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ここにおいて、マスター〖第5話〗
しおりを挟む深山はまだ回らない頭を整理する。どうやら昨日からのことは夢ではないみたいだ。ついに頭がおかしくなったのか?深山はそう考えを巡らせていたとき、幼い頃、父に言われた言葉を思い出した。
『譲治の手は特別な手だ。物の想いを感じとれる手だ』
『お父さん、物は想うの?お喋りしたりするの?』
『どうだろうね。父さんは鈍いからなあ「ある程度長い月日を生きてきたものはお喋りが多いの」と昔、母さんが言っていたよ』
話し声ならまだ解る。しかし、姿を表して、泣くティーカップなんて、聞いたことがない。
いまだにこれが現実か疑う。少年のガウンを引っ張る感触で我にかえる。やはり本当だ。夢じゃない。誰も寄り付かない自分に近づいてくるのはティーカップか。小さく自嘲し、少年の指差す方向を見る。
ダイニングテーブルの上には決して器用に剥かれたとは言えない、でこぼこな林檎と、熱いミルクティー。もちろんあのカップだ。
「君が用意したのか」
褒めてもらえると思ったのか、少し得意そうに少年は頷いた。
「デッサンに使おうと思っていたんだが。こんな下手くそに切り刻まれるとは……林檎も憐れに思える。君は本当に余計なことをするのが好きだな」
みるみる少年の顔に影が差す。しょんぼり肩を落とす少年から目を逸らし、深山は不機嫌そうに林檎に口をつけた。熱いうちにミルクティーを啜る。やはり美味い。どこの店でもこんなに美味しいミルクティーを飲んだことがない。そして、深山自身が作ったものよりも、ずっと。
横をちらりと見ると、少年は深山がカップに口づける度に目を細め、幸せそうな顔をする。実際、少年は幸せだった。
深山が満足そうにミルクティーを味わう時間は、少年自身の本来の役目を果たしている満足感があった。しかも、深山の手が優しくカップに添えられる感覚がとても心地いい。
けれど、深山にはその様子が、少年が何かを懐かしむような顔に見えた。深山にとって過去は消したいものばかりだ。
急に苛々とした気分が沸き上がり、深山は机を叩く。テーブルの上の物が仰々しい音をたてて揺れた。ティーカップの中身が振動で揺れて波をうって零れた。びくっと少年は身体を震わせ怯えながら深山を見る。
「何故だろうね。君を見ていると不快になる。苛々する。嫌なことばかり思い出すね。これからは何もしなくて結構。食事の用意も、不味いミルクティーも。出ていきたいなら好きにしろ。言いたいことがあるなら言えば良い。どうせ最後だ、聞いてやる!」
深山は椅子に足を組みながら、ヘタリと座り込んで、ポロポロ涙を零す少年に向かって吐き捨てるように言った。
全てが本当かと言われれば嘘だ。ミルクティーはとても美味しく、不器用に剥かれた林檎は微笑ましく、言いたくはないが可愛らしく嬉しかった。
『ぼ、僕をここに置いて下さい、マスター。行く場所なんて無いんです。そ、それに、あの時、手と顔の火傷のことを言ったつもりはなかったんです。誤解させて嫌な思いをさせて、すみませんでした。どうせ、埃だらけの僕は、いつもみたいに贋物扱いされてゴミみたいに放っておかれると思っていました。でも、マスターは汚れた僕を綺麗にしてくれた……嬉しかった……嬉しかったんです。マスターお願いです。僕を、僕を、捨てないで……ここに居させて……お願いです』
啜り泣く音がまた、部屋に響く。大きな碧い目で深山を縋るように見つめ少年は泣き続けた。
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