宵闇の山梔子(くちなし)〖完結〗

カシューナッツ

文字の大きさ
1 / 31

〖第1話〗

しおりを挟む
 大人になっていくうえで、忘れてしまったこと。過去のどうしても忘れたくない記憶だったりすることもあるかもしれない。それは、時折大人になった僕たちの心の、内側を引っ掻いてむず痒くさせる。けれど、いつしかその淡い疼きすら、いつしか忘れ去られて消えていく。

 山梔子の香りは、宵闇が似合う。昔から僕はこの花が好きだった。その甘く柔らかな腕のようなこの花の香りは、幼い孤独と寂しさを慰めた。そう言えば、母も山梔子の香りが好きだった。

「今でも覚えているわ」

 母は目を細めて語る。母の顔つきは、少女と大人の隙間に戻る。当時アメリカに留学していた父がアメリカ暮らしの母をパーティーに誘った時、送ったのが山梔子の花だった。ダンスをしながらの父のプロポーズに『とても幸せです』と、洒落た言葉で、二人は結ばれた。母の答えは山梔子の花言葉だった。僕はその夜に授かったらしい。母は受け取った山梔子の花を捨てたくなくて、ガラスの皿に水を張って、ずっと浮かべておいたといっていた。

「この甘い匂いは幸せの匂いよ」

 と部屋の山梔子の鉢を手入れしながら母は笑う。そして、小さく母は言った。

「小さい頃、惣介には寂しい思いをさせたね。ごめんね」

 僕は嘲笑った。小学生になる前から僕は自分で夜も朝も、自分でご飯を用意して食べていた。今もそれが当たり前だ。家には誰もいなかった。静寂だけがこの家を支配していた。そんな僕を慰めるように、夏になると、僕より手入れが行き届いた鉢植えの白い花がリビングに香った。その甘い香りは不思議と僕の気持ちを包み、穏やかにさせた。いつもうっすら薫っているその匂いは夏は特に僕に纏わる。

 学校に行っても解りきった授業で何も面白いことはない。楽しみも何もない。表面上の困らない人間関係を築くことはできたけれど、その友達と一緒にいて楽しいとは思わない。彼ら、彼女らが僕にみているのは、僕の後ろにあるものだ。大病院の跡取り。権力、財力だ。僕じゃない。

「今更、時間が戻るわけでもないし。僕は独りでいい。見合いはしない。恋愛もしなくていい。結婚もしない。子供も要らない。自分の子に可哀想な思いはさせたくない。いつか僕が院長になって、人生を全うしたら次の後継者は皆で決めて欲しい。それと夏休み、福島の叔父さんの家に行ってくる。この前の全国模試のときにした約束、覚えてる? 十位以内に入ったから、いいよね?志望校も圏内だし」
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

初体験の話

東雲
恋愛
筋金入りの年上好きな私の 誰にも言えない17歳の初体験の話。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

処理中です...