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《後編》

佐伯の場合⑦──神谷の悲しみ、佐伯への想い

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 神谷の家は驚くほど狭く、暗く、古かった。丸い木の卓袱台。小さなはめ込みの仏壇。和箪笥。紫色の色が褪めた座布団。神谷に座るように促されて黒いネクタイの佐伯は正座する。神谷が対の湯呑みに熱い緑茶を持ってくる。縁がかけていた方をはっとした顔で自分の方に引き寄せつらそうな顔をする。
「俺ん家、狭くて古いでしょ?簡単に言えば、貧乏なんです。でも、母さんはきれい好きだったから、埃とかないよ」
 確かに綺麗だった、かもしれない。でも一ヶ月以上放って置かれた畳には、埃とも砂利ともつかないものが挟まっている。古い和箪笥の上の子供用のフェルトで作られた可愛い古ぼけたピンクのクマのぬいぐるみに目をやる。
「ああ、あれ、俺が作ったんだよ。うまいでしょ。『お前は、裁縫上手いから外科医になれるかもなあ。もうかるぞぅ』って仲良かった近所のじいちゃん笑って言ってた。ずっと前に、死んだけど。俺が小学生の頃かな。約束したんです。だから医学部を受けた」
 神谷が笑って言った。目の右端に映る白い箱が五個、自己主張をしていた。
 法要も終わって出された膳を食べる。二人の膳は寂しかった。やはり独りにしなくて良かった。とにかく神谷はずっとこの前のことを謝っていた。
 神谷は話上手で、ゆっくりしすぎた。帰らなければ。相模、独りで夕食寂しくないかな。立ち上がろうと思った時に神谷に声をかけられた。
「先生、天国ってあると思う?」
 気力のない声だった。
「あると思うよ」
「現実にはないのにね。そんな場所」
「好きな人ができれば、変わってくるよ。世界が明るくなるよ」
「解ったようなこと言うなよ!」
 神谷の言葉に空気がピリッとなる。佐伯は自分の表情が強ばるのが解った。
「せ、先…せ……すみま………」
 神谷が口ごもる。佐伯は、荷物がおりた気がした。我儘な子供。相模へのあの件。それに、過去の自分と重なる。温度のない声で、丁寧に言う。
「じゃ、帰るからな。土日しっかり休んで病院に来なさい」
 そう言うと玄関に向かおうと立ち上がった足に神谷は腕を絡め縋りつき、大声で泣き始めた。
「ごめんなさ……先生、嫌いにならないで……生意気言って……ごめんなさ……。嫌わないで……お願い。俺、先生に嫌われたくないよ。好き……になって……なんて贅沢、言わないから嫌わ…ないで……お願いだよ、帰らないで。独りにしないで……」
 きちんと相模には全部話した。例の件のリーダーで相模に謝っていたことも。相模は、
『研修医の神谷くんだったんですか。あんな真面目な子なのに。でも、言われるとあの時、やけっぱちな感じはしました。大切な人を失うのはつらいですね。僕が先輩を失うようなものでしょう?』
 と言い悲しい顔をした。あんなにボロボロにされたのに、相模は神谷を責めなかった。
『相模が嫌なら行かない。行く義理も……』
 恥も外聞も捨てた神谷の泣き顔が浮かんだ。「美味しい」と泣きながらチョコレートを食べる姿も。相模が大きなため息を吐いて困ったように微笑みながら、
『行ってあげたいんでしょ?先輩。行ったほうがいいです。独りはあまりにも、つらい。行ってあげて、ね、先輩。泊まってあげてもいいんじゃないかな』
 昨日の相模の言葉。追い討ちをかけるような孝明との会話。過去の佐伯との全くの繰り返し。
『孝明、天国ってあると思うか?』
『あると思うよ』
『現実にはないのにな。そんな場所』
『好きな人ができれば、変わってくるよ。世界が明るくなる』
『解ったようなこと言うなよ!』
 あの時、あの言葉の後に続けた佐伯は、神谷の言葉と大きく違うものだった。
『お前には和也がいるだろう?俺には誰もいないんだ!何も知らないくせに!』
 と佐伯は孝明をなじった。神谷は、今も泣くばかりだ。あの時、
『佐伯先生には相模先生がいるじゃないか。俺には誰もいないんだ!何も知らないくせに!』
 とも神谷は言えた。だが神谷は佐伯に泣いて縋り、拙く切ない告白をしただけだった。
「解ったから。手を離してくれないか?」
 何も言わず神谷は手を離す。佐伯は、神谷を抱きしめた。一瞬ビクッと震えた神谷の髪を撫でる。濡れた瞳を見て、一瞬眩暈がした。逃げないように後頭部を支え口づけをする。薄く開いた唇から舌を割り込ませ絡める。もう自分を好きだなんて思わないよう、わざと苦しい口づけを押しつける。苦しそうな息継ぎが切ない。『ごめんな』と心のなかで謝る。見ると神谷は目を閉じて音もなく泣いていた。唇を離すと少し苦しそうにしながら神谷は泣きながら笑って言った。
「最後に夢を見させてくれてありがとうございました。俺、先生が好きだった。もう、十分です。相模先生には内緒ですね」
 背筋が凍る。海と同じようなことを言う。
「最後って、どういうことだ?」
「俺、分院から本院に移るんです。だから、月曜日には本院勤務になります。多分もう、先生に会うことはないと思います」
「これから何科に行くんだ?」
「外科じゃなくて精神科か心療内科にしようと思ってます。じいちゃんに怒られちゃうな。先生みたいな優しい医者になりたい。切ない人にチョコレートをあげます。たくさん話を聞いてあげます。あ、恋人も作りたいな。今度は俺だけを見てくれる人で、俺とのキスの……最中、悲し…そうな顔しないひとで……」
 ポロポロ涙をこぼしながら語る神谷が口ごもる。
「どんな人だ?」
 右手で頬をくるんだ。親指で涙を拭う。
「………嘘のキスが、うまいひと」
 佐伯の何かの線がプツリと切れた。
「本気のキスがうまい奴にしておけ」
 佐伯はそう言い、黙り込み俯く神谷の顎をあげ、口づけた。優しく甘く絡ませ、味わう。喘ぐような息継ぎが、可愛らしいと思った。佐伯は、これ以上ない甘いキスをした。癒したいと思った。唇を離し、優しく押し倒す。何度も口づける。最初は浅く。段々深く。唇を離し舌を首に這わせると背中に回された手が震えた。とにかく優しく抱いた。怖がらないように。行為の最中、ふと神谷の瞳の中にあの頃、両親の事故の頃の自分と同じ悲しみの影を見た気がした。『もう泣かないで』そう神谷に言われた気がした。自然と涙が出た。
「神谷、シャツを離してくれ」
 佐伯は涙声で言った。
「先生が何で泣くの?」
 きちんと上手に嘘をつく。神谷にも、自分にも。
「………解らない。多分、神谷が悲しいから。神谷、シャツじゃなくて、俺の手を掴め。苦しかったら爪を立てても良いから」
 甘い息づかい。声。汗。温度。身体のパーツ。記憶が消えないように、忘れないように、まるで記憶のシャッターを押すように神谷はゆっくり瞬きをしていた。とっくに月が中点を過ぎ、朝焼けがカーテンの隙間から顔を覗かせる。時間は残酷だ。抱き終わったあと、ティッシュで神谷の達した後の身体を綺麗にしてやった。勿論、佐伯はスキンをつけてした。腕枕をしてやりたくさん話した。神谷は佐伯の腕の中でじっと佐伯を見つめて話す。
「俺、あれからいつも哀しくなるときチョコ食べてるんです。今日解った。先生のキスの味に………少し似てるね」
「ああ、煙草かな?Peaceだから、少し似ているかもしれない」
「先生、何か餞別下さい。何でも良いんです」
「少し待っていなさい」
 佐伯は薄暗い部屋の中、鞄をあさった。
「ろくなものがないね。こんなもので、良かったら」
 島崎藤村の文庫の詩集と、中身が三分の一しか残っていないチョコレートの箱。残り8本のピースライト……ちらりと見た腕時計。まだ間に合う始発を無視した。
「先生、ありがとう。島崎藤村………『初恋』だね。先生は林檎じゃなくてチョコレートをくれた。俺、ずっと、とっておく」
 神谷の言葉に、佐伯は苦笑する。
「チョコレートは早めに食べなさい。溶けてしまう。神谷。君は良い医者になれるよ。優しくて強くなりなさい。いつか、何処かで会えたら良いね」
 佐伯は神谷を抱き寄せて髪を撫でた。神谷は佐伯の胸に顔を埋めた。シャツに神谷の涙が滲む。もう少しで、本当のさよならだ。胸の中で神谷は言った。
「先生……俺、ジジイになって、ボケちゃっても、最初に抱いた女の子は忘れても、初恋のクラスメイトを忘れても、佐伯先生のことは忘れないと思うよ。たった一ヶ月だったけど、見てるだけだったけど幸せだった。あんな感覚初めてだった。カウンセリングルームで話して、チョコレート貰って泣いて、今日のことが、あって………。財布の金、盗んだ彼女との八年よりずっと濃かった。佐伯先生、さよなら。引き留めたいけど、俺、佐伯先生のこと、泣いて、縋って、引き留めたら、ずっと、嫉妬して、執着して、ボロボロになる気がする。俺、金だけはバカみたいにあるから本院の近くに引っ越そうと思ってるんだ。立派な医者になりたい。先生みたいな医者になるよ」
 別れ際、神谷は姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。
「さよなら、佐伯先生」
 ずっと、ずっと、泣きながら手を振って笑ってた。朝日が眩しい。  
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