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8. 静かな治療
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山下のタクシー運転手としてのキャリアは、教習所から始まった。
二種免許取得のための座学と実技。次に、銅星交通の社内研修だ。その内容は、元営業部長として何百人もの部下を育ててきた山下にとって、屈辱と退屈の連続だった。
教官は、三十代前半の、いかにも効率重視といった風貌の男だった。名前は佐藤。山下が東亜ハウジングで部長職にあった頃なら、話しかけることもなかったであろう若者だ。
「いいですか、山下さん。タクシーは接客業です。過去のキャリアは一切関係ありません。まず、お客様への声掛けの練習から。はい、『ご乗車ありがとうございます。どちらまで行かれますか?』」
佐藤は、まるで小学生に教えるように、マニュアル通りの棒読みを山下に要求した。山下は、かつて数億単位の契約を成立させてきた自分の口から、このような定型文を、若い男に指導されながら発することに、強い抵抗を覚えた。
「佐藤教官。お客様の心理を読み、臨機応変に対応する方が……」
山下が口を挟むと、佐藤はぴしゃりと遮った。「マニュアル通りです、山下さん。臨機応変は、基本ができてからです。あなたの自己流は、この世界では通用しません。まず、過去の成功体験をすべて捨ててください」
佐藤の言葉は、山下の最も触れられたくない部分を、正確に突いていた。山下のプライドは、まだ完全に死んでいなかったのだ。
地理の研修も苦痛だった。山下は丸の内の人間であり、それ以外の東京の複雑な裏道や、タクシーにとって重要な「付け待ち」のポイントなど、全く知らなかった。
「山下さん、これでは話になりません。この時間帯、新宿で『空車』を出すのは素人です。この裏道を抜けて、六本木方面へ流すのがセオリーです」
佐藤が示すのは、山下がこれまで一度も気に留めたことのなかった、都市の「裏側のルール」だった。この街には、エリートが知る表側の論理とは別に、タクシードライバーだけが知る、冷徹な生存競争の論理が存在していた。
しかし、その地道な研修の中で、山下はかすかな安堵を感じ始めた。それは、「過去の自分」から解放されるという感覚だった。
会社での仕事は、人間関係や政治的な駆け引き、そして数字の重圧から逃れられなかった。しかし、このタクシーの研修は、ただひたすらに、技術と道だけを教える。過去の不祥事も、妻の去ったことも、娘の無関心も、このマニュアルと地図の前では、何の影響も及ぼさない。
「はい。次は、バックでの方向転換です。お客様は見ていませんが、安全のため、声を出しなさい。『後方よし、左よし、行きます』」
山下は、若い教官の指示に従い、定型的な言葉を口に出した。自分の意思とは関係なく、ただ目の前の作業に集中する。その単調さが、彼の疲弊した心には、むしろ静かな治療のように感じられた。
研修車を降りた山下は、疲れ切っていた。しかし、その疲労は、過去の失敗による精神的な疲労ではなく、純粋な肉体的な疲労だった。
山下は、東京の夕焼け空を見上げた。彼はまだ、タクシーに乗客を乗せていない。しかし、この街が持つ「もう一つの顔」を知り始めている。自分の再出発は、この夜の街の最も低い場所から始まるのだと、静かに受け入れた。
二種免許取得のための座学と実技。次に、銅星交通の社内研修だ。その内容は、元営業部長として何百人もの部下を育ててきた山下にとって、屈辱と退屈の連続だった。
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「いいですか、山下さん。タクシーは接客業です。過去のキャリアは一切関係ありません。まず、お客様への声掛けの練習から。はい、『ご乗車ありがとうございます。どちらまで行かれますか?』」
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「山下さん、これでは話になりません。この時間帯、新宿で『空車』を出すのは素人です。この裏道を抜けて、六本木方面へ流すのがセオリーです」
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しかし、その地道な研修の中で、山下はかすかな安堵を感じ始めた。それは、「過去の自分」から解放されるという感覚だった。
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「はい。次は、バックでの方向転換です。お客様は見ていませんが、安全のため、声を出しなさい。『後方よし、左よし、行きます』」
山下は、若い教官の指示に従い、定型的な言葉を口に出した。自分の意思とは関係なく、ただ目の前の作業に集中する。その単調さが、彼の疲弊した心には、むしろ静かな治療のように感じられた。
研修車を降りた山下は、疲れ切っていた。しかし、その疲労は、過去の失敗による精神的な疲労ではなく、純粋な肉体的な疲労だった。
山下は、東京の夕焼け空を見上げた。彼はまだ、タクシーに乗客を乗せていない。しかし、この街が持つ「もう一つの顔」を知り始めている。自分の再出発は、この夜の街の最も低い場所から始まるのだと、静かに受け入れた。
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