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三日目

生贄から解放して

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 左手で魔力を放つ。キトエはとっさというように魔力を剣で弾いた。不意をつかれたのか痛みで手元が狂ったのか、リコへ返ってくる。狙ったのではないと、キトエの見開いた目から分かった。息を吸うほどの時間、相殺するには間に合わず、右手で弾き飛ばす。

 もう終わりにしよう。息を鋭く吐き出す。左手を引いて、魔力をかき集める。指先が、手の平が、赤く、熱く。

「イグニト」

 真紅の炎がキトエへほとばしる。

 不意に響き渡った冷たく硬い破壊音に驚いて、音のほうを仰ぐ。

 見上げた天井には、つき抜ける水色の空。赤、緑、青、黄、砕けた鮮やかな色ガラス。角度で変わるきらめきをまとって、降ってくる。

 弾いた魔力が天井を壊してステンドグラスを割ったのだ。体が重い。イグニトの反動で魔力が撃てない。よけられない。

 鋭い光をもって注いでくる色ガラスは、ただ美しい。

「リコ!」

 声に意識を引き戻される。リコのもとへ駆けるキトエの前に、真紅の炎。キトエの剣が炎を斬る。剣にまとわりついた炎はキトエを包みこみ真紅の火柱をあげる。

 叫べなかった。凍った喉と体で、きつく目を閉じた。

 背中に衝撃があって咳こんだ。けれどそれ以上の痛みがない。

 ゆっくりとひらいた視界の先にはキトエが、いた。仰向けに倒れたリコに覆いかぶさっていた。うつろな瞳に見下ろされて、キトエが崩れ落ちてくる。かかった体の重みから抜け出して、リコはキトエの横に座る。

 破れた服から見える背中は赤くただれて、色ガラスが何本も突き立っていた。脚にも、腕にも、赤くただれたなかに白い水疱が浮き上がっている。

「キ、トエ、キトエ!」

 時間の氷が割れたように声が出た。ガラスを抜いて、体中のわずかな魔力をかき集めてキトエの背中に手をあてる。

「テナマリカ」

 回復の魔法を口に出す。リコの両手から、キトエの体が淡い光に包まれる。

 自分でキトエを攻撃したのに、滑稽だった。けれどここまでするつもりはなかった。リコをかばおうとするとも思わなかった。叫び出しそうになるのを必死に抑えて、最悪の想像を振り払う。

「リコ」

 うつろに横を向いていたキトエの瞳が、リコを仰いできた。顔から首にもただれと水疱が及んでいて、心臓が跳ねる。

「動かないで」

「リコ……怪我は」

 息がつまった。

「ばか! わたしの心配なんてする必要ないでしょう!」

 吸いこんで、吐き出した息が震えた。

「ごめん、なさい。ごめんなさい」

 魔力が尽きて、キトエの背にあてていた両手から赤い紋様が消えていく。腕も、全身に及んでいた紋様すべて。

 キトエの背や脚や腕のただれと刺し傷は薄まっていた。けれど傷口の血も水疱の痕も残っていて、完治させられなかった。

 自分で追いこんでおいて、愚かなのはリコだ。分かっている。一番大切なときに魔力が尽きる自分は、さっさと城の頂上から飛び降りておくべきだったのだろう。

 キトエが体の横に手をついて、上体を起こす。顔を見られなかった。

「リコ、怪我は」

「してるわけ、ない」

「よかった」

 あまりにも柔らかい声で、顔を上げてしまった先には座りこんだキトエが、仕方がなさそうに微笑んでいた。頬に残る赤と水疱の痕に、リコは自分をひっぱたきたくなる。

「傷、全部治せてないのに」

「もう痛くないよ。騎士団のときの嫌がらせのほうがよっぽど痛かった」

「ばか」

 ばかなのはリコだ。けれどキトエも大概だ。

「ばかげてるのかもしれないけど、俺の命はリコのものだ。俺の命はリコを守るためにあるし、リコに殺されるなら本望だ」

 息が止まりそうになった。飾りのない瞳に、あまりにもまっすぐな重みに、耐えきれず顔を伏せた。首を横に振る。

「違うよ。わたしに命をかける価値なんてない」

 薄布がかぶさるスカートの太ももを、きつく握りしめる。

「ごめんなさい。ばかなことをしたのは分かってる。こんなこと言う資格がないのも分かってる。でも、キトエと勝負して、勝ったらどうしても命令を聞いてほしかったの。わたしを主と思うなら、命令を聞いて」

 愚かだと、命令するべきではないと、分かっている。それでも。

「わたしの純潔を、奪って」

 何も、聞こえない。

 三つ取られると、向こうへ行ってしまう。

 魔力、心臓、そして、純潔。生贄として必要な三つのもの。

「わたしを生贄から解放して」

 キトエがどんな顔をしているのか、怖くて顔を上げられなかった。
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