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第1章
カルガモ親子③
しおりを挟む谷崎はおもむろに腕時計を見る。
「先輩、今日、用事あります?」
「な、ないよ」
「んじゃ、俺の奢りでラーメン食いに行きましょう。何か、色々話したいです。俺、腹ペコペコです。先輩は?」
秋彦は頷く。
「僕もペコペコ。でも、いいの?」
「いいんですよ。そんな気をつかわなくても」
それから谷崎の行きつけのラーメン屋へ誘われて行き、初めて他人と夜、ラーメンを食べた。
熱々のとても美味しい鶏ベースの細麺の醤油ラーメン。
「潤ちゃん、サービス。友達と一緒に食いな」
お店の大将さんはメンマと餃子をサービスでくれた。
「おっ!大将!ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます。ラーメン美味しいです。僕、メンマ大好きなんです。餃子も」
そう言い、ペコリと頭を下げると、大将さんは愉しそうに笑った。少し前の自分ならちゃんと言えただろうか。
頭を下げ、不器用に笑うだけだ。
味も勿論美味しかったけれど、誰かと一緒に食べるラーメンがこんなに楽しくて美味しいなんて知らなかった。
そして、谷崎と色々な話をした。 店を出るとき、
「ご馳走様でした。美味しかったです」
とかけた声に、
「また来なよ!」
と、大将さんの明るい声が嬉しかった。
暖簾をくぐって夜風に当たる。頬にあたる風は少し湿っていて涼しい。
外は月が出ている。
真っ暗闇ではない。
「月が綺麗ですね」
「本当だ。綺麗だね………えっ?た、谷崎くん?」
顔を赤くする秋彦に谷崎は苦笑しながら、
「深い意味はないですよ」
と言った。谷崎は歩くペースを秋彦に歩調を合わせる。
月明かりの中を自然に秋彦を歩道側にして谷崎は歩く。
谷崎は気遣いのひとだと思う。
「ありがとう。今日は沢山の『初めて』のことばっかりで楽しかった。
放課後作業を手伝ってもらったのも、初めてだった。
自分の思ったことを誰かに伝えたのも、話を聞いて貰うのも、学校帰りに誰かとラーメン食べるのも、全部初めて。
楽しかった。本当に楽しかったんだよ、谷崎くん。友達みたいに、谷崎くんのこと、思っていいかな………?
また一緒に谷崎くんとラーメン食べたいんだけど、誘ってくれる?」
「あそこ味噌も旨いんです。ちょっと辛めで、炒めた野菜どっかんって麺の上に盛ってあるんですよ。また行きましょう。あと、友達みたいにって、もう友達ですよ。先輩」
「谷崎くんありがとう。味噌ラーメン、楽しみにしてるね」
秋彦は見上げるように谷崎を見つめ、はにかむように笑った。
長く、顔を隠すように伸ばした前髪が、風で舞い上がり、
古い黒縁眼鏡越しに、びっしり長く生え揃った睫毛に縁取られた大きな瞳や、
整った顔の造作が、街灯に照らされる。
谷崎は秋彦を見るのを躊躇うように、軽く視線を逸らした。
「あの、先輩、何で俺の名前知ってたんですか?」
「新しい図書委員の紹介の時、好きな作品を聞かれたとき、『オスカー・ワイルドの《幸福な王子》です』って言ってたでしょ?『好きと言うか忘れられない作品です』ってつけ加えて。あの作品、僕も昔読んだんだ。切なくて。与えるだけの、王子……それに、本が好きなら谷崎くんの名前は忘れられないよ」
軽く俯き、ふふっと笑う秋彦に、
「俯く癖、なおしたほうがいいですよ」
そう谷崎に言われ、不思議そうな顔で秋彦は、上を向く。
「折角、可愛い顔だちしてるんですから。もったいないっすよ」
秋彦が『可愛い』と言われ思い出すのは、つらかったことだけだ。
小さい頃から秋彦は身長が小さく『可愛い』と言われていた。
女の子みたいで嫌だった。祥介みたいに『格好良い』と言われたかった。
小学校の頃、クラスの女子に『可愛い』と言われる秋彦の容姿を『おんなおとこ』とクラスの男子は、言い始めた。最初はからかい。仲間はずれだった。
それがクラスを巻き込んだ、いじめに変わるのに、そう時間はかからなかった。
そのとき秋彦を庇った祥介も
『お前、秋彦とケッコンすんの?』
とはやしたてられた。段々行為はエスカレートし、トイレも、
『秋彦お姫さまはこっちだろ』
と無理やり女子トイレを使わされた。 祥介は放課後、独りで教室で、ぼんやり座り込む秋彦の隣に座り、秋彦の手をぎゅっと握り
『アキ、俺がいるから、守るから』
と言った。ため込んでいた感情が溢れ、秋彦は祥介にしがみついて、
『祥ちゃん』
と祥介の名前を繰り返し、大声で泣いた。それから、いじめの相手への冷たい、小学生とは思えない祥介の言葉と、
祥介と祥介の親と秋彦と秋彦の親を交えての教師への掛け合いで、そのいじめは鎮火した。
前髪を顔を隠すように伸ばし始めたのはそのころからだ。
「………いくら前髪を伸ばしても、それからずっと僕は外見のコンプレックスは消えないんだ。
いつの間にか他人と話すのも怖くなった。表情や顔を見られるのも怖い。
争い事は嫌だ。
だから、嫌なことでも笑って誤魔化してきた。変わりたいとは、思う。
でも、変われなかったんだ。
ずっと。………ごめんね。折角の楽しい食事の後で」
ポツリポツリと、一部始終を谷崎に秋彦は語った秋彦の声は涙声になっていた。
「みっともないね。大昔のことずっと引きずって。でも今も陰で『キモ彦』って言われてる。
悪口なんて、もう、諦めてる。
陰口は、面と向かって言われるよりいい。笑われても、馬鹿にされても、
聴こえないふりをすればいいから」
「先輩、顔をあげて」
潤んだ大きな瞳で、秋彦は谷崎を見上げた。
「みっともなくないです。先輩、もう一つ訂正します。
先輩の顔だち『可愛い』じゃなくて『綺麗』です。折角整ってるのに眼鏡と髪で隠すのもったいないよ」
「………そう、なの?」
「先輩、今度心機一転、
髪切って、眼鏡新しくしませんか?コンタクトでもいいかも。
あと、これは俺からのお願いになっちゃうけど、一緒に図書館に行きたいです。
おすすめの本と、勉強教えてください。
夏が来る前に新しいこととか、初めてのこと、いっぱいしましょうよ。
夏来ちゃいますよ」
トンッと背中を手のひらで叩かれた。新しい世界。
が開けたみたいで目の前が明るくなった気がした。
いつも、全てのことを羨むだけで何もせず諦めてきた。
「谷崎くん、今度の日曜に、県立図書館行こう」
そう言った後、一瞬、秋彦の祥介の顔がちらついた。少し罪悪感がある。自分ばかり楽しい思いをしていいのだろうか。
祥介は自分のことより秋彦を優先させて、いつも秋彦のことを第一に考えているのが解る。けれどその残像はふわりと消えて、谷崎の整った朗らかな笑顔だけを残した。
─────────────
誰かと一緒にいて楽しい、安心する。
祥介以外でこんな感情になったのは初めてだ。気取らない、そして何処か礼儀正しい谷崎とだけは目を見て話せる。
谷崎といると、自分があまりにもいわゆる『普通』ということを何も知らなかったこと、してこなかったことが解る。
谷崎といると、知らないことばかりで楽しい。
毎日が新しい世界に足を踏み込むみたいだ。秋彦は初めて学校に付随するものが、少しづつ楽しく思えてきた。
放課後に図書室で貸出カードを書きながら小さな声で世間話をしたり。
自販機のジュースを飲みながら嫌味な谷崎の担任の愚痴を聞いたり。
谷崎の家で勉強を教えてあげたり、
ゲームをしたり。
本の話で盛り上がったり。
たまに図書委員の仕事で遅くなった下校途中、一緒に晩ご飯を食べたりする。
今まで遅くなるときの秋彦の食事は、ずっと独りで、駅の立ち食い蕎麦か、チェーンの牛丼屋だった。
美味しいことは美味しいし、お腹はいっぱいになるけれど、
何処か心が満たされた感覚はなかった。
今、谷崎と行くのは知らない個人店ばかり。美味しいし、安い。そして、食事が楽しい。
けれど、そんなときでも、どうしても浮かんでしまうのは祥介の顔だ。
作った料理を何でも、
『秋彦の料理は何でも美味しい』
と言って目尻を下げる、優しいあの顔。
小さな後ろめたさを感じてしまう。
自分ばかりこんな美味しいものを食べて、何だか悪いな、と。
そして、祥介にも食べさせてあげたいなと思う。
────────────
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