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第一章 乱世到来
幸福な夢
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「……う……」
シンがうなされだしたのは、宿の主人が出ていって間もなくのことだった。
「うぅ……ああ……っ」
端正な顔を苦しげに歪め、呼吸も荒い。
「いやだ……だめ……いや……」
シンの顔に、びっしょりと汗が浮かんでいる。ファーリアは水差しの水を布切れに含ませて、シンの顔をふいた。
起こしたほうがいいのだろうか、とファーリアは迷った。
「シン……?」
「どうして……かあさ……たすけて……っ……」
かたく閉じた眦から涙がこぼれ、大量の汗と混じって枕に落ちる。
「あああ……いやだ……いやだいやだいやだいやだいやだいや……――――っ!!」
叫び声とともに、シンはかっと眼を見開いた。だがその眼はファーリアを映してはいない。あらぬ場所を睨みながら、がくがくと痙攣し始めた。
「シン!?」
「ううううう!」
がちがちと歯を食いしばり、口元から血が溢れる。口の中を切ったらしい。ファーリアは布を噛ませようと、シンの唇をこじ開けた。
「うぐぅう!!ぅう――――っ!!」
「シン!シン!」
「…………父さま!!!」
叫びとともに、シンはがばっと跳ね起きた。
「……っはぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
正気に戻ったか、と思われたが、ファーリアはすぐにそれが間違いだと悟った。
シンの周囲を、燃えるような殺気が包んでいる。ゆらりと立ち上がり、ファーリアを見下ろした。その幽鬼のような顔。艶を失い、乱れた長髪。
ファーリアの胸中を、また思い出が過ぎった。
シンは虚ろな表情のまま剣を取った。
ファーリアは迷った。シンの腕は、おそらくファーリアと互角か、少し上だろう。だが正気を失った状態の彼の剣は、ふらついて動きも遅い。今ならば、ファーリアはシンを倒すことも、逃げることもできる。
(だけど――)
こんな状態のシンを放って、逃げられるわけがない。それにそもそも、もとより逃げるつもりもなければ、逃げた末に行くあてもないのだ。
「あああああ!!」
シンが剣を振り上げた。だが、振り下ろしたその剣先が向けられていたのは、ファーリアではなかった。
「――やめろ!」
ファーリアはシンに飛びついて、剣の柄を押さえた。
「何を……っ、死ぬ気か!」
ファーリアとシンが剣を奪い合う。シンは剣を逆手に握り、自らの腹に向けて突き立てようとしていた。
「あああ、あああああ」
ファーリアがシンの手首の急所を突き、シンは剣を取り落した。闇雲に暴れるシンを、ファーリアが押さえこむ。が、男と女では所詮腕力が違いすぎた。ファーリアはあっさり床に組み伏せられた。
爛々と見下ろす両の瞳に、狂気が宿っている。
勢いよくシンの拳が振り下ろされた。それはファーリアの頬をかすめ、ダン!と床を殴りつけた。
「――っああああ!!」
ダン、ダン、と、何度もシンは床を殴った。拳は赤く腫れ上がり、血が滲んでいる。
「やめて……もういい、シン」
ファーリアはシンの首に両腕を回し、その頭を胸に抱き寄せた。
「あああ……!」
「もういいの。だいじょうぶよ」
ファーリアはできるだけ静かな声で、シンに囁きかけた。
「ああ……あ……」
長い時間をかけて、こわばった全身から徐々に力が抜けていく。
「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……」
ファーリアの腕の中で、シンはしばらく荒い呼吸を繰り返していたが、やがて落ち着きを取り戻して眠りに落ちていった。
シンは再び、夢を見ていた。
優しい声に呼ばれて振り向くと、そこには父母が笑っていた。傍らには弟と妹もいる。いつも自分の後をついてきていた弟は逞しい青年に成長し、幼かった妹もすらりと背が伸びて、上品なドレスをまとっていた。
笑顔が溢れ、幸福に包まれる。
――良かった。あれは悪い夢だったんだ。
シンは心から安堵した。これからはこの幸福な世界で、愛する家族と共に生きられる――。
夜半、シンは目覚めた。
窓の外の月を見上げて、自分が今どこにいるのかを思い出した。かたわらに目をやると、床に座り込んだファーリアが寝台に頭を預けて寝息を立てている。
「…………っあ…………?」
幸福な夢は、ときに悪夢よりも残酷に心を抉る。
失ってしまった、あったはずの未来。それが永遠に奪われたことを、目の前の現実が容赦なく突きつけてくる。
束の間の夢が見せた家族の笑顔は、もうどこにも存在しない。罪は消えず、時間は巻き戻せない。
「……っ」
程なくして目を覚ましたファーリアに、そっと頬を拭われて、シンは初めて自分が泣いていることに気付いた。
「なんで……涙なんか」
シンは制御できない感情に戸惑った。この女の前でこんな弱い姿を晒すなど、考えられなかった。泣き止もうとすればするほど、堰を切ったように涙が溢れてくる。
「畜生……いままで泣いたことなんて、なかっ……」
あの幸福な夢のせいだ。悪夢を見るほうがまだましだ。シンはぐっしょり濡れた布に顔をうずめて、こみ上げる嗚咽を押し殺した。
「泣いたほうが前に進めることもあるわ」
ファーリアが静かに言った。
「前なんてない……!」
悲痛な声に、ファーリアはかける言葉が見つからなかった。代わりにシンの横に座りなおし、シンの頭を抱いた。
「誰も俺を許さない……俺は」
シンはファーリアにしがみついた。まるで救いを求めるように。
「……殺してやる……ぜったいに……殺してやる」
血生臭い言葉が、窓から差し込む柔らかな月光に包まれて、夜の闇に溶け落ちていく。
「殺して、終わりだ。未来なんてない」
シンがうなされだしたのは、宿の主人が出ていって間もなくのことだった。
「うぅ……ああ……っ」
端正な顔を苦しげに歪め、呼吸も荒い。
「いやだ……だめ……いや……」
シンの顔に、びっしょりと汗が浮かんでいる。ファーリアは水差しの水を布切れに含ませて、シンの顔をふいた。
起こしたほうがいいのだろうか、とファーリアは迷った。
「シン……?」
「どうして……かあさ……たすけて……っ……」
かたく閉じた眦から涙がこぼれ、大量の汗と混じって枕に落ちる。
「あああ……いやだ……いやだいやだいやだいやだいやだいや……――――っ!!」
叫び声とともに、シンはかっと眼を見開いた。だがその眼はファーリアを映してはいない。あらぬ場所を睨みながら、がくがくと痙攣し始めた。
「シン!?」
「ううううう!」
がちがちと歯を食いしばり、口元から血が溢れる。口の中を切ったらしい。ファーリアは布を噛ませようと、シンの唇をこじ開けた。
「うぐぅう!!ぅう――――っ!!」
「シン!シン!」
「…………父さま!!!」
叫びとともに、シンはがばっと跳ね起きた。
「……っはぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
正気に戻ったか、と思われたが、ファーリアはすぐにそれが間違いだと悟った。
シンの周囲を、燃えるような殺気が包んでいる。ゆらりと立ち上がり、ファーリアを見下ろした。その幽鬼のような顔。艶を失い、乱れた長髪。
ファーリアの胸中を、また思い出が過ぎった。
シンは虚ろな表情のまま剣を取った。
ファーリアは迷った。シンの腕は、おそらくファーリアと互角か、少し上だろう。だが正気を失った状態の彼の剣は、ふらついて動きも遅い。今ならば、ファーリアはシンを倒すことも、逃げることもできる。
(だけど――)
こんな状態のシンを放って、逃げられるわけがない。それにそもそも、もとより逃げるつもりもなければ、逃げた末に行くあてもないのだ。
「あああああ!!」
シンが剣を振り上げた。だが、振り下ろしたその剣先が向けられていたのは、ファーリアではなかった。
「――やめろ!」
ファーリアはシンに飛びついて、剣の柄を押さえた。
「何を……っ、死ぬ気か!」
ファーリアとシンが剣を奪い合う。シンは剣を逆手に握り、自らの腹に向けて突き立てようとしていた。
「あああ、あああああ」
ファーリアがシンの手首の急所を突き、シンは剣を取り落した。闇雲に暴れるシンを、ファーリアが押さえこむ。が、男と女では所詮腕力が違いすぎた。ファーリアはあっさり床に組み伏せられた。
爛々と見下ろす両の瞳に、狂気が宿っている。
勢いよくシンの拳が振り下ろされた。それはファーリアの頬をかすめ、ダン!と床を殴りつけた。
「――っああああ!!」
ダン、ダン、と、何度もシンは床を殴った。拳は赤く腫れ上がり、血が滲んでいる。
「やめて……もういい、シン」
ファーリアはシンの首に両腕を回し、その頭を胸に抱き寄せた。
「あああ……!」
「もういいの。だいじょうぶよ」
ファーリアはできるだけ静かな声で、シンに囁きかけた。
「ああ……あ……」
長い時間をかけて、こわばった全身から徐々に力が抜けていく。
「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……」
ファーリアの腕の中で、シンはしばらく荒い呼吸を繰り返していたが、やがて落ち着きを取り戻して眠りに落ちていった。
シンは再び、夢を見ていた。
優しい声に呼ばれて振り向くと、そこには父母が笑っていた。傍らには弟と妹もいる。いつも自分の後をついてきていた弟は逞しい青年に成長し、幼かった妹もすらりと背が伸びて、上品なドレスをまとっていた。
笑顔が溢れ、幸福に包まれる。
――良かった。あれは悪い夢だったんだ。
シンは心から安堵した。これからはこの幸福な世界で、愛する家族と共に生きられる――。
夜半、シンは目覚めた。
窓の外の月を見上げて、自分が今どこにいるのかを思い出した。かたわらに目をやると、床に座り込んだファーリアが寝台に頭を預けて寝息を立てている。
「…………っあ…………?」
幸福な夢は、ときに悪夢よりも残酷に心を抉る。
失ってしまった、あったはずの未来。それが永遠に奪われたことを、目の前の現実が容赦なく突きつけてくる。
束の間の夢が見せた家族の笑顔は、もうどこにも存在しない。罪は消えず、時間は巻き戻せない。
「……っ」
程なくして目を覚ましたファーリアに、そっと頬を拭われて、シンは初めて自分が泣いていることに気付いた。
「なんで……涙なんか」
シンは制御できない感情に戸惑った。この女の前でこんな弱い姿を晒すなど、考えられなかった。泣き止もうとすればするほど、堰を切ったように涙が溢れてくる。
「畜生……いままで泣いたことなんて、なかっ……」
あの幸福な夢のせいだ。悪夢を見るほうがまだましだ。シンはぐっしょり濡れた布に顔をうずめて、こみ上げる嗚咽を押し殺した。
「泣いたほうが前に進めることもあるわ」
ファーリアが静かに言った。
「前なんてない……!」
悲痛な声に、ファーリアはかける言葉が見つからなかった。代わりにシンの横に座りなおし、シンの頭を抱いた。
「誰も俺を許さない……俺は」
シンはファーリアにしがみついた。まるで救いを求めるように。
「……殺してやる……ぜったいに……殺してやる」
血生臭い言葉が、窓から差し込む柔らかな月光に包まれて、夜の闇に溶け落ちていく。
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