眠らない傷痕─孝明の場合・佐伯の場合

カシューナッツ

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《後編》

佐伯の場合⑧──佐伯の傷、相模の切なさ

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「………ただいま」
 小さい声でそう言い佐伯は、静かにドアを開ける。初めて相模が寝ているといいと思った。
「お帰りなさい」
 キッチンから声がする。スーツとネクタイをハンガーにかけ、手を洗い、ダイニングへ行く。
「以外に早かったですね。朝ご飯出来てますよ。一緒に食べましょう。折角の休みですし」
 振り向かない相模の声は穏やかだった。でも、いつもと違う違和感。ふわりとした所がない。
「相模………?怒ってるのか?」
 椅子に腰掛けながら、相模に訊いた。
「怒られるようなことをしたんですか?」
 黙り混む佐伯を見つめ、目玉焼きを皿に並べながら相模は言った。
「気持ちを置いてきてしまったら、身体の関係がなくても、同棲をやめます。でも、そうではないようなので、良かった。それでも……やっぱり、結果は解っていましたが傷つきますね」
「ごめん、相模。本当にすまない。けれど、こうなるって、どうして……」
 てきぱきと手を動かしながら、相模は言う。
「神谷くんの寄りかかりたい人は先輩。病院では沢山の人が先輩を好意の瞳で見ています。でも、神谷くんだけは、苦しそうだった。……先輩、嘘は上手につけましたか?」
「え……?」
「この前、話してくれたじゃないですか。ご両親を失った傷。僕はこの先輩の傷は神谷くんしか癒せないと思いました。悲しみの質があまりに類似しています。先輩、傷は癒して貰えましたか?神谷くんの悲しみも癒してあげましたか?神谷くんに、上手に嘘はつけましたか?」
「ああ。上手に嘘をついた。つらい思い出にも、決着はつけた。心配をかけた、すまなかった」
「良かった。お味噌汁、出来ましたよ。食べましょう?」
「中身は何?」
「先輩がこの前気に入ってくれたから、玉子と玉ねぎです。それと…ですが………」
「何?相模」
「僕のケガはどうってことないから良いですけど、神谷くんはシロクマを損傷させたこと、新品のデート服をクリーニングさせたことがありますから、先輩は一ヶ月朝ご飯担当してください。あと、暫く僕に触らないで。抱きしめないで。キスもしないで。一緒のベッドにも寝ません。もちろん先輩としません。頭では解っていても………悲しいし、つらいんです」
「………」
 佐伯は相模の言葉に何も言えなかった。
「解ってますよ。ただの僕の嫉妬だって。大人げないです。子供と同じ……。後からこんな言いがかりで先輩を困らせているなら、最初から『行かないで』って、言えば良かった。でも、先輩の傷を癒せるのは、神谷君それしかないと解っていたから……でも、でも……きっと先輩は僕がどれだけの思いでこうしているか、笑っているか、先輩は解ってない………」
 相模が下を向いて黙り混む。何て自分勝手だったんだろう。佐伯は自分の傷と相模を天秤にかけた。相模は、それを見ていた。解って見ていた。佐伯は相模を裏切ったと、それすら考えてなかった。
「お味噌汁冷めちゃいますね。いただきます」
 と相模が言い、自分も続く。相模はじっと佐伯を見つめた後、俯いた。
「美味しいな………相模、この味噌汁の、作り方教えてくれ」
「嫌です。僕が、必要じゃなくなっちゃうじゃないですか」
 ふふっと笑う相模は、まるで必要じゃなくなったら佐伯が相模を捨てるような言い方をした。
 覗いてはいけない、相模の傷。暗闇で独り、電気もつけずにティーカップを傾ける、纏う青い暗闇。決して、してはいけないと解っていたのに、優しく許容し、言葉で抱き締めなければならないのに、つい、佐伯は声を荒げた。箸を、置いて相模は佐伯を見る。手が震えている。怖がらせてしまったことが解る。塞がらない過去の傷口。相模は大きな声を出されると、怯えてしまう。例えそれが佐伯でも。どんな内容でも、震えがきてしまうほど。
 あっという間に食べ終わり、相模が食器を洗う。佐伯は、キッチンに立つ相模の傍にいたくて、食後に一緒に飲もうと言い訳をしながら、ケトルでお湯を沸かしダージリンを淹れる。食事の間、何も喋らなかった。こんなことは初めてだった。相模の考えていることが解らない。雲のソファで、くつろぐ相模の前に紅茶の入ったカップを置く。
「美味しい。先輩」
 相模の熱い紅茶をすする唇が、色っぽい。色素が薄い天使の巻き毛に朝日が乱反射する。
「ありがとう。相模の朝御飯も美味しかったよ」
「良かった」
 いつもの相模の穏やかな顔。ただ、佐伯を真っ直ぐ見ない。
「相模」
「何ですか?」
「俺は相模が好きだよ。大切にする。今回は悪かった。だから……」
 許してくれ。そう言うつもりだった。その前に相模が口を開く。
「僕も先輩のこと好きです。たぶん、ずっと」
 相模は柔らかく笑う。曖昧な笑顔。佐伯以外でも、病院でも他のスタッフにも、見せる、笑顔。多分?相模から初めて聞いた、この関係の不確かさ。こんな簡単なことで、関係にヒビが入るのか?いや、違う。簡単なことじゃない。佐伯の取った行動言動すべて相模を傷つけた。
「言われなくても相模を好きだし、ずっと傍にいる。ずっと、何があっても」
 強引にキスをした。後頭部を押さえて逃げられないように。食後に二人で飲んだ紅茶の香り。夢中になる。相模の味。相模の温度。それだけで、そう感じるだけで、心拍数があがる。壁に押しつけ首筋に口づけようとしたら、かわされる。
「相模……?」
「……いや、です」
「どう、して?」
「さっき暫く、しないって言いました。キスだってしたくない……僕のこと考えてみて下さい」
 相模の言葉が胸に刺さる。佐伯のせいだ。相模を強引に抱きしめる。肩に首を置き、首筋に口づける。
「先輩、やめてください!!触らないで!嫌だ!嫌だ、離して!」
 そう繰り返す相模を抱き上げ、ベッドへ連れていく。無理やり、服を剥ぎ、相模を抱く。本気で相模は暴れた。小さな、いたいけなものを、自分の思い通りにならないからと虐めているような気がした。こんなクズみたいな方法しか知らない。夢中で相模を抱いた。それしか解らない。どうしたらいいかなんて、知らない。甘い言葉を囁いて、口づけようとする。いつもなら、うっとり目を細め薄く唇を開いて、腕を首筋に絡ませ、佐伯の名前を呼んでくれる。今は見る価値もないように、顔を横に背け口づけも、拒否する。最初は必死に抵抗していた相模も、やっと捉えた口づけの途中からおとなしくなる。
 まるで人形みたいに。声もあげず、反応もしない。勿論佐伯の名前を呼ぶこともない。いつもの可愛らしい息継ぎの声はなく、ただ、呼吸を乱すだけだった。はっと気づく。相模が全身をカタカタと震わせていること。身体が氷のように冷たくなっていること。佐伯は、全ての行為をやめて、一生懸命、肩を揺さぶり、相模を呼ぶ。何回も、何回も。ただ、名前を呼ぶ。
「明彦、明彦……」
 返答がない。
「相模…?相模、相模………」
 小さな声で相模は言った。
「ひどい……ひどいよ、先輩」
 相模の目の端に滲む涙が、カーテンの隙間から差す光に反射する。相模にあったのは、これ以上ない哀しさ。切なさ。やるせなさだった。
「ひどいよ……」
 体を離すと、相模はベッドに腰かけ、背中を丸め顔を覆う。漏れ聞こえるのは、嗚咽。途切れ途切れに聞こえる、微かな、潤んだ声。
「どう…して、こ…こんな、こと…するんです…か」
「……ごめん」
「僕は…『やめて』って『嫌だ』って…言った!なのに、ひどいよ。先輩」
 暫く音の無い部屋に響くのは相模の泣き声だけだった。佐伯は震える肩を抱きしめることすら、出来ない。もう、何も出来ない。相模の全てに触れられない。素肌はこの部屋では寒いと毛布を肩にかけてやろうとすると、相模は顔をあげた。涙でぐしょぐしょに濡れていた。まだ、涙は止まらない。すっと向き直り、佐伯の顔を睨んだあと、切なそうに顔を歪め、相模は佐伯の胸を非力な握った両手で叩いた。『先輩のバカ!』『人でなし!』泣き咽びながら、そう繰り返す相模が切なくて、哀しかった。佐伯は相模に何ができる?どうしたら相模を癒せる?
「相模」
 優しく、声をかけた。
「俺は……どうすればいい?バカで人でなしだから解らない。相模は俺に何をして欲しい?」
 相模は俯いた顔を少し上げる。大きな赤い目、焼けていない肌は病的に白い。泣ききった相模は呟くように、声に表情もなく言った。声が掠れている。胸が、痛い。
「先輩、眠りましょう。起きたら元通りです。ただ、今だけは…僕に触らないで……お願い」
 そう言い相模は横になり目を閉じる。佐伯は眠る相模をただ見つめる。目もとに初めて見る、今まで気づかなかった相模の隈。自分は相模の何を見ていたんだろう。適当に謝って、思うようにいかないから無理やり抱こうとして。それで、済まそうとしていた。いや、済むと思っていた。佐伯の帰りを眠らずに、眠れずにただ待っていた相模に対して。答えはないことを解りながら、佐伯は眠る相模に語りかけた。
「ごめんな」
 何度も繰り返す。
「相模…」
 縋るように名前を呼んだ。呼ばれるのを嫌がるように、相模は後ろを向く。
「相模、こっちを向いてくれないか」
「……もう、無理やり抱こうとしたりしないですか?もう僕が嫌がることはしないですか?」
「約束するよ。相模が嫌がることはもうしない」
 相模が横に向きを変える。その拍子に、すっぽりと胸に収まる。佐伯は、再び相模に腕を絡ませる。
「愛しているんだよ。言い訳かもしれないけど、俺はまともに付き合ったことがあるのは相模が初めてだから、恋人への接し方がわからないし……でも、今日のは最低だったって言うのは解る。ごめんな、相模。もうあんなことしないから」
 相模の体温を感じながら、声を聞いた。
「眠って下さい。目が覚めたらいつも通りですから。僕、怖いんです。また、捨てられる。いつも、手を伸ばしても届かない。また、忘れられる。いつも、過去に、怯えて………弱くてごめんなさい。先輩……」
 ぎゅっとして下さい。甘い穏やかな声。相模は唯一自由になった右手で俺の髪を撫でる。相模の与えてくれる幸せに溺れながら神谷のことを思い出していた。
 神谷、早く幸せになれ。恋人を見つけろ。新しい家族を作れ………俺みたいに。
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