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第六章 アルナハブ編
アルナハブへの密使
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「アトゥイー殿を、正妃に?」
昼下がり、サラ=マナは女官たちに爪や肌を磨かせていた。
「恐らくは、そうお考えなのかと。後宮を出られた後、シハーブ様の養子に入られたと伺っています」
格の最も高い女官が、得た情報をサラ=マナに伝える。サラ=マナは僅かに奥歯を軋ませた。
(……側室にしたらよろしい、とは申し上げたが……まさか正妃に望まれようとは)
わざわざ側近の養子にするということは、奴隷出身のアトゥイーに身分を与えるということだ。後宮の姫は地方の地主や豪族の娘が大半だったが、本来後宮で側室になるだけであれば身分は問われなかった。今アトゥイーに身分が必要だとしたら、それは正妃に迎える準備に他ならない。
「……元老院には手が出せぬ……宰相のアリー殿に書簡を書こう。お前、届けておくれ」
「かしこまりました」
正妃の立后を最終的に決定するのは、十二名の長老で構成される元老院である。元老院は国王の助言機関であり、政治とは切り離された存在だった。主に祭事やしきたり、立法の正当性の検討、そして王位継承権の決定などを担う。たとえ国王といえど、元老院を意のままに動かすことはできなかった。
*****
「アトゥイーを戦場へ!?」
スカイが食って掛かっている相手は陸軍大将のイスマイルだ。
「戦場ではない。アルナハブへの密使の護衛だ」
壮年の偉丈夫イスマイルは、苦渋に満ちた表情を作ってみせた。
「同じことじゃないですか!この時期にそんなこと、陛下がお許しになるはずがない」
「わかっている。だから精一杯の配慮でアルナハブ行きに」
「冗談じゃない。一体誰の差し金ですか?」
勘のいいスカイに指摘され、イスマイルは目を泳がせる。
「…………アリー宰相…………」
その名を聞いて、スカイは溜息をついた。
「……サラ=マナ様の後見人か……まあ彼女にしてみれば穏やかじゃないでしょうね。だからって、宰相まで使って軍事に口出しするなんて越権行為もいいところだ」
「私も板挟みでつらい。とにかく君は陛下を説得してくれ。このご時世、軍に人手が足りないのも確かなんだ。戻ったらすぐ立后してしまえばいいだろう。そうすればいかなサラ=マナ殿でも手出しできない」
スカイはじろりとイスマイルを睨めつけた。イスマイルを大将まで引き上げたのはアリー宰相なのだ。逆らえようはずがない。
「……もう知りませんよ、どうなっても」
斯くして、アトゥイーとエディは三十名ほどの隊とともにアルナハブへ向かうこととなった。
アトゥイーたちが門を出ていく様子を、宮殿の三階のテラスからマルスがぼんやりと見下ろしていた。先頭で馬を並べるエディとアトゥイーが談笑している。
「まるで葬列でも見るような顔をしていらっしゃる」
通りすがりにマルスの姿を見つけたスカイが、つとめて明るい調子で声を掛けた。
「エディアカラ少佐と一緒ですから、ご心配なさることはありませんよ」
「だといいがな」
マルスの声には覇気がない。
「協定で使節には手出しできないことになっていますし。それにアトゥイーの腕が立つのは、陛下もご存知でしょう?大丈夫、すぐに無事に戻ってきますよ」
「そうだな」
スカイがいくら元気づけようとしても、王にはまるで響かない。
「――アトゥイーが戻ったら、立后の儀を進めましょう。名前も変えないと」
『アトゥイー』が偽名であることは、シハーブの調査によって早い段階で判明していた。それでなくとも、反乱軍の一味と同じ名前など穏やかではない。
「……ファーリアだ」
「え?」
「あれの名だ。ジャヤトリアではファーリアと名乗っていた」
「じゃあファーリア妃ですか。でも、せっかくですから新しい名を与えられるのもよろしいですね」
「ふ、名など何でもいいと言いそうだがな」
マルスは小さく笑った。スカイもこれには同意する。
「あー、執着のない子ですからねぇ、いろんなことに」
確かにそうだな、とマルスは思った。彼女にはまず物欲というものがない。厳しい訓練にも文句のひとつも言わず、任務と言われれば何でも受け入れる。高い地位にも豊かな暮らしにも魅力を感じないのか、妃になれと言っても嬉しそうでもない。
だが、マルスにはそれが、単にファーリアが欲望の持ち方をまだ知らないだけのようにも思えた。ジャヤトリアでの一件で、ファーリアの抑圧された幼少期が垣間見えた。いまだに感情の出し方すらぎこちない様子を見ていると、中身はまだ幼い子供なのではないかと思う。どういう経緯で王都に流れ着いたのかはわからないが、辺境伯のもとを離れて初めて自分の人生を歩き出したばかりで、実は物の価値もよくわかっていないのではないか。
「――スカイ、いつだったか、私には奴隷の望みなどわからぬと言ったな」
「ああ……その節は失礼致しました。出過ぎたことを言ったと反省しています」
「そなたは幼い頃、奴隷としてこの国に売られてきたんだったか」
「ええ、北の方の国だったと思いますけど、幼すぎて覚えてないですね」
アルサーシャの名門アブドラ家が買った、青い目と金髪が美しい子供が、スカイだった。元々は愛玩用に買われたのだが、成長するにつれて際立ってきた利発さと、教えれば教えるだけ上達する剣の腕に惚れ込んで、当時の家長だったアブドラ翁が子のできなかった娘の養子に入れたのだ。
「……アトゥイーはなにを望んでいるのだろうか?」
マルスはぽつりと言った。アトゥイーたち一行はとうにアルサーシャの町並みの中に消え、マルスの視線の先にはからっぽの前庭だけがあった。
「自由」
スカイが短く答えた。
昼下がり、サラ=マナは女官たちに爪や肌を磨かせていた。
「恐らくは、そうお考えなのかと。後宮を出られた後、シハーブ様の養子に入られたと伺っています」
格の最も高い女官が、得た情報をサラ=マナに伝える。サラ=マナは僅かに奥歯を軋ませた。
(……側室にしたらよろしい、とは申し上げたが……まさか正妃に望まれようとは)
わざわざ側近の養子にするということは、奴隷出身のアトゥイーに身分を与えるということだ。後宮の姫は地方の地主や豪族の娘が大半だったが、本来後宮で側室になるだけであれば身分は問われなかった。今アトゥイーに身分が必要だとしたら、それは正妃に迎える準備に他ならない。
「……元老院には手が出せぬ……宰相のアリー殿に書簡を書こう。お前、届けておくれ」
「かしこまりました」
正妃の立后を最終的に決定するのは、十二名の長老で構成される元老院である。元老院は国王の助言機関であり、政治とは切り離された存在だった。主に祭事やしきたり、立法の正当性の検討、そして王位継承権の決定などを担う。たとえ国王といえど、元老院を意のままに動かすことはできなかった。
*****
「アトゥイーを戦場へ!?」
スカイが食って掛かっている相手は陸軍大将のイスマイルだ。
「戦場ではない。アルナハブへの密使の護衛だ」
壮年の偉丈夫イスマイルは、苦渋に満ちた表情を作ってみせた。
「同じことじゃないですか!この時期にそんなこと、陛下がお許しになるはずがない」
「わかっている。だから精一杯の配慮でアルナハブ行きに」
「冗談じゃない。一体誰の差し金ですか?」
勘のいいスカイに指摘され、イスマイルは目を泳がせる。
「…………アリー宰相…………」
その名を聞いて、スカイは溜息をついた。
「……サラ=マナ様の後見人か……まあ彼女にしてみれば穏やかじゃないでしょうね。だからって、宰相まで使って軍事に口出しするなんて越権行為もいいところだ」
「私も板挟みでつらい。とにかく君は陛下を説得してくれ。このご時世、軍に人手が足りないのも確かなんだ。戻ったらすぐ立后してしまえばいいだろう。そうすればいかなサラ=マナ殿でも手出しできない」
スカイはじろりとイスマイルを睨めつけた。イスマイルを大将まで引き上げたのはアリー宰相なのだ。逆らえようはずがない。
「……もう知りませんよ、どうなっても」
斯くして、アトゥイーとエディは三十名ほどの隊とともにアルナハブへ向かうこととなった。
アトゥイーたちが門を出ていく様子を、宮殿の三階のテラスからマルスがぼんやりと見下ろしていた。先頭で馬を並べるエディとアトゥイーが談笑している。
「まるで葬列でも見るような顔をしていらっしゃる」
通りすがりにマルスの姿を見つけたスカイが、つとめて明るい調子で声を掛けた。
「エディアカラ少佐と一緒ですから、ご心配なさることはありませんよ」
「だといいがな」
マルスの声には覇気がない。
「協定で使節には手出しできないことになっていますし。それにアトゥイーの腕が立つのは、陛下もご存知でしょう?大丈夫、すぐに無事に戻ってきますよ」
「そうだな」
スカイがいくら元気づけようとしても、王にはまるで響かない。
「――アトゥイーが戻ったら、立后の儀を進めましょう。名前も変えないと」
『アトゥイー』が偽名であることは、シハーブの調査によって早い段階で判明していた。それでなくとも、反乱軍の一味と同じ名前など穏やかではない。
「……ファーリアだ」
「え?」
「あれの名だ。ジャヤトリアではファーリアと名乗っていた」
「じゃあファーリア妃ですか。でも、せっかくですから新しい名を与えられるのもよろしいですね」
「ふ、名など何でもいいと言いそうだがな」
マルスは小さく笑った。スカイもこれには同意する。
「あー、執着のない子ですからねぇ、いろんなことに」
確かにそうだな、とマルスは思った。彼女にはまず物欲というものがない。厳しい訓練にも文句のひとつも言わず、任務と言われれば何でも受け入れる。高い地位にも豊かな暮らしにも魅力を感じないのか、妃になれと言っても嬉しそうでもない。
だが、マルスにはそれが、単にファーリアが欲望の持ち方をまだ知らないだけのようにも思えた。ジャヤトリアでの一件で、ファーリアの抑圧された幼少期が垣間見えた。いまだに感情の出し方すらぎこちない様子を見ていると、中身はまだ幼い子供なのではないかと思う。どういう経緯で王都に流れ着いたのかはわからないが、辺境伯のもとを離れて初めて自分の人生を歩き出したばかりで、実は物の価値もよくわかっていないのではないか。
「――スカイ、いつだったか、私には奴隷の望みなどわからぬと言ったな」
「ああ……その節は失礼致しました。出過ぎたことを言ったと反省しています」
「そなたは幼い頃、奴隷としてこの国に売られてきたんだったか」
「ええ、北の方の国だったと思いますけど、幼すぎて覚えてないですね」
アルサーシャの名門アブドラ家が買った、青い目と金髪が美しい子供が、スカイだった。元々は愛玩用に買われたのだが、成長するにつれて際立ってきた利発さと、教えれば教えるだけ上達する剣の腕に惚れ込んで、当時の家長だったアブドラ翁が子のできなかった娘の養子に入れたのだ。
「……アトゥイーはなにを望んでいるのだろうか?」
マルスはぽつりと言った。アトゥイーたち一行はとうにアルサーシャの町並みの中に消え、マルスの視線の先にはからっぽの前庭だけがあった。
「自由」
スカイが短く答えた。
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