逆転関が原殺人事件

東山圭文

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 家康が江戸に入府してから、江戸の町の開発が急いで行われた。
 神田山を切り崩して、その土で江戸湊を埋め立てて、広大な市街地を作った。その市街地は城を囲むように武家地、そして街道沿いに町人地が形成され、城から鬼門の方位に当たる北東には上野の寛永寺と浅草の浅草寺、南には芝の増上寺といった寺社地が広がっている。
 そして江戸城は、天守閣こそ大阪のように立派なものはないものの、外堀に二重の内堀が巡らせてある。北側には内堀で囲まれた本丸と二の丸の外側に、三の丸と北の丸を備え、南側には内堀で囲まれた西の丸の外側に、吹上と西の丸下を備えた大城郭になっている。それは現代の千代田区がすっぽり入るくらいの広さになっていて、家康の江戸入府から十年で、小田原よりも広い大城郭になっていた。今でも敵の大軍を迎え撃つため、あちらこちらで補強工事などが行われている。しかし、その城に籠る兵士が、一万を少し超えるばかりでは心もとない。
「申し上げます。伊豆の山中城で戦いがあり、我が軍の大勝利。敵の死者が多数出ているとのことでございます」
 江戸に久しぶりに良い報せが入った。その報せを受けて、徳川秀忠の心の中が明るくなった。
 さすが結城秀康だ。倍近い敵を見事に蹴散らしたのである。
「それで、味方のほうは?」
 側に控えていた榊原康政が尋ねた。近習は再び畏まる。
「御味方の被害は軽微でございます。結城秀康様をはじめ、井伊直政様、本多忠勝様など、皆様方、ご無事でございます」
「みな、無事か?」
 秀忠の歓声にも似た質問に、近習は「はいっ」と声を張り上げた。
「それで、いつ江戸に戻ってくるのか?」
 聞いたのはお江である。味方が勝利を収めたというのに、彼女は笑顔でない。
「はい。明日にも小田原を発ち、江戸に向かうとのことです」
「もちろん、全軍、江戸に引き上げるのであろうな?」
「いいえ。結城秀康様、本多忠勝様、井伊直政様、本多正信様、お梶様など、およそ五万が江戸に戻り、残りの大久保忠隣様、酒井家次様などの部隊は、そのまま小田原と山中に残るとのことです」
「それでは足らぬ、足らぬわ」お江は顔をしかめて、近習の顔を睨みつける。「北から二十万もの敵が江戸に向かっているのじゃ。それだけの兵で敵の大軍を蹴散らすことなど、できぬじゃろ?」
 お江の剣幕に、近習はひれ伏したまま、身体を竦めている。康政がお江の前に控える。
「恐れながら、お方様。東海道の敵を関東に入れないための備えも必要でございます。それに秀康様が江戸に戻ってこられます」
 秀忠も続いた。
「そうだ、お江。兄上が江戸に戻ってこられるのは、百人力ではないか」
 お江の目が剥いた。その目で秀忠を睨みつける。思わず秀忠は身体を竦めてしまう。
「秀康様だの、兄上だの、ああ、耳障りじゃ。そんなにあんな野卑(やひ)で無骨な男が徳川には必要なのか? あんな男でなく、もし秀忠殿が総大将として小田原に行っておれば、敵の兵を一兵たりとも残さず、圧勝したであろう」
「余では無理だ。兄上と違い、戦を多く経験していない」
 秀忠はお江の顔を見ずに言った。秀忠は成人して間もない。この間の真田昌幸との戦いが、秀忠にとっての初陣だった。それも手痛い敗戦である。一方、豊臣に養子に出された秀康は若くして百戦錬磨である。初陣は秀吉の九州征伐で、そこで日向平定などで大きな功績をあげた。小田原の役、それに朝鮮出兵にも参加して、軍功を重ねている。経験値も功績も、秀康には足もとにも及ばないのだ。
「そうじゃ。経験すれば、秀忠殿はあんな男よりずっと上に行けるはずじゃ。康政、そうであろう?」
「は、はいっ」康政は半ば強引に頷かされた。それでお江の機嫌が少し良くなったか、口元に笑みがこぼれる。
「ならば、これからは秀康ではなく、秀忠殿が総大将として作戦を立てるのじゃ。そうすれば間違いなく、大勝利を収めることもできるであろう」
 お江は上機嫌に、高笑いを始めた。


 小田原から戻った正信は、埋め立て地に作られた武家地の中にある江戸屋敷に入った。明日から城に詰めて、来たる敵に備えないとならない。今夜は早めに休もうとしたところで、屋敷に客がやってきた。井伊直政だ。
「夜分、遅くに申し訳ありません」
 屋敷の客間に通され、腰を下ろした直政は、神妙な顔を正信に向けた。正信は口元に笑みをたたえる。
「井伊殿の、この度の働き、お見事でした。井伊殿の働きのおかげで、我が軍の大勝利となりました」
 直政はおもむろに首を横に振る。
「いいえ。それがしなどは。それより山中城での正信殿の奮戦、あれが無ければ勝利を収められなかったと存じます」
 正信も首を横に振る。
「いやいや。すべて秀康様の仰せのとおりに行ったまでのこと。敵に止めを刺した井伊殿の働きこそ、お見事でござった」
「それがしも、秀康様のお指図どおりにござる」
 直政はそう言って、茶を口にした。正信は夜だから酒を出そうとしたのだけれど、直政が茶を所望したので、二人は対峙して座って茶を飲んでいる。
「それで、正信殿。それがし、どうしても気になることがあって参りました」
「気になること?」
 正信が首を傾げると、直政は「はい」と居住まいを正した。
「味方の誰かが敵に内通しているのではないかと、この戦いを通して確信いたしました」
 直政の言葉を聞いて、正信は驚いた。と同時に耳を疑う。
「我らの中に敵に内通している者がおると?」
「いかにも。今回の戦で、そのことを強く確信したので参ったのです」
よく考えたら、徳川家臣に内通者がいるのもあり得ない話ではない、と正信は思った。実際、榊原康政のところにも、内応の話が敵から来ていたのである。
「それで、その内通者とは誰なのか?」
 直政は首を横に振る。
「それが誰なのかは、それがしでは特定できませぬ。それで正信殿の力をお借りしたいと存じて、こうして参上したのです」
 直政は居住まいを正して、慇懃(いんぎん)に答えた。直政は徳川家内の石高も地位も正信よりも上で四天王の一人であるが、年齢は正信の長子・正純よりも下で親子以上に離れている。それに徳川家に仕える年数も井伊家より本多家のほうがずっと長い。井伊家はもともと今川家の家臣だった。それを直政も心得て話している。
 しかし正信には腑に落ちないところが出てきた。
「井伊殿。なぜその話をそれがしに?」
「と、おっしゃいますと?」直政は怪訝(けげん)な表情を浮かべて、正信の顔を覗き込むように眺めた。正信は薄く笑う。
「それがしが敵に通じているかもしれぬではないか?」
 うそぶいて言うと、直政は笑顔になった。
「正信殿が敵に内通している可能性は無いと思っておるからです」
「それは、それがしが武勇に秀(ひい)でていないからか?」
 自嘲気味に聞くと、直政は真顔になって首を横に振った。
「そういうわけではございません。正信殿はそれがしと共に、山中城の防衛に当たっていたからでございます」
 直政の言っていることがよく分からない。正信は首を傾げた。すると、直政は表情を崩した。
「正信殿。敵に内通している者は、我らが藁人形のところに兵を忍ばせ鬨の声を挙げたら、敵は情報が嘘だと思い、引き返すと思っていたのです。それを知って敵は、山中城攻略を画策しましたが、思った以上の抵抗を食らうと、箱根峠の守備が手薄と見て、峠を目指したのだと思われます」
「なるほど。すると秀康様は、我らの中に敵に通じる者がいると見て、藁人形の作戦をみんなの前で話して、いったん兵を退いたというわけか?」
「左様に推測されます」直政は笑顔になって頷いた。「秀康様は我らの中に裏切り者がいると考えて、我ら全員を集めて撤退の話をされたのでしょう。そして実際に撤退して、その情報が敵に流れて、敵が動きました。敵が動いたので、一気に攻めたのです」
「さすが、秀康様」
 正信は感心して頷いた。
 秀康と直政が峠を駆け下りてから、敵は総崩れとなって興国寺に引き上げた。特に先鋒を務めた小西行長隊と島左近隊の損害は大きかったようだ。また、福島正則と黒田長政は韮山城に戻って、徳川方に寝返った。そのため、山中城の戦いによって、敵の戦力はかなり削(そ)がれた格好になる。
 直政は再び居住まいを正した。真剣な面持ちで正信の顔を眺める。
「そこで、正信殿に折り入って相談がございます」
「改まって、相談とは何事か?」
「はい。ここはお家の大事。秀忠様には徳川家の跡取りの座をいったん退いていただき、秀康様に譲っていただけるように、秀忠様に申し出ようと存じております」
 聞いて、正信は戸惑った。そんな話をしたら、秀忠の気を害することは間違いないからだ。それ以上にお江が気になる。
「それは止めておいた方が、よろしいかと存する」
「正信殿は、ずっと秀康様を徳川の跡取りに推しておられたではござらぬか?」
「しかし亡き大殿の御意には逆らえぬ。徳川の二代目に秀忠様がなられることは、大殿がお決めになられたこと」
 正信の言葉に、直政は必死の形相になって食らいついた。
「大殿は太平の世になって、秀忠様が適任と考えておられたはずでございます。太閤(※豊臣秀吉)が亡くなった豊臣では、また世が乱れる。だからその乱れをなくし、大殿の手で太平の世が作られる。それで秀忠様が徳川の家督を継げばとお考えになっていたはず。しかし、また戦乱の世になっております。こうなると戦の経験のない秀忠様では、荷が重いと存じております。せめて、この戦いで勝利を収めるまで、秀康様に徳川家をお預けになるように、お願いしようと思っております。これはそれがしだけではなく、榊原康政殿、本多忠勝殿、大久保忠隣殿、酒井家次殿、服部半蔵殿などもご賛同されています。
 そこで、明日、秀忠様にそのことを申し上げようと思うのですが、そのときは是非、正信殿のお口添えも頂戴したく存じます。お願いします」
 直政の熱意に押されて、正信は首を縦に振った。しかし正信の脳裏に、お江の顔が浮かんで、身体を大きく震わせた。


 本多正信と井伊直政が、徳川秀忠の前に現れた。二人は広間に現れると、その場で平伏した。秀忠の隣にはお江が座っている。
「若殿に、小田原の土産と思い、どんな病にも効くと言われる箱根の名水を持参いたしました。お納めください」と直政は大きな徳利に入った水を、秀忠の前に差し出した。「それと、お願いの儀があって参上したしました」
 秀忠は大きく頷いた。秀忠は若輩だけれど、徳川の棟梁(とうりょう)として貫録を見せなければならない。
「直政。遠慮なく申してみよ」
「はい。申し上げにくいことでございますが、しばらく殿にはご隠居していただきたく存じます」
 直政の言葉に、秀忠は耳を疑った。動揺して、何を言っているのか、分からなかった。隣のお江が「ホホホ」と高い声で笑い始める。
「直政は面白いことを申すものよ。秀忠殿はまだ二十一。隠居などする齢(よわい)ではござらぬではないか」
「ですが、ここは徳川のお家のために、家督をいったん秀康様にお譲りくださるよう、よろしくお願いいたします。これは家中の多くの者も願っていることでございます」
 直政に合わせて、正信も平伏した。二人の申したいことは分かっている。秀忠が棟梁では、徳川家が一つにまとまらないと言っているのだ。
 秀忠は正信に目を向けた。
「正信も直政と同じ考えか?」
「ははっ」正信は額を畳に擦り付けるくらい、深々と頭を下げた。「ただし、それは一時的な措置でございます。大殿が亡くなられたことによって、再び世の中は乱れてきております。平静な世になってから、若殿の出番でございます」
 秀忠は溜め息を漏らした。そして肩を落とす。
「やはり余では豊臣に勝てぬか……」
「そうは申しておりませぬ。ただここは……」
「正信!」とお江が正信の言葉を遮った。「秀忠様こそ徳川の棟梁に相応(ふさわ)しいと、そなたはわらわに申したではないか。その考えをたった数日で舌の根も乾かぬうちに変えるのか?」
 ひれ伏している正信の顔から色が失せているのが、秀忠にも分かった。正信は身体を竦(すく)めて再び広い額を畳に擦りつける。
「お方様。申し訳ありません」と正信は声を張り上げた。そんな正信を見ていると、秀忠は気の毒に感じる。お江には秀忠も何も言えないからだ。
「よくもまあ、そう、ぬけぬけと秀忠殿に隠居せよなどと申せるものよ。そなたは秀忠殿への忠誠の証として、小田原に行ったら秀康を亡き者にすると、わらわに申したではないか。そうであったな、正信?」
 正信は答えない。額を畳に押し付けて、ひれ伏したままだ。
 そして、正信がお江にそんな約束をして小田原に行ったことに、秀忠は驚いた。正信は徳川の世継ぎに秀康を強く推していた家臣である。それなのに、小田原で秀康を殺害する約束をお江としていたなんて、信じられない話だ。
「でも、そなたは臆病者であるから、秀康を殺すことができなかったのであろう。本当に殺すなどと、最初から期待などしていなかったわ」
 と、今度は高笑いを始めた。お江の高笑いが広間に響き渡る。
「恐れながら申し上げます」声を発したのは直政だ。お江は高笑いを止めて、直政を睨みつける。
「なんじゃ。申してみよ」
「ははっ。秀康様のこの度の敵の裏をかく作戦。それがしも予想できなかった作戦で、実にお見事でございました。劣勢のなか、敵も味方も予想しない作戦を立てた秀康様で、この窮地を乗り越え、そして世が平らになったところで、若殿に引き継げば万事がうまく行くというものでございます」
「それでは、そなたは秀忠殿ではこの徳川の窮地を乗り越えられぬと申すのか?」
「とんでもございません」と直政は声を張り上げながら、額を畳に押し付けた。「秀康様は、我らの中でも誰も経験していない、朝鮮への出兵も経験されてございます。異国の地で、とても厳しい戦いを経験されているのです。家中でも三方ヶ原の敗戦(※武田信玄との戦。討ち取られる前までの家康の唯一の敗戦)を経験されている者が少なくなったいま、厳しい戦いを経験された秀康様を中心に家中がまとまれば、難敵にも立ち向かえると存じます」
「分かった。暫時、家督を兄上に譲ろう」そう秀忠が口にしようとしたとき、再びお江の高笑いが始まった。
「直政。面白いことを申すものよ。よく考えてみるのじゃ。秀康は他家に養子に出された身であるぞ。他家に養子に出された者が戻るなど、考えられぬことよ」
「ですから、この戦いを終えるまでと、申し上げているのでございます。戦いを終えて、徳川の世になれば、若殿の力を思い存分、発揮できることでございましょう。それまで、しばしお待ちいただけたらと存じております」
 正信も直政に続いた。
「井伊殿の申し上げるとおりでございます。人には長短がございます。若殿は戦の経験がございませんが、この江戸の町づくりで手腕を発揮されました。内政にとても秀でております。世が平たくなってから、若殿の本領発揮でございます。それまではぜひ、秀康様を総大将にしていただきたく存じ上げます」
「ならぬ、わらぬわ!」
 お江が血相を変えて吠えた。


「正信殿。お方様が仰せられていたことは、真(まこと)ですか?」
 二人きりになって、井伊直政が真顔で聞いてきた。正信は返答に窮したけれど、頷くことにした。お江から殺せと命令があったとは、口が裂けても言えない。
「真のこと。船頭が二人おっては、この難局を乗り越えられぬ」
「それはそれがしも同じ考えです。でもなぜ、正信殿は秀康様を推しておられたのに、今回は若殿を?」
 正信は直政の顔を見ずに話し始めた。
「大殿がお決めになられたことだから。それ以外にござらぬ」
 だんだん正信は尋問されているような気になってきた。それは正信の本意ではないからだ。
「でも、秀康様こそ今の徳川に必要だと思われて、殺害しなかったのですね?」
 見ると、直政は微笑んでいる。正信は肩の力を抜いて頷いた。
「それがしも今は井伊殿と同じ考え。この難局を乗り切るまでは、秀康様を中心に家中がまとまることが大事だと思っている」
「でしたら、今から一緒に西の丸に行きましょう」
 直政が立ち上がった。
 江戸城は家康の生前中は、西の丸御殿に入って政務を行っていた。いまその西の丸には、秀康が入っている。早速二人は、西の丸に向かった。
 本丸と西の丸は堀で分けられている。御殿も同じくらいの広さだ。秀康のいる広間に通されて、二人は下座に控えた。上座には秀康一人で座っている。正室の鶴子の姿は無い。そもそも彼女は主が政務を行う表書院に、滅多に姿を見せない。秀忠のところに参上すると、お江が表書院に出てくることを考えると、お江が異常に正信には感じる。彼女が姉さん女房で、しかも母親が織田信長の妹・お市の方だからかもしれない。
「正信に直政。そのように畏まって、いったいどうした? まさか、わしを亡き者にするように、本丸で頼まれたか?」
 秀康は二人を揶揄(からか)うように言った。正信はまた心の中を見透かされているような気がした。「とんでもございません」と二人は声を揃える。
「それで、話とは何だ? 申してみよ」
「はいっ」と直政が声を張り上げた。「是非とも秀康様に徳川の棟梁になってほしいと存じております」
 直政の言葉に合わせて、正信も頭を下げた。しかし秀康にはやはりその気がないようだ。
「わしは徳川から豊臣に養子に出され、今は結城の人間だ。徳川の家督を継ぐことは許されぬ」
「しかし、徳川に家督を戻すことは、前例が無くとも可能であると存じます。それでせめて、この戦が終わるまで、秀康様にお願いしたいというのが、家中の多くの者の考えでございます」
「直政。だからわしの命が狙われているのだ」
秀康が意外なことを言った。正信の隣に座る直政は、狐につままれたような顔をしている。秀康は声を落として話し始めた。
「実はな、今朝、わしに出された汁物の中に毒が盛られていたのだ」
「本当でございますか?」
 直政の言葉に、秀康は頷いた。顔をしかめている。
「何だかいつもと汁物の色も具材も違うと不審に思って、試しに半分くらい金魚鉢の中に入れてみた。すると鉢の中の金魚がすべて腹を上にして浮き上がり、死んでしまった。誰かがわしを殺そうとしているのは確かだ」
 正信にはすぐ、お江が浮かんできた。お江の指図を受けた女中が、西の丸の御台所で、秀康の食べる汁に毒を盛ったのかもしれない。
 正信の身体が思わず震えてしまった。
「正信。どうした?」
 秀康の目線が正信に注がれた。正信は咄嗟(とっさ)に首を横に振る。
「秀康様を殺害しようとするなんて、とんでもないことでございます」
「正信、よく言うな。そなたもわしを殺害しようと思って、小田原に来たであろう」
 秀康が冗談っぽく言う。そう言われると、正信は返す言葉がなくなってしまう。
「でも、今の正信殿も、秀康様に徳川の家督を継いでほしいと願っております」
 直政が助け舟を出してくれた。秀忠は二人の顔をじっと見据えた。
「皆でわしを推してくれるのも有り難いが、こうして命まで狙われるとなると、迷惑な話でもある。先ほども榊原康政が同じ用件で参ったが、同じことを伝えた。わしは一門衆ながら結城家の人間。あくまで徳川の棟梁は秀忠である」


「ここは家督を兄上に譲ろうと思っている」
 徳川秀忠はお江の顔をまじまじと見つめて言った。やはりお江は目を三角にして秀忠を睨みつける。
「秀忠殿。何を弱気になっているのです。そなたは大殿から徳川を任せられた、歴とした棟梁ぞ。秀康は関東の片田舎の武家に養子に出された人間。そのような者が徳川の家督を継ぐとは片腹痛いわ」
 お江は嘲笑した。そんな彼女の顔を、秀忠はどうも好きになれない。
「しかし、父上が亡くなってから、余から家臣たちが離れているのがよく分かる。初陣も功を焦ったばかりに、上田原で真田にいいようにやられたばかりか、美濃の一大事に間に合わなかった。もし正信たちが申したように真田を無視して美濃に辿(たど)り着いていたら、父上が亡くならなくて済んだはずだ。だから城下の町人たちは、余が父上を殺したと噂しているみたいだ」
 秀忠は肩を落とした。
「そのような者がいるのなら、磔(はりつけ)にして火あぶりにしたいものよ」
 お江が恐ろしいことを言った。
 江戸の城下はいま大変なことになっている。間もなく豊臣の大軍が押し寄せてくるという情報が流れて、町人たちは店や家を捨てて避難を始めていると秀忠も聞いている。家康が敵に討たれてしまったのは、秀忠の大軍が真田に完膚なきまでに打ちのめされて、美濃に間に合わなかったせいだと、町人たちの間で噂になっているのも、ついさきほど耳にしたのだ。そして、さすがに面と向かっては言わないが、秀忠のせいで家康が討たれたと思っている家臣も少なからずいると思っている。特に、美濃にいた本多忠勝と井伊直政はそう思っているかもしれないし、実際に秀忠がちゃんと美濃に辿り着いていたら、家康が討たれるという最悪の事態だけは防げたはずだ。
「ということは、秀忠殿。美濃で大殿が討たれたのは、全部ご自分の責任だと思われているのか?」
 お江が真顔になって、秀忠の顔を覗き込んできた。秀忠は「そうだ」と頷く。
「そうだ。間に合っていれば、少なくとも父上が討たれるということは無かったであろう」
 お江は首を横に振る。
「秀忠殿。それは違います。そもそも美濃にいた本多忠勝と井伊直政がしっかりしていなかったから、大殿が討たれたのではないのか。それなのに直政ときたら、自分の失態を棚上げにして、秀忠殿に隠居しろなどと、よくもまあ、ぬけぬけと申せるものよ」
「それを言うなら、余も上田原で大失態をしている。わずか十分の一ほどの相手に、完膚なきまで打ちのめされてしまったのだ」
 秀忠は肩を落とした。そして、初陣で真田ごときに大敗して、家康が討たれたときに美濃にいなかった自分が、徳川の家督を継ぐなど烏滸(おこ)がましいと思うようになった。
 しかしお江は顔を綻(ほころ)ばせた。
「そうじゃ。子を作れば良いのじゃ。秀忠殿とわらわのお子を」
 唐突に言い出したお江の意図が、秀忠には分からない。それよりも、傲慢で我儘なお江を、美人だとは思うけれど、どうも抱く気にはなれない。秀忠は首を傾げた。お江は立ち上がって、秀忠の背後に回り、背中から抱いてくる。
「そうよ。秀忠殿とわらわに子ができれば、その子は秀頼君(ぎみ)と血が繋がって、豊臣と徳川は従弟(いとこ)同士になるではないか。そうなれば争いも収まるであろう」
「今でも淀の方とお江は血が繋がった姉妹ではないか?」
 秀忠の言葉に、お江はおもむろに首を横に振った。
「大事なのは男子じゃ。姉上とわらわの血が繋がっていても、秀頼君と秀忠殿は甥(おい)と叔父(おじ)の関係であるけれど血が繋がっておらぬ。しかし我らに男子が産まれれば、秀頼君と血が繋がるではないか。その子を徳川の跡取りにして、大殿がやっておられたように、秀忠殿は我らの子に指示と助言をして、徳川を動かせば良いのじゃ。そうなれば、豊臣と戦い、争う必要もない。それができるのは、秀康なんかではない。秀忠殿じゃ。そうじゃろ?」
 秀忠はお江の腕を振り切って立ち上がった。
 秀忠はお江が初婚である。一方、お江であるが、彼女は佐治一成、さらに秀吉の甥の羽柴秀勝と婚姻していた。それで、羽柴秀勝が朝鮮出兵で病死して、秀忠に嫁いできた。二人の間には千姫がいるが、男子はまだ産まれていない。そして秀忠は家康のように側室をたくさん置くこともない。というより一人もいない。というのもお江が怖かったということもあるが、偉大な家康への、少しばかりの反抗心もある。家康は五十五を過ぎても好色で、お梶や茶阿局など十人以上の側室を置いていた。自分はそんな父親のような好色家にはなりたくないという気持ちだ。
「秀忠殿。どこぞへ?」
「厠(かわや)(便所のこと)だ」秀忠はぶっきら棒に言って、広間を出た。秀忠が広間を出たのは、もちろん厠に行くためではない。お江と少しの間だけでも離れたかったからだ。広間から少し離れた表書院に向かった。
 表書院では家臣たちが登城して、籠城戦に備えて様々な準備がなされている。彼らは秀忠の姿を見ると、作業の手を止めて、あるいは歩くのを止めて、その場で控える。食糧も、武器や弾薬の準備も順調のようだ。
 家臣の説明を受けて、広間に戻ろうとしたところで本当に厠に行きたくなった。表書院と広間との間にある厠に入る。用を足したところで、
「徳川秀忠様。覚悟!」と背中から声がした。驚いて振り返ると、刀をかざした男が、ものすごい形相で秀忠に襲い掛かってくるところだった。
 秀忠は咄嗟に、倒れるようにして男の刀を避けた。しかし廊下から庭園へ落ちて、身体が倒れた。男は再び刀を秀忠に向ける。
「秀忠様のお命、頂戴いたす。覚悟!」
 秀忠は庭園に落ちたときに、足を挫(くじ)いてしまったようだ。足を動かそうとすると、激痛が走る。思わず顔をしかめた。
「誰か! 曲者(くせもの)だ! 誰か、出合え!」
 秀忠が叫ぶと同時に、艶やかな小袖姿の女が現れた。お梶だ。
「曲者、覚悟!」
 お梶が刀を抜いて、曲者と対峙した。
 曲者の顔は、秀忠には見覚えがない。曲者は大きく顔を歪めると、刀を捨てて大きく飛び上がり、瞬く間に屋根の上にあがった。忍びの者なのだろう。
お梶は刀を収めると、庭園に倒れている秀忠に控えた。
「秀忠様。お怪我(けが)はありませんか?」
「済まぬ。右足を挫(くじ)いたようだ」
「でしたら、処置をいたしましょう。それではお身体を支えますので、あちらのお部屋に」
 秀忠はお梶に支えられて部屋に移動して、怪我の処置を受けた。


 徳川秀忠が城内で何者かに襲われたという事件は、瞬く間に家臣の間に広がり、本多正信の耳にも届いた。
 咎人(とがにん)の素性はまったく分かっていない。秀忠が執務する本丸の表書院は、籠城準備のため、家臣の出入りが激しくなっていた。そのためか、御殿に出入りする家臣の照合も甘くなってしまっていた。その間隙を縫って、豊臣方が放った刺客という結論に至った。それゆえ、御殿の出入りの管理を厳しくすることとなり、同時に秀忠は表書院に行くのを極力避けて、広間と、秀忠の居住空間である裏御殿内で政務を行うこととなった。
 正信の任務に、秀忠がいる広間に出入りする家臣を照合する任務が追加された。それまでの政務に新たなものが追加されたので、正信は多忙となる。そして裏御殿の警備は、お梶の担当となった。
「正信殿。お江様がお呼びです」
 政務中にお梶に呼ばれて、正信は裏御殿に渡った。裏御殿も玄関とその付近の部屋までは正信程度の徳川重臣であれば入ることができる。ただし、さらに奥の、秀忠とお江の居住空間には、いくら重臣でも立ち入ることはできない。
 玄関の隣の部屋で待っていると、上座にお江が現れた。正信は平伏して、彼女を迎えた。お江の隣には、茶阿局も控えている。
「早速じゃが、秀忠殿をおそった暴漢は、姉上たちが放ったというのは真か?」
 自分の姉が放ったとは、お江の言葉に棘(とげ)がある。正信はやんわりと否定しなければならない。
「おそらく大野治長が放った者でございましょう。彼は徳川の内部事情を知り尽くしてございます」
 それが事件を調べた奉行の出した結論だ。もちろん正信自身もそうであると思っている。
「ならば、姉上がやったのと同じことではござらぬか?」
「同じではございません。あくまで治長が徳川憎しで行ったことと存じます」
 正信は反論したが、お江は厳しい目で睨み返す。
「治長が考えたことにしろ、姉上が認めなければ、こんなことができぬと、わらわは思う。実際にいま、豊臣の実権を握っているのは、幼い秀頼公の母君である姉上じゃ。ということは、姉上が秀忠殿を殺害することを認めたことにならぬか? 姉上が妹の婿を、殺害しようとしたことにならぬか?」
 お江の言葉に、正信は反論できずに困惑した。確かにお江の言うとおり、今の豊臣家の意志決定は、ほぼ淀君に委ねられていると言って過言ではない。いくら大野治長の発案だからと言っても、淀君が承認しなければ実行されないだろう。
 お江の隣で、茶阿局も神妙な面持ちで大きく頷いている。そして「もしそれが真であれば、とても忌々(ゆゆ)しきこと」と袖で口元を押さえた。
「そうよ。姉上が義弟を殺害するなんてことを、承認するはずが無い。実に妹思いの姉上じゃ。さすがに小谷城落城のとき、わらわは産まれたばかりで覚えておらぬが、北ノ庄のときは泣きじゃくるわらわを、姉上は優しく宥(なだ)めてくれた。そして父上(小谷城主・浅井長政)との思い出が何もないわらわに、よく父上の話をしてくれたものじゃ。そんな姉上が、秀忠殿を殺害しようとするなんて、考えられぬことじゃ」
「ですから、それは……」
 大野治長の一存で、と続く正信の言葉を、お江は遮った。
「だから、これは秀康が仕向けたのじゃ。もし秀忠殿が亡き者になれば、辰千代もまだ若いゆえ、自然と自分が徳川の棟梁になろう。そして、わらわに男子が産まれておらぬから、いま秀忠殿が亡くなれば、さらに秀康の子が徳川の跡取りにならぬか?」
 秀康にはすでに仙千代(松平忠直)・虎松(松平忠昌)という、二人の男子が産まれている。もし秀忠に男子が産まれなければ、徳川は秀康そして仙千代と継がれていくのが道理だ。でもだからと言って、秀康が弟を殺害するなど、考えられることではない。
 秀康が言っていたことを思い出して、正信は話す。
「お言葉ではございますが、秀康様は、以前は自分を殺す者がいたら返り討ちにすると思っていたらしいのですが、もし徳川が一つにまとまるのであれば、自分は喜んで殺されようと仰せられていました」
「だから、そなたは秀康を殺すのを止めたのか?」
 お江のきつい言葉が正信に突き刺さる。正信は額を畳に押し付けた。
「申し訳ございません。それがしには、殺せるお相手ではございません」
 お江は「フフフ」と低い声で笑い始めた。
「いくらでも口で綺麗ごとが言えるものよ。自分がいなければ徳川がまとまるというのは、裏を返せば、秀忠殿がいなければ徳川がまとまるということではないのか?」
 正信はそんなことを考えてもいなかった。茶阿局が「そうです、確かにそうです」とはしゃぐような声を出している。
「正信。そなたは大殿の生前から、秀忠殿に仕える身であったな?」
「はい」と畏まって、頭を下げる。お江の目が剥いた。
「ならば、いま一度命ずる。秀忠殿のお命のため、ひいては徳川のお家のため、秀康を亡き者にせよ」


 自分が、徳川家に生を受けず、普通の武家、武家でなくても百姓や商人の家に生まれたら、昨日のように命を狙われることも無かっただろうと、秀忠は思った。
 秀忠は右足を引きずりながら、広間に入った。広間に集まった重臣たちは、秀忠が現れると恭しく頭を下げる。秀忠が右足を庇(かば)うようにして、片膝を立てて上座に腰を下ろす。これから軍議が始まるのだ。
今回の軍議の席には、お茶と菓子が出されている。男ばかりの軍議の時は酒が出されることがあるが、今回はお江も出るのでお茶と菓子となったのだ。茶菓子は白い饅頭が二つずつ、各人に用意されていた。だけれども誰も手を付けていない。秀忠かお江が口にするまで、家臣たちは手を付けないのが慣例となっている。酒席でもそうだ。
 まずは敵の状態の説明があった。上野を平定した毛利輝元と真田昌幸の軍隊は、武蔵の松山城を落として、川越城に向かっている。その数はおよそ十一万。そして下野を平定した上杉景勝と佐竹義宣は武蔵忍城を包囲し、さらに川越城にも軍を送っている。その数はおよそ六万。そして安房の里見義康は上総の大多喜城を落とし、川越城に向かっている。その数は佐竹の援軍を含めておよそ一万。さらに東海道を下っていた宇喜多秀家などの軍隊は、箱根をあきらめ、甲州に回っているという情報が入った。甲州から関東に入ってくると予想される。その数は八万~十万。
 その報告を聞いて、広間に集まった一同は静まり返った。甲州を回って入ってくる敵はまだ少し時間がかかるものの、他の敵はすべて武蔵国に入っている。その数はおよそ十八万だ。それだけでも、今の徳川の最大動員兵力の倍以上になる。そして宇喜多勢などが関東に入ったら、敵は三十万近くに膨れ上がってしまう。
「これでは秀康殿が小田原に行ったのも、まったく無駄足だったのではござらぬか?」
 口火を切ったのは、秀忠の隣に座るお江だ。彼女は紅の唇に笑みを浮かべている。今にも秀康を嘲笑しそうな彼女の態度に、秀忠は肝を冷やした。側に座る結城秀康は、取り合わないように涼しい顔をしている。
「お方様。お言葉ではございますが、秀康様の働きによって、敵方の福島正則殿と黒田長政殿が御味方になりました。そして小西行長隊と島左近隊に甚大な被害を負わせたのです。それだけ敵を弱らせたのですから、決して無駄足なんかではありません」
 お梶が反論すると、お江の顔が険しくなる。
「お梶殿。敵の一部に損害を与えても、敵はこの江戸に迫っておる。それも大軍じゃ。少しばかり敵の兵を減らしたところで、海から桶(おけ)で海水をしゃくった程度ではござらぬか?」
「お方様。秀康様の働きで、敵の士気が低下したのは確かでございます。特に宇喜多軍はまだ細川殿や山内殿など、治部少輔(※石田三成)を快く思わぬ方々も多くおられます。今後、彼らも離脱する可能性もありましょう」
 お梶の後に、本多忠勝も続いた。
「秀康様のお陰で、小田原をはじめ、東海道沿いの相模の城を敵に奪われずに済んだのは何より大きいことです。あれだけの大軍を動かすには多くの兵糧が要ります。その兵糧を、武蔵および相模から運び入れることができなくなります。敵は上総や下総の江戸湾と反対の海から、わざわざ陸路を用いて運ばねばならなくなります。これは大きいです」
 忠勝の言葉に、お江は押し黙った。実際に忠勝の言うとおりで、相模の港が使えないと、多くの兵糧米を江戸に運ぶのに苦労する。二十万とか、三十万人分の兵糧米となると、ましてや数か月分となると、陸路で運ぶのは至難の業である。戦の経験が少ない秀忠でも、それくらいは分かる。
「では、敵が川越まで来ているこの状況で、徳川はどう戦っていくのか、これから皆の意見を聞きたいと思う」
 秀忠はそう言って、一同を見渡した。しかし口を閉ざして、最初に提案しようとする者は誰もいない。本多正信などは、秀忠と視線が合うと、そそくさと視線を逸らす始末だ。
「それでは直政。そなたはどう考えておるのか?」
「ははっ。それがしは若輩者ゆえ、ご決断に従うのみでございます。戦となれば、この井伊の赤備えが先鋒を仕りたく存じ上げます」
 井伊直政は若者らしく言って、頭を下げた。直政がそう言うのは、秀忠も予め予想できたことだ。彼は戦での働きは目を見張るものがあるが、作戦を立てる軍師ではない。
「康政はどうだ?」
「ははっ。それがしもご決断に従う所存でございます」
「本多忠勝、そなたは?」
「ははっ。榊原殿と同じく、ご決断に従い申し上げます」
 秀忠は心の中で深く溜息を洩らした。徳川四天王と称されている三人から、具体的な作戦が出てこなかったからだ。やはり秀康に聞くしかない。またお江の機嫌が悪くなるのが目に浮かぶ。
 秀忠はいちばん前に控えている、秀康に顔を向けた。
「兄上はどのようにお考えでしょうか?」
 やはり、お江の厳しい目線が、秀忠の顔に突き刺さった。なぜ、秀康などに聞く。お江の目はそう言っている。だけれど、徳川のためには、秀康の作戦が必要だ。
 指名された秀康は唇に薄笑いを浮かべて秀忠を眺めた。
「ここでの作戦は籠城か、討って出るかの二択。それしかござらぬではないか」
 確かに秀康の言うとおりである。秀忠は口の中に溜まった唾を飲み込んだ。
「それで、兄上はどちらがよろしいと思われますか?」
 皆の視線が秀康に集まる。広間に集まったすべての家臣の視線を集めている。そんななか、秀康は目を閉じて険しい表情になった。
 やはり秀康は凄い、と秀忠は素直に思う。身体が大きく、存在感がある。そして風格もあって、相手を威圧することもできる。おまけに戦も上手だ。今回も小田原で見事に敵を撃退している。まるで若返った家康がそこに座っているようだ。
 秀忠は腹を決めていた。この軍議が終わったら、秀忠はみんなの前で、家督を秀康に譲ると宣言するつもりだ。
 その秀康は目を開けた。一同をゆっくりと見渡す。
「まずは籠城。敵が我らに勝つためには、二十万近くの大軍で囲まなければならない。それでも江戸は大阪ほどではないにしても小田原よりは堅固な城なので、一年以上の長期戦になるだろう。それで、敵は兵糧米が尽きれば撤退せざるを得ない。兵糧が少ないのなら、退くのを待てば良いが、半年など、ある程度の兵糧を用意している場合が厄介だ。耐えるためには、相模の諸城は、敵に渡してはならぬ。特に小田原と玉縄。この二つの城が敵の手に渡ってしまえば、船で運んだ兵糧米を、相模あるいは武蔵の港から上げることができてしまう。そういう点からも、わしは東海道の敵を叩いておきたかったのだ。そして小田原は大久保忠隣が守っているから良いが、玉縄の守りが弱いのが心配だ」
 秀康は玉縄という地名を出して、正信の顔を眺めた。正信が玉縄の城主だからだ。
 正信は秀忠に顔を向けた。
「はい。秀康様のご指摘のとおり、玉縄は小城でございます。城内に万もの兵を収容することもできないばかりか、水堀すらございません。平山城でございますが、数万の兵に囲まれれば数日で落ちてしまうと存じます」
 秀康はむつかしい顔になる。
「玉縄が落ちると、三浦半島の制海権が敵の手に落ちる。そうなると、兵糧米の搬入がしやすくなり、一年や二年の長期間の籠城戦が可能になるだろう。一年以上の長期の籠城となれば、当方が不利になる。だから是が非でも、玉縄を敵に渡してはならないのだが、その作戦は籠城と決まった時に述べるとしよう。
 それでもう一つ。討って出る作戦だが、標的は毛利になろう。毛利が退けば、この戦は勝ったのと同じ。それで、攻めるなら宇喜多軍が江戸に集結する前こそ、好機だと思っている。毛利ということは川越城を囲んでいる敵を叩くことになる。そこで毛利の両川(りょうせん)(吉川広家と小早川秀秋)がこちらに応じるかどうかであるが、正信、どうか?」
 再び正信が口を開いた。だが、顔は冴えない。
「はい。こちらに応じるように誘いはかけておりますが、相変わらず梨のつぶてでございます」
「まあ、そうであろう。こちらが討って出て、優勢となれば裏切る可能性はあるが、そうでなければ裏切るまい。となると敵には真田昌幸もいるので、厳しい戦いになる。でも油断させて奇襲をしかけるのは面白いことになるかもしれぬ」
 と言って、秀康は唇に不敵な笑みを浮かべた。その笑みに、秀忠は自信を読み取った。
「それで、兄上。勝てるのですか?」
「戦は勝つか負けるかのどちらか。そう考えれば五分と五分だ」秀康は不敵な笑みを続けている。「実は箱根の戦いも五分と五分だった。だけれど現地に赴いて、敵の動きを待っているうちに名案を思い付いた。もし今回も討って出るとなれば、川越に着いてからの勝負だ。そこで名案を思い付けば勝ち。そうでなければ負け」
「それなら、籠城で決まりじゃ。勝つか負けるか、本人でも分からぬ博打(ばくち)みたいな勝負に出るわけにはいかぬではないか」
 お江が声を張り上げた。場が静まり返る。
「しかし勝って、敵に損害を与えれば、この江戸が敵の大軍に囲まれることは無いだろう」
 秀康も食い下がる。直政をはじめ、何人かの家臣が頷いている。見渡すと、討って出たい家臣が多そうだ。
「駄目じゃ、駄目じゃ。もし負けてしまったら、この江戸に籠城する兵も少なくなってしまうではないか。必ず勝てるというのでなければ、城の外に討って出るなどと言うのは、駄目じゃ。絶対に駄目じゃ、駄目じゃ、駄目じゃ」
 お江は感情が高ぶり、顔を真っ赤に染めて喚(わめ)き散らしている。とにかく落ち着かせなければならない。秀忠は立ち上がって彼女の背後に回り、彼女の口を手で押さえた。
「お江。落ち着きなさい。まだ討って出ると決まったわけではない。お茶でも飲んで、気持ちを落ち着かせるのだ」
 お江は秀忠の腕の中で大きく頷いた。そして茶の入った椀(わん)を手に持たすと、それを半分くらい飲み干した。
 それを見て、家臣たちもお茶を飲み始める。彼らも喉が渇いていたのだろう。すると突然、
「若殿。そのお茶、飲んではなりませぬ」
 と、お梶の声が響いた。見ると、お梶は険しい顔つきで立ち上がっていて、秀忠は呆気に取られる。
 お梶は秀忠に近寄った。そして秀忠の手に持った椀を取り上げる。
「このお茶の中に、毒が盛られている可能性があります」
 そう言って、彼女は広間の前の庭園に出た。そして池の中にお茶を捨てた。すると、中に泳いでいた鯉が数匹、腹を見せて浮かび上がってきた。


 本多正信は身体が固まった。徳川秀忠の飲み物のなかに、明らかに毒が盛られていたのだ。そしてそれは、家中の、誰かの仕業ということになる。
 正信はお江が茶を飲んだのを見てから、喉が渇いていたので半分くらい飲み干していた。でも何ともない。隣に座っている井伊直政は、すべて飲み干しているのを確認できた。茶菓子の饅頭も二つ食べている。だけれども何ともない。そしてお江も飲んでいる。彼女も大丈夫そうだ。すると毒が入っていたのは秀忠の椀の中だけということになりそうだ。
「誰じゃ。誰が秀忠殿を殺害しようとしていたのじゃ?」お江が大声で喚(わめ)き散らす。「先日も何者かに命を狙われたばかりじゃ。今回も毒を盛って殺そうとしておる。いったい、誰じゃ、誰なのじゃ?」
 誰なのじゃ、と叫びながら、彼女の目が結城秀康に向いているのが、正信にも分かった。自分に向けられていないので、少し安心する。彼女のきつい視線が向けられている秀康は、その視線に気づいているのか気付いていないのか分からないけれど、そ知らぬ感じだ。
「誰じゃ? いったい誰が秀忠殿を殺そうとしたのか。飲み物に毒を盛るなど、卑怯ぞ。秀忠殿が亡き者になれば、徳川は誰のものになる? そうじゃ。その方が良いと思っている不届き者の仕業じゃ。きっとそうじゃ。そうではないのか?」
「お方様、お止めください」声を張り上げたお梶が、お江に詰め寄った。お江は明らかに、秀康に歩み寄っていた。「ここは若殿を殺害しようとした犯人を捜すより、家中の結束がいちばん大切と心得ます。若殿のお命が狙われていることも確かでしょう。ですが、この私が命に代えてお守り申し上げます。これは大殿のお側に仕えながら、お守りできなかったことへの報いだと存じております」
 このお梶の言葉で、お江は一つ大きな息を吐いて、秀忠の隣に座り直した。お梶も座っていた場所に戻る。
 そして、大きなうめき声が聞こえた。
「秀康様! 大丈夫でございますか?」
 井伊直政の声が響く。隣に座る秀康の身体が、うつ伏せに倒れている。
「秀康様! 秀康様!」
 直政が必死の形相で秀康の大きな背中を摩(さす)る。秀康の周りには、正信をはじめ、重臣たちの輪ができた。直政だけでない。榊原康政と本多忠勝も、秀康の身体を抱えて、必死の形相で叫んでいる。
 正信は秀康の手首を掴んだ。脈を探す。だけれど、脈は打っていない。正信が悲痛な表情で首を横に振ると、直政が泣き喚(わめ)いた。
 秀康の前に椀が転がっている。茶菓子が一つ、食べられていた。お茶も半分ほど飲まれている。秀康が毒にやられて果ててしまったのは、誰が見ても明白だ。
 
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