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9. 逃げ場所
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二種免許を取得し、山下はついに銅星交通の「新人ドライバー」として路上に出た。
彼が割り当てられたのは、慣らし運転期間として、昼間の乗務だった。初乗務の日は、快晴だった。真新しい制服に袖を通し、タクシーに乗り込んだ山下は、不思議と緊張と高揚感が混じり合った感覚を覚えた。これは、新しい人生の始まりだ。
しかし、現実は、研修で学んだ接客マニュアルとはかけ離れていた。
最初に乗り込んできたのは、四十代のサラリーマンだった。彼はドアが開くや否や、スマートフォンから目を離さず、舌打ち交じりに目的地を告げた。
「急いでるんだ。時間がない。この道、行ってくれ」
山下は慎重に車を発進させたが、すぐに渋滞に巻き込まれた。後部座席から、苛立ちを隠さないため息が聞こえる。
「運転手さん、ちょっと。この時間、ここ混むだろう。裏道知らないのか?」
山下は心の中で反論した。自分はまだ新人だ。すべてを知っているわけがない。しかし、彼はマニュアル通りに冷静な声で答えるしかなかった。「申し訳ございません。最速のルートを選びます」
その後も、乗客は立て続けに乗り込んできた。
皆、時間に追われ、神経質で、小さなミスにもすぐに怒る。短い距離で降りる客は、メーターの上がる速度に苛立ち、長距離の客は渋滞に不満を漏らす。誰も彼もが、山下を「運転手」として、ただの時間の道具としてしか見ていなかった。
ある若い女性は、車内で大声で電話をしながら、山下のタクシーを自分のプライベート空間のように扱った。別のある老婦人は、山下に自分の病状を延々と語り続けたが、山下が相槌を打つと、まるで迷惑そうに黙り込んだ。
山下は、自分が営業部長だった頃、部下や業者に対して見せていた、あの「無関心な傲慢さ」を、今、乗客たちから向けられていることに気付いた。かつての彼にとってタクシーは、ただの便利な移動手段であり、運転手は、そこに感情がない存在だったのだ。
午後の休憩時間。山下は車のシートに深く沈み込み、コンビニで買った冷たいペットボトルを握った。
この仕事は、孤独だった。乗客との会話はあっても、それは表面的なもので、心の交流は一切ない。彼の過去の栄光は、もちろん通用しない。そして、この昼間の殺伐とした空気の中で、誰かの人生に触れる喜びなど、微塵も感じられなかった。
乗務は、かつて彼が逃げたかった人間関係の煩わしさと、効率を求める苛立ちに満ちていた。彼は、このままこの仕事を続けていく自信を失いかけていた。
その日の乗務を終え、山下は会社に戻った。疲労困憊だったが、研修中に感じた「静かな治療」のような感覚は、跡形もなく消え去っていた。
彼は、自分の人生を立て直す場所を求めていた。しかし、昼間の大通りは、彼をただ疲弊させるだけで、何も与えてくれなかった。山下は、あのハローワークで見た「深夜勤務」の文字を思い出していた。
夜の街。光と闇が混ざり合う、予測不能な世界。
「夜なら、もう少し、違うかもしれない」
彼は、新しい逃げ場所を求めるように、そう静かに呟いた。
彼が割り当てられたのは、慣らし運転期間として、昼間の乗務だった。初乗務の日は、快晴だった。真新しい制服に袖を通し、タクシーに乗り込んだ山下は、不思議と緊張と高揚感が混じり合った感覚を覚えた。これは、新しい人生の始まりだ。
しかし、現実は、研修で学んだ接客マニュアルとはかけ離れていた。
最初に乗り込んできたのは、四十代のサラリーマンだった。彼はドアが開くや否や、スマートフォンから目を離さず、舌打ち交じりに目的地を告げた。
「急いでるんだ。時間がない。この道、行ってくれ」
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「運転手さん、ちょっと。この時間、ここ混むだろう。裏道知らないのか?」
山下は心の中で反論した。自分はまだ新人だ。すべてを知っているわけがない。しかし、彼はマニュアル通りに冷静な声で答えるしかなかった。「申し訳ございません。最速のルートを選びます」
その後も、乗客は立て続けに乗り込んできた。
皆、時間に追われ、神経質で、小さなミスにもすぐに怒る。短い距離で降りる客は、メーターの上がる速度に苛立ち、長距離の客は渋滞に不満を漏らす。誰も彼もが、山下を「運転手」として、ただの時間の道具としてしか見ていなかった。
ある若い女性は、車内で大声で電話をしながら、山下のタクシーを自分のプライベート空間のように扱った。別のある老婦人は、山下に自分の病状を延々と語り続けたが、山下が相槌を打つと、まるで迷惑そうに黙り込んだ。
山下は、自分が営業部長だった頃、部下や業者に対して見せていた、あの「無関心な傲慢さ」を、今、乗客たちから向けられていることに気付いた。かつての彼にとってタクシーは、ただの便利な移動手段であり、運転手は、そこに感情がない存在だったのだ。
午後の休憩時間。山下は車のシートに深く沈み込み、コンビニで買った冷たいペットボトルを握った。
この仕事は、孤独だった。乗客との会話はあっても、それは表面的なもので、心の交流は一切ない。彼の過去の栄光は、もちろん通用しない。そして、この昼間の殺伐とした空気の中で、誰かの人生に触れる喜びなど、微塵も感じられなかった。
乗務は、かつて彼が逃げたかった人間関係の煩わしさと、効率を求める苛立ちに満ちていた。彼は、このままこの仕事を続けていく自信を失いかけていた。
その日の乗務を終え、山下は会社に戻った。疲労困憊だったが、研修中に感じた「静かな治療」のような感覚は、跡形もなく消え去っていた。
彼は、自分の人生を立て直す場所を求めていた。しかし、昼間の大通りは、彼をただ疲弊させるだけで、何も与えてくれなかった。山下は、あのハローワークで見た「深夜勤務」の文字を思い出していた。
夜の街。光と闇が混ざり合う、予測不能な世界。
「夜なら、もう少し、違うかもしれない」
彼は、新しい逃げ場所を求めるように、そう静かに呟いた。
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