僕は15角形──The second story of SIO

ぱとす

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夏のナンタケットは海への誘い

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夏の熱気は夜になっても終わらない。表参道の喧噪の裏道のことさらに解りにくい路地にあるコンクリート打ちっ放しのビルには窓はなかった。
空は沸き上がった蒸気にぼんやりと「街の灯」が澱むように停滞し、晴れなのか曇りなのか全く解らない。ビルの階段を上るうちに、温度は嘘のように低下した。
詩音は軽いステップで階段を苦もなく駆けのぼる。

突き当たり。コンクリートに強引に打ち止められた鋲と金具、そして黒檀の重そうなドアに一点、輝くばかりの金色に光る鯨を模したシルエットのプレートが打ち込まれている。店名も何も表示されていないし、OPENともCLOSEとも書かれていない、無愛想な扉のノブを、力一杯引っ張ると、店内からむっとした人気が湧きだした。が、熱くはない。むしろ寒いぐらいに涼しい。多分この店のポリシーである荒れた海は決して夏を許さないのだろう。
店に静かに流れる音楽は最初に郁男に連れられて来た時と同じ。
このチューンされたライブ(歌っている本人がそう言っている)のベーシストであり作曲者でもあるフェリックス・パパラルディが奏でる低音はまるで嵐の海のうねりのよう。そして悲鳴のようなギターは暴風雨そのもの。
ただ単純に「山」として呼ばれるバンドの演奏はおの店の看板のようだった。

詩音が店に入ると、店中の会話が切断したテープのように途切れた。
そして全ての客が眼福にため息をつく。



今日の詩音の姿は白のショートパンツという出で立ち。
ワイルド系のシャツからは、細くしなやかな二の腕が露わになり、夏向きのボーイッシュな(そこらへんは深く考えないようにしよう)スタイル。
歩を進めるたびにリュ・ド・ラ・ポンプの黒いサンダルが硬い樫木を打つ。髪の毛は天使の輪のように輝き、左の耳元に七色の小さなダイアモンドが煌めく。

詩音はいつもの癖で、ちょっと首を傾げてカウンターに立つ髭面の大男に気軽に話しかける。

「郁夫、来てる?」クリムソン・グローリーのような、艶やかな微笑み。

この「ナンタケット」のマスターでありオーナーである男は、その埋もれたはしばみ色の瞳のまま、黙って顎をカウンターの奥に向けた。錆び付いた巨大な銛や太いロープの渦、オールや滑車、瑠璃色のガラス玉の奥に、Tシャツとはいえかなりお洒落度の高いものを身につけ、シングルモルトを傍らにした若い男が詩音に優しく微笑みかけ、立ち上がって椅子を引き、促すように手を椅子に伸ばして待機している。
詩音は乱暴に高いカウンター席に飛び乗り、頬杖をついて下目線で青年を見る。

「待った?」
「いや、ほんの一時間くらい。あっという間だね」郁夫は人懐っこい笑顔で自分も座り、詩音に近づく。ほんのり柑橘系のコロンが清々しい。
「そういう時は嘘でも「今来たところ」って答えるもんだけどね」
「正直、嘘は苦手でね。あれ? この日本語変かな」
「日本語になってないよ」詩音は軽く指を上げると、もうそこには髭面のマスターが狭いカウンターに大きな腹回りを食い込ませていた。
「マッカランをロックで。もちろん、ダブルよりは多めで」

マスターは厳かに頷くと、冷凍庫から出したグラスをコースターに乗せ、グラスにちょうどいい大きさの氷を滑らせると、片手で「ザ・マッカラン1946」を豪快に注いだ。郁夫の顔色が変わる。
「おいおい、そんなに大丈夫か?って、そのボトル一本で軽自動車一台くらい買えるぞ?」

「いいのいいの」詩音はシャツから金色のプレートを指で挟んだ。それは鯨のシルエットを持つ、ほんの5センチほどの黄金板。

詩音は潤んだ瞳を閉じて、グラスの中の芳香を楽しみ、口に含む。50年以上寝かせた宝石のような味わいに詩音はうっとりする。酒に濡れた桜色の口唇が壮絶に妖艶な空気を醸し出す。

「あのね、詩音。君が三つも歳をサバ読んでいたのはもう知っているんだよ」
「そりゃそうでしょう。だっていちごと同級生なんだから。ついでに言うと僕は三月生まれだから、いちごより事実上半年は年下になるけど」
「僕はまだ犯罪者にはなりたくないんだけどなあ」
「刑務所の単純作業も楽しいものらしいよ、郁夫」

詩音はまた大きく酒をあおる。が、詩音の特性として、顔色は変わらない。郁夫はカウンターに顔を埋めた。

「えらいものに関わってしまった………」

詩音は郁夫の背中を思いっきり叩く。

「ま、気にするな。青年。人生なんて最初から最後まで背景は不幸だ」
「君に言われたくないんだけどね」
「そう? 楽しもうと思えば人生は薔薇色さ。マスター」

髭の大男は意外と素早かった。

「プロコル・ハルムのA Solty Dogをリクエスト。これも海の歌だよね?」



マスターはエプロンのポケットから何かコントローラーを出して打ち込む。やがて店内には静かな波の音と海鳥の鳴き声が響き渡る。
やがて壮大なオーケストラが、ゲイリー・ブルッカーの逞しい声が、空間を満たした。店内の客から、静かなどよめきが起こる。めったに無い事らしい。多くの視線に、詩音は目を細め、朗らかな微笑みを浮かべる。
郁夫は店内が一瞬明るくなったような錯覚に陥った。

「そういえば叔父が「あの別嬪を何とか出来んか」ってうるさいのなんの」
「僕は自由だもの。檻の中の珍獣はご勘弁って言っておいて」

詩音の瞳が瞬くたびに、その極端に長い睫が風を起こすような気がしてならない。郁夫は首を振って正気を保った。

「あのさあ、夏なんだし。草冠の方からも言われているし。海になんか、行かないかね」

詩音がグラスの酒を飲み込みながら瞳を大きく開けた。郁夫はなんじゃこりゃと心で叫ぶ。ただでさえ大きく美麗な瞳がさらに見開かれた。

「海水浴場?」
「いや、草冠のプライベート・ビーチ」
「なんですかそのブルジョワ発言は」
詩音は黙ってグラスを後に突き出すと、そこに待っていたマスターが新たに景気よく注ぐ。ちょっとまてよ!それって思いっきりヴィンテージだろうが!と、郁夫の空しい心の叫び。

詩音は郁夫とキスできるぐらい近くに顔を寄せた。

「そこで? ふたりきりで? 甘~い夜を過ごすの? 下心見え見えだし。でも、誘われちゃおうかな~って悪い僕も居るわけ。ひょっとして、これって口説いてるの?」

郁夫は慌てて手で遮る。が、それも力無く。

「……ま、みんなでね。草冠はもちろん、大島も…出来れば君のお友達……綿星だっけ?」
「なーんだ。善人。卑怯者。たまには僕をうっとりさせてもいいじゃない」

そのまま、詩音はカウンターに俯した。たちまち静かな寝息が聞こえる。
郁夫はやれやれと言うように肩をすくめた。
問題はどうやってこのとんでもない美貌の身体を「お姫様だっこ」でタクシーに乗せるかだった。乗せるだけではなく、彼女(?)のベッドまで運ばなくてはならない。

この厄災を郁夫は楽しみにしている自分に気が付く。


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