ネオンと再生

ふら

文字の大きさ
8 / 31

8. 静かな治療

しおりを挟む
山下のタクシー運転手としてのキャリアは、教習所から始まった。

二種免許取得のための座学と実技。次に、銅星交通の社内研修だ。その内容は、元営業部長として何百人もの部下を育ててきた山下にとって、屈辱と退屈の連続だった。

教官は、三十代前半の、いかにも効率重視といった風貌の男だった。名前は佐藤。山下が東亜ハウジングで部長職にあった頃なら、話しかけることもなかったであろう若者だ。

「いいですか、山下さん。タクシーは接客業です。過去のキャリアは一切関係ありません。まず、お客様への声掛けの練習から。はい、『ご乗車ありがとうございます。どちらまで行かれますか?』」

佐藤は、まるで小学生に教えるように、マニュアル通りの棒読みを山下に要求した。山下は、かつて数億単位の契約を成立させてきた自分の口から、このような定型文を、若い男に指導されながら発することに、強い抵抗を覚えた。

「佐藤教官。お客様の心理を読み、臨機応変に対応する方が……」

山下が口を挟むと、佐藤はぴしゃりと遮った。「マニュアル通りです、山下さん。臨機応変は、基本ができてからです。あなたの自己流は、この世界では通用しません。まず、過去の成功体験をすべて捨ててください」

佐藤の言葉は、山下の最も触れられたくない部分を、正確に突いていた。山下のプライドは、まだ完全に死んでいなかったのだ。

地理の研修も苦痛だった。山下は丸の内の人間であり、それ以外の東京の複雑な裏道や、タクシーにとって重要な「付け待ち」のポイントなど、全く知らなかった。

「山下さん、これでは話になりません。この時間帯、新宿で『空車』を出すのは素人です。この裏道を抜けて、六本木方面へ流すのがセオリーです」

佐藤が示すのは、山下がこれまで一度も気に留めたことのなかった、都市の「裏側のルール」だった。この街には、エリートが知る表側の論理とは別に、タクシードライバーだけが知る、冷徹な生存競争の論理が存在していた。

しかし、その地道な研修の中で、山下はかすかな安堵を感じ始めた。それは、「過去の自分」から解放されるという感覚だった。

会社での仕事は、人間関係や政治的な駆け引き、そして数字の重圧から逃れられなかった。しかし、このタクシーの研修は、ただひたすらに、技術と道だけを教える。過去の不祥事も、妻の去ったことも、娘の無関心も、このマニュアルと地図の前では、何の影響も及ぼさない。

「はい。次は、バックでの方向転換です。お客様は見ていませんが、安全のため、声を出しなさい。『後方よし、左よし、行きます』」

山下は、若い教官の指示に従い、定型的な言葉を口に出した。自分の意思とは関係なく、ただ目の前の作業に集中する。その単調さが、彼の疲弊した心には、むしろ静かな治療のように感じられた。

研修車を降りた山下は、疲れ切っていた。しかし、その疲労は、過去の失敗による精神的な疲労ではなく、純粋な肉体的な疲労だった。

山下は、東京の夕焼け空を見上げた。彼はまだ、タクシーに乗客を乗せていない。しかし、この街が持つ「もう一つの顔」を知り始めている。自分の再出発は、この夜の街の最も低い場所から始まるのだと、静かに受け入れた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

【完結】私が愛されるのを見ていなさい

芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定) 公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。 絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。 ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。 完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。  立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...