「本気で、秀忠殿はそうお考えか?」
 秀忠は思わず目を逸らしてしまった。お江は高笑いを始めた。その黄色い笑いが、しばらく続いた。
「わらわが女子(おなご)だからと、軽く見ないでほしいわ。秀忠殿が言うようなことはまずないと、女子のわらわでも分かるわ。豊臣にも優秀な奉行がおる。それも先の小田原攻めも経験しておる。それと同じように兵糧を用意して、こちらが参るまで攻めるのであろう」
「ですが、小田原に比べて、さらに江戸は堅固な城でございます。何十万の大軍に囲まれても、籠城すれば一年以上は持ちこたえられます」
 康政がひれ伏したまま声を張った。お江は康政を睨みつけた。
「それは兵があっての話じゃ。ところが今の江戸は一万もおらぬではないか。それで一年も持ちこたえると思うか?」
 そう言って、お江は宙を睨んだ。
「全軍、江戸に集結じゃ。城に籠って敵が退くまで戦うのじゃ」そして秀忠を睨む。「秀忠殿。良いか?」
 お江の目力に、秀忠は頷くよりほかは無かった。そしてお江の感情的な叫びはまだ続いた。
「これからはわらわも軍議に参加する。秀康の思うように事を運ばれてはまずいからな。秀忠殿、良いか?」
 これにも秀忠は頷くしかなかった。


 本多正信の部隊は大久保忠隣の部隊と一緒に、結城秀康の命令によって、等身大の藁人形を何体も作っていた。藁人形を作ると、それぞれに足軽用の陣笠を被せ、安価な甲冑を着させる。それを夜のうちに山中城の出丸の下に並べ、それぞれに槍を持たせた。その数はおよそ千体だ。
 そして山中城の広間に正信たちが集められた。上座に腰を下ろした秀康は神妙な表情だ。
「みなを呼んだのは、他でもない。毛利と上杉の軍勢がとうとう武蔵に入ったという報せを受けた。すでに忍城と松山城を囲んでいる」
 報告を受けた者どもの表情が険しくなった。もちろん正信も同じである。割と堅固な城ながら、両城とも守備兵が多いわけではない。五万以上の大軍に囲まれたら数日程度しか持ちこたえられないだろう。それに二つの城を破られたら、江戸までは川越城しか残っていない。
 秀康は一同を見渡した。
「それで江戸から、我らに戻ってくるよう命が下された。わしも命令により、江戸に戻らねばならぬ。そこで、各々(おのおの)方の中から一隊をここに残し、後は退こうと思っている。その一隊に名乗るものはおるか?」
「それならば、私めが仕(つかまつ)ります」
 張りのある声を挙げたのは、驚いたことにお梶だ。十万を超える大軍を相手に、一隊だけで戦うというのは、まさに捨て石だ。死を覚悟しないとできないことだ。お梶は秀康の前に歩み出て控えた。秀康は目を閉じて、唸った。そして顔を上げる。
「お梶の方の軍勢では少ない。それにお梶の方には、江戸に戻って奥(※城の中で奥方の居住地域)の守りもしてもらわねばならぬ」
「ならば、それがしが」
 秀康の前に歩み出たのは、井伊直政だ。赤備えの大将らしく、鮮やかな真紅の甲冑をまとっている。
 直政の申し出に、秀康は満足そうに頷いた。
「直政。感謝する」秀康は頭を下げた。
「秀康様。それがしは美濃で大殿の側におりながら、大殿の御大事を防ぐことができませんでした。そのお詫びとして、お家のために力いっぱい働く所存でございます」
 直政は深く頭を下げる。秀康は目をしばたたき始めた。
 正信は知っている。秀康は勇猛な武将であるけれど、情に厚く、涙もろいことを。
「では作戦を申し伝える。夕方に我らは山を降りる。山を降りたと知ったなら、敵はここぞとばかり攻めてくるはずだ。だが山中の城内と箱根峠には、旗指物を多く掲げよ。夜には松明(たいまつ)もできるだけ多く焚(た)くのだ。また山中城の出丸のふもとに、甲冑を着させた藁人形を多く立ててある。そこに兵を五百か千ばかり忍ばせて、松明を掲げて鬨(とき)の声を挙げよ。そうすれば敵は、我々が退いたのは偽情報だったのかと勘違いして山を降りるかもしれぬ」
「はっ」と直政は若者らしく、声を張り上げた。秀康は目をきつく閉じた。涙を堪えているようだ。そして目を開けると今度は正信に顔を向けた。
「それに正信も残って、直政を補佐してほしい」
 急に言われて正信は焦った。だが、すぐに死の覚悟ができる。
「ははっ」と声を張り上げて直政の隣に進んで控える。顔を上げると、秀康は笑顔を見せて大きく頷いた。
「それでは、皆の者。目指すは江戸! 江戸で敵を蹴散らそうぞ」
 秀康の威勢の良い声に、武将たちが声を挙げて広間からいなくなった。
 正信と直政のところに、秀康が寄る。
「二人には苦労を掛ける。申し訳ない」秀康が頭を下げた。
「そんなことはありませぬ。これもお家のため、ここが死に場所と思い、敵を一人でも多く討ち取る所存」
 直政が答えた。やはり直政も、敵が素直に退くとは考えていないようだ。
「それで正信に、一つお願いしたいことがある」
「何でしょうか?」
「敵は十中八九、退くまい。そこで正信には山中城で出来る限りの熱湯を用意してほしい。そのために残すのだ」
 聞いて、正信の頭の中に閃光のようなものが走った。
「楠木正成公の作戦ですか?」
 秀康は頷いた。襲ってくる敵に熱湯を浴びせるのは、楠木正成が千早赤坂の戦いで使った作戦だ。城門の前に藁人形を置いたのも、正成だ。
「そうだ。幸い山中城は井戸の水がふんだんにあり、枯れることはない。それをできる限り熱湯にしておくのだ。油と糞尿もふんだんに用意してある。敵が攻めてきた場合は、藁人形に忍ばせた味方を城内に退き、藁人形のところに敵が来たら、矢と鉄砲とともに、熱湯と油と糞尿を浴びせてやるのだ。それでも峠に向かう敵がいたら、二の丸と本丸からも浴びさせてやって、弱ったところを峠から直政の本隊が駆け下って、止めを刺す。だけれど深追いは禁物じゃ」
 山中城は街道沿いの土塁の上に三の丸、二の丸、本丸といった曲(くる)輪(わ)が設けられている。街道沿いに大手門もあって、大手門に続く街道の上にも出丸が設けられている。曲輪の下の街道を通らないと伊豆から相模に抜けられない。その街道を進軍する敵方を思う存分に攻撃することができるようになっている。守る方が圧倒的に有利な城である。小田原の役のとき、北条軍はこの城を豊臣に奪われたから、二十万もの大軍が小田原になだれ込んできたのだ。
「では、頼んだぞ」
「ははっ」
 正信と直政は声を揃えて返答した。しかしそれで敵の大軍に犠牲者を多く出すことはできるが、勝つことはできないだろう、と正信は死を覚悟した。


「敵の主力が小田原に退いております。残っているのは井伊直政と本多正信の軍勢だけです」
「真か?」
 島左近は満面の笑みを石田三成に見せて、大きく頷いた。
「はい。敵の内部に通じる者がおりますゆえ、確かでございます。結城秀康は、山中城と箱根峠に旗指物を多く立てて、自軍が退いていないよう、多く見せているようです。さらに山中城の曲輪の下に、甲冑と槍で武装した藁人形を作らせて、多く立てているようでございます。そこに兵を忍ばせて、鬨の声を挙げさせ、退いていないように見せるようです。それを見て、我らが兵を退くのではないのかということです」
「結城秀康も、もう江戸に戻らねば持ちこたえられないと考えたのだろう。何しろ毛利殿、上杉殿、佐竹殿の大軍が三方から迫っておるからな」
 小西行長が楽しそうに言った。三成も同じ考えだ。同席している福島正紀と黒田長政の顔を伺うと、二人とも少し顔をしかめているように見える。
「して、作戦は?」
「はい。まずは山中城を落とすことが肝要です。城を無視して、峠を目指すと、城内から攻撃を受けるのは必定。安全に街道を進むためにも、まずは山中城を落とし、そして峠を目指す。多少の犠牲は覚悟しなければなりませんが、井伊軍と本多軍を合わせても一万程度です。それならそれほど損害を被ることなく勝つことができます」
 三成は大きく頷いた。
「して、陣立ては?」
「はい。ここはそれがしが先陣を務めましょう。その次に小西様と殿。その後に福島様と黒田様が続きます。その後ろから興国寺勢が続くのはいかがでしょうか?」
「左近。それでいこう」
 三成は声が裏返りそうになった。敵に内通している正則と長政を、三成と行長の軍勢と、興国寺城の軍勢で挟んで進軍すれば、彼らが裏切ることもなくなる。
「それでは、殿。出陣のご下知を」
 左近に言われて三成は大きく頷いた。
「よし。それでは山中城に向けて出陣だ!」
 三成の声に、行長と左近は威勢よく応えたが、正則と長政は調子を合わせているだけのように、三成の目には映った。


 山中城で本多正信は、できる限りの井戸水を汲み上げて、大鍋で熱湯にした。結城秀康の指示どおり、城内には旗指物も多く立てさせてある。松明もできる限り焚いて、敵が来るのを待っている。旗指物の数だけを見たら、三万以上の大軍が城内に籠っているように見えるだろう。城からさらに街道を登ったところにある峠にも、多くの旗指物が立ててある。そちらも三万以上いるように見える。
 秀康の指示どおりの作戦だ。出丸の下の藁人形部隊に、千人ほど忍ばせてある。敵が近づいてきたら、彼らに威勢よく鬨の声を挙げてもらう。それと旗指物と松明を立てる。しかし大軍がいると思って引き返す確率は低い。敵はこの山中城を攻めてくる。だから鬨の声を挙げた兵たちを城内に退き、街道を攻めてくる敵に、矢と鉄砲、そして油、熱湯、糞尿の雨を浴びせる。これは主に出丸と三の丸からだ。そして大手門を無視して街道を峠に登っていく敵がいるのなら、二の丸と本丸から同じような攻撃を加える。出丸は正信の部隊、三の丸を始めとした山中城の本城と峠は、井伊直政の部隊が配置されている。そしてとどめは峠の部隊だ。それは井伊直政の本隊四千ばかりであるが、彼らが峠を下って、一気に攻める。それで敵に大きな損害を与えるという作戦だ。それで徳川有利となれば、福島正則と黒田長政が内応する。そうなれば、敵が大混乱に陥って大勝利を収めるかもしれない……
 韮山と興国寺から、それぞれ敵の大軍が出陣したという報は届いている。出丸部隊を率いる正信は、ふもとに目を凝らす。敵の先陣の松明の灯りが見えてきた。正信が合図をすると、藁人形に隠れている兵と城内の兵たちが、鬨の声を挙げ始める。敵にもそれが聞こえているはずだ。だけれど、退く様子はない。松明の灯りがどんどんと大きく、そして多くなってくる。
「よし。藁人形部隊、退け!」
 正信の命によって、藁人形に忍ばせていた兵は、藁人形と松明はそのままに、三の丸の大手門から城内に退いた。大手門が閉じられる。
 いよいよ街道を登る敵が近づいてくる。それも十万を超える大軍だ。迎え撃つ味方はせいぜい一万を超えるほど。およそ十倍の敵である。籠城戦は守る方が有利だとよく言われるが、十倍の敵を迎える場合は、そうではない。よほどの奇策が無い限り、力負けしてしまうのは目に見えている。
「良いか、じゅうぶんに敵を引き付けて狙え!」
 曲輪の兵士たちに、正信の檄(げき)が飛んだ。やはり敵は退かない。光と影がどんどん大きくなって、城に迫ってくる。
「よし。放て!」
 一斉に銃声がして、弾と矢の雨が下の敵に注ぐ。鉄砲の弾を詰め替える間に、熱湯と油と糞尿の雪崩が敵を襲う。敵軍の悲鳴が聞こえてくる。作戦は大成功のようだ。
「よし。その調子だ。どんどん敵に食らわせろ!」
城兵が「オーッ」と反応する。敵の大軍を見ても怯まない城兵の士気はかなり高い。
「大手門の前にも敵が押し寄せている。そちらにも浴びせよ」
 正信の命によって、大手門に押し寄せる敵兵に、三の丸と出丸から雨と雪崩が襲った。敵兵は次々に倒れ、または逃げていく。大手門の前は出丸と三の丸に囲まれているために、街道も狭く、城内からの攻撃も三方から受けることになり、なかなか門を突破するのも難しい。おまけに城門は、ここしかないのだ。そしてその城門に続く街道は、藁人形部隊のところに置かれた松明が、城門から落とした大量の油に引火して、火の海になっている。
 堪らず敵は、出丸の急な土塁を登り、城内に侵入する作戦に出たようだ。出丸から容赦なく、矢と鉄砲の雨、油と熱湯と糞尿の雪崩を浴びせる。土塁をよじ登っていた敵は耐えられず、次々と屍(しかばね)を作るか、這這(ほうほう)の体で逃げ出すかだ。
 そうして戦火が切られて二時間ほど経過した。今のところ、戦いは有利に進めているが、何しろ敵は十万を超えた大軍だ。街道を国境の近くまで、敵軍が蠢(うごめ)いているはずだ。それがどんどん湧いて出てくる。一時も油断ならない。
 敵の攻撃が一旦、止んだ。おそらく山中城の正面突破を試みたが、うまく行かないので作戦を変更するのだろう。もしかしたら、この城の攻撃を諦めて、峠を目指すかもしれない、と正信は考えた。いずれにしろ、下の街道を通らなければ、関東にも、そして峠にも行けない。
 ふもとに目をやると、戦いの前よりも松明の灯りは増えている。
「気を緩めるな。敵は態勢を立て直して、再び攻撃を仕掛けてくる。そうしたら同じように攻撃を加えるのだ」
 正信の檄に「オーッ」と返ってくる。敵の損害は大きいが、味方はほぼ無傷だ。士気も高いし、まだまだじゅうぶんに戦える。
「敵が動き始めました! こちらに向かってきます!」
 攻撃の第二波がやって来た。今度はかなりの数が一度に街道を登ってくる。曲輪にいる本多軍は、街道を行く敵に攻撃を仕掛ける。敵は面白いように倒れていくが、生き残った敵は大手門には目もくれず、正信の読みどおり峠まで登っていくようだ。
「敵はこの城を無視して、峠に行くつもりだ。とにかくできる限り、ここで敵を倒すのだ!」
 正信の檄に、守備兵はよく応えた。街道を行く敵は、次々に屍となっていく。半分程度は討ち死にか、退くか、どちらかだ。だけれども、やはり相当数は城を通り抜けてしまう。
「まずい。これではかなりの兵が峠まで行ってしまうではないか!」
 正信は下唇を噛んだ。いくら堅固な山中城で敵の進軍を食い止めようとしても、大軍を相手にしては限界がある。
「申し上げます。井伊直政様、峠から駆け下りてまいります!」
「なに!」
 正信は声を荒げた。峠を駆け下りるには早すぎる。もっと敵に損害を与えてからだ。
「井伊殿の部隊が駆け下りてくる。そしたら、攻撃を止めよ!」
 正信は指示を飛ばした。
 そして、街道の上から赤い旗印が多く下ってくるのが見えた。井伊直政の赤備えだ。彼らが声をあげて、峠から下りてくる。城を突破した敵兵が、敗走し始めている。その敵に向けて、正信たちが矢や鉄砲を浴びせる。
 そして赤備えが、出丸の下を下ってくる。正信たちも攻撃を止める。井伊直政の馬印も、勇猛に山道を下っていく。そしてなんと、直政軍の後ろから、結城秀康の軍隊も続いたのだ。上部に笠を付けた秀康の馬印が、颯爽(さっそう)と街道を下っていく。
 秀康は江戸に退くふりをして、なかなか動かない敵を動かしたのだ。いったんは退いて、敵が攻めてきたと見るや、ここは好機と箱根峠と山中城に戻ってきたのである。
「さすが、秀康様!」
 正信は大声で秀康を称(たた)えた。


「申し上げます。敵の大軍が押し寄せています」
 そんな馬鹿な。石田三成は動揺した。島左近の話だと、山中城と箱根峠に残っているのは、井伊直政と本多正信の二隊だけのはずだ。
「島左近様の部隊、突破されました!」
「小西行長様の部隊も、敵に押されて敗走し始めております」
 どういうことなのだ? 三成は冷静になって考えた。数で圧倒的に劣る敵の軍勢が、こちらに攻撃を仕掛けてくるのは、およそ考えにくい。堅固な山中城に籠って、こちらの戦力を減らすのがやっとのはずだ。それが山から駆け下りて、攻めてくるとは、どういうことなのだ?
 三成の前に、先鋒を務めた島左近が現れた。左近は三成の前で深々と頭を下げて控えた。
「殿。申し訳ありません。まんまと敵に嵌(は)められました」
「左近。これはどういうことだ?」
「はい。結城秀康は、内通者を通じて、我々に江戸に退くという情報を流させたのです。そして実際に退き始めておりました。しかし我々が動いたと知るや、急いで峠に引き返した模様。敵の中に秀康の馬印もありました」
 江戸に戻るはずの結城秀康が攻めている。耳を疑う報告に、三成の頭の中は混乱した。
「さ、左近。どうすれば良い?」
「ここはいったん退くのが肝要かと存じます。敵も深追いはしないでしょう」
 左近の提案に三成は頷いた。
「よし、全軍、撤退!」


「お方様、申し訳ございません」
 大阪城の大広間に大野治長が現れると、上座に座る淀君と豊臣秀頼に向かって、声を張り上げて平伏した。
「治長。謝ってどうしたのじゃ?」
「はい。宇喜多様と石田様の東海道を下るお味方が、箱根峠にて反撃に遭い、敗走いたしました。福島正則と黒田長政が裏切り、かつ味方も甚大な被害を受けたとのことでございます」
 聞いて、片桐且元は驚愕した。豊臣に楯突き、なおかつ家康と言う大黒柱を失った徳川は、もう衰退の一途をたどるものだと思っていたからだ。
「それは真か?」
 淀君も狼狽(ろうばい)している。且元と同じで、もう豊臣が負けることはないと、高を括(くく)っていたはずだ。
「はい。特に、小西行長様、島左近様の部隊の被害が甚大なようでございます」
「三成がいながら、何をしているのか?」
 淀君がまくし立てた。且元は三成がそれほど優秀だとは思っていない。五奉行としての手腕はたいしたものだが、戦場においての彼はそれほど高くない。横柄な態度で、鼻を突くところもある。そのように且元も感じていた。だが、淀君の三成への評価はとても高い。それが且元には気に食わない。
「しかしお方様。手は打ってございます」
 治長は薄く笑った。そういう笑いを美男子にされると、少しばかり且元の腹は立ってくる。
 淀君は身体を乗り出してきた。
「手を打っていると?」
「はい。徳川家中に、我らと通じている者がいることはお伝えいたしましたが」
「うむ。聞いておる」
 且元はそれが誰なのか、気になった。
「大野殿。それはいったいどなたなのであるか?」
 治長は顔だけ且元に向けた。
「それが誰なのかは、いま申し上げることはできませぬ。ただ、徳川家中のなかでとても影響のある御仁です」そう言って、再び淀君を眺めた。「その人物に、ある密命を頼んだところ、快諾してくれました。これが実現すれば大きな山が動きます」
 治長が何を言っているのか、よく分からなかった。それは淀君も同じはずだ。
「治長。そなたが何を言っているのか、わらわにはとんと分からぬ」
「お方様が、あっと驚くことが江戸で起きると思います。それを待ちましょう」
 治長が不気味に、そして薄く、笑った。
 
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