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第十章 王都編
旅路〜旅立ち
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「本当に行くのか」
真新しいテントをせっせと丸めているファーリアに、イランが言った。
「ええ。ヌールももう歩けるようになったし、街道沿いに無理しないように行くわ」
ファーリアは清々しい笑顔で言った。
ユーリと別れて一年と数ヶ月が経っていた。
王都は新政府とアルヴィラ軍が占拠し、新政府に異を唱える者は迫害を逃れて各地へ散っていった。最終的に前体制から残ったのは、議会の三分の一と軍部の一部で、軍備はほぼアルヴィラ軍が引き継いだ。役人の半数以上が王都を逃れる家族と共に王宮を去ったが、残りは新体制の元で粛々と業務を続けた。
いずれ王都が戦場になる、という噂は、かなり以前から囁かれていた。前王マルスが生き延びて密かに兵を集めている、というのがその根拠である。そんな中で街に残っていたのは、それまで冷遇されてきた移民や貧民たち、どんな相手でも商売ができるしたたかな商人たち、色街の住人たちなどで、逃げ出したくても疎開先のあても資金もないという者も多くいた。逆に、前体制下で優遇されていた特権階級や豪商は軒並み王都から脱出したが、元々アルヴィラと取引のあったサヴァ商会だけは王都に留まり、これまで以上に商売の手を広げていた。
新政府の勢力図は王国の北部一帯――王都から中部のアルヴィラ付近まで及んでいた。更に砂漠の交易路は遊牧民の戦闘民族たちが押さえていた。
一方で、新政府の支配が及ばなかった海軍はまるごとマルスについた。海軍基地のあるアズハル湾を拠点に、マルスの陣営は西海岸沿いを支配下に置いていった。王国の西側には王族に連なる有力者の領地も点在していたため、マルス側につく領主も多くいた。
以上のような情勢の中で、レーは中立を保っていた。
カナン自由民は、レーを出入りする商船のもたらす富と情報、更に解放奴隷たちが生み出す新しい産業によって、レー近郊を経済特区として成長させた。
その経済力を背景に、カナン自由民はレー近海に駐留していた海軍と協定を結んだ。更に、カナン自由民は海賊たちとも協定を結んでいた。これには武器商人のブラッディ・ルビーが一枚噛んでいて、「泣く子も黙る大海賊キャプテン・ドレイクが、女頭領に骨抜きにされた」という話題は、海賊連中の格好の酒の肴になった。とまれ、カナン自由民を通して、レー近海ではマルス傘下の海軍と海賊たちとが共存していた。
マルス個人の行方は杳として知れなかった。海軍の軍艦の中に潜んでいるとか、アズハルに新しく城を建設中だとか、いやいや外国に亡命したのだなど、様々な噂がまことしやかに囁かれたが、誰もその姿を見たという者はいなかった。
そして、行方のわからない男がもう一人いた。
ファーリアは、砂漠の旅には慣れている。
馬を一頭と駱駝を一頭連れて、ファーリアはレーを旅立った。辺境伯のキャラバンで、必要な作業はだいたい身につけていたし、レーで手に入れた街道の地図も持っていた。遊牧民の水場までは書き込まれていないが、市場の場所は載っている。街道では、レーで顔見知りになった商人とすれ違うこともあったし、時にはキャラバン隊の幌馬車で涼を取らせてもらうこともあった。
ヌールはたいてい機嫌がよく、とても健康だった。長く移動した夜などはさすがに疲れてぐずり、乳を欲しがったりもしたが、翌朝にはけろりとしてはしゃぎ回った。駱駝に乗りたがったかと思うと、すぐに馬に乗りたがったりして、ヌールの希望をすべて聞いていると予定の半分も前進できない日もあったが、それはそれで楽しかった。市場に着けないまま夜を迎えた日には、小さなテントの前で焚き火をし、星を眺めながら眠った。
「あえは?母しゃ、あえは?」
舌足らずの言葉でヌールが天を指差す。
「あれは、牡牛座のアルデバランよ」
「アー、デー?アーデバー?」
「アル・デ・バ・ラ・ン」
「母しゃ、あえは?」
「あれは――火星」
「マールス!マールース!」
きゃっきゃっと笑うヌールを、ファーリアは幸福な気持ちで見つめた。ヌールといるだけで、寂しさも不安も後悔も薄れて形を失っていく。この温かい小さな存在に、満たされている。
「……さあ、そろそろ寝よう。明日は市場で甘いものでも買ってあげる」
真新しいテントをせっせと丸めているファーリアに、イランが言った。
「ええ。ヌールももう歩けるようになったし、街道沿いに無理しないように行くわ」
ファーリアは清々しい笑顔で言った。
ユーリと別れて一年と数ヶ月が経っていた。
王都は新政府とアルヴィラ軍が占拠し、新政府に異を唱える者は迫害を逃れて各地へ散っていった。最終的に前体制から残ったのは、議会の三分の一と軍部の一部で、軍備はほぼアルヴィラ軍が引き継いだ。役人の半数以上が王都を逃れる家族と共に王宮を去ったが、残りは新体制の元で粛々と業務を続けた。
いずれ王都が戦場になる、という噂は、かなり以前から囁かれていた。前王マルスが生き延びて密かに兵を集めている、というのがその根拠である。そんな中で街に残っていたのは、それまで冷遇されてきた移民や貧民たち、どんな相手でも商売ができるしたたかな商人たち、色街の住人たちなどで、逃げ出したくても疎開先のあても資金もないという者も多くいた。逆に、前体制下で優遇されていた特権階級や豪商は軒並み王都から脱出したが、元々アルヴィラと取引のあったサヴァ商会だけは王都に留まり、これまで以上に商売の手を広げていた。
新政府の勢力図は王国の北部一帯――王都から中部のアルヴィラ付近まで及んでいた。更に砂漠の交易路は遊牧民の戦闘民族たちが押さえていた。
一方で、新政府の支配が及ばなかった海軍はまるごとマルスについた。海軍基地のあるアズハル湾を拠点に、マルスの陣営は西海岸沿いを支配下に置いていった。王国の西側には王族に連なる有力者の領地も点在していたため、マルス側につく領主も多くいた。
以上のような情勢の中で、レーは中立を保っていた。
カナン自由民は、レーを出入りする商船のもたらす富と情報、更に解放奴隷たちが生み出す新しい産業によって、レー近郊を経済特区として成長させた。
その経済力を背景に、カナン自由民はレー近海に駐留していた海軍と協定を結んだ。更に、カナン自由民は海賊たちとも協定を結んでいた。これには武器商人のブラッディ・ルビーが一枚噛んでいて、「泣く子も黙る大海賊キャプテン・ドレイクが、女頭領に骨抜きにされた」という話題は、海賊連中の格好の酒の肴になった。とまれ、カナン自由民を通して、レー近海ではマルス傘下の海軍と海賊たちとが共存していた。
マルス個人の行方は杳として知れなかった。海軍の軍艦の中に潜んでいるとか、アズハルに新しく城を建設中だとか、いやいや外国に亡命したのだなど、様々な噂がまことしやかに囁かれたが、誰もその姿を見たという者はいなかった。
そして、行方のわからない男がもう一人いた。
ファーリアは、砂漠の旅には慣れている。
馬を一頭と駱駝を一頭連れて、ファーリアはレーを旅立った。辺境伯のキャラバンで、必要な作業はだいたい身につけていたし、レーで手に入れた街道の地図も持っていた。遊牧民の水場までは書き込まれていないが、市場の場所は載っている。街道では、レーで顔見知りになった商人とすれ違うこともあったし、時にはキャラバン隊の幌馬車で涼を取らせてもらうこともあった。
ヌールはたいてい機嫌がよく、とても健康だった。長く移動した夜などはさすがに疲れてぐずり、乳を欲しがったりもしたが、翌朝にはけろりとしてはしゃぎ回った。駱駝に乗りたがったかと思うと、すぐに馬に乗りたがったりして、ヌールの希望をすべて聞いていると予定の半分も前進できない日もあったが、それはそれで楽しかった。市場に着けないまま夜を迎えた日には、小さなテントの前で焚き火をし、星を眺めながら眠った。
「あえは?母しゃ、あえは?」
舌足らずの言葉でヌールが天を指差す。
「あれは、牡牛座のアルデバランよ」
「アー、デー?アーデバー?」
「アル・デ・バ・ラ・ン」
「母しゃ、あえは?」
「あれは――火星」
「マールス!マールース!」
きゃっきゃっと笑うヌールを、ファーリアは幸福な気持ちで見つめた。ヌールといるだけで、寂しさも不安も後悔も薄れて形を失っていく。この温かい小さな存在に、満たされている。
「……さあ、そろそろ寝よう。明日は市場で甘いものでも買ってあげる」
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