ネオンと再生

ふら

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21. 陣痛

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その夜は、いつもと変わらない孤独なルーティンで始まった。午前一時。山下は渋谷の雑居ビル街を流していた。

その時、路肩で、切羽詰まった様子の若い夫婦が手を挙げた。

車を停め、山下が後部座席のドアを開ける。女性は、二十代後半だろうか、顔を歪ませて、夫の腕に強くしがみついていた。彼女の表情は、尋常ではない痛みに耐えていることを示していた。

「運転手さん! 妻が……陣痛が、もう本格的で! 聖和病院まで、お願いします! 早く!」

夫は半狂乱の状態で、病院の住所を叫ぶように告げた。女性は、座席に座り込むや否や、激しい呼吸と共に「痛い……痛い……!」と呻き始めた。

山下の心は、一瞬にして、これまでの無関心の砦を突き破られた。目の前の事態は、酔客のトラブルでも、不倫の密会でもない。これは、新しい命の誕生という、厳粛で切実な、人生の始まりの瞬間だった。

山下は、反射的に身体が反応した。

「分かりました。急ぎます。シートベルトをしっかり締めてください」

彼は、一瞬の迷いもなく、アクセルを踏み込んだ。

山下の運転は、冷静でありながら、これまでにないほどの焦燥感を帯びていた。普段は厳格に守るスピードも、周囲の状況を最大限に注意しながら、許される限り上げた。

「大丈夫だよ、愛。あと少しだからな!」夫が妻の手を握り、必死に励ます声が、山下の背中に届く。

妻の陣痛の間隔は、明らかに短くなっていた。車内には、女性の悲鳴に近い呻き声が響き渡る。

「ううっ……もう、出ちゃうかも……!」

山下は、汗が額を伝うのを感じた。彼には、この命を乗せたタクシーを、安全に、そして一秒でも早く病院に送り届ける責任がある。もし、途中で何かあったら――彼の心臓は、激しく脈打った。

彼は、自分がただの移動装置ではないことを、この時初めて痛感した。彼は今、彼らの人生の、最も重要な「転機」を、この両手で運転しているのだ。

山下は、頭の中で最短ルートをシミュレーションし、信号の多い大通りを避け、深夜の裏道を縫うように走った。この集中力と判断力は、かつて数億の契約を勝ち取るために使っていたものと同じだった。

「もう少しです。あと、交差点を一つ曲がれば病院です!」山下は、後ろの二人に知らせるために、力強い声をかけた。

病院の緊急入口が見えた。山下は、クラクションを一瞬鳴らし、病院の敷地内に車を滑り込ませた。

「着きました!」

夫は、料金を払うのも忘れ、慌てて妻を抱きかかえ、病院の中へ駆け込んでいった。

山下は、息を切らして、シートにもたれかかった。車外に出て、背中を大きく丸めて深呼吸する。

彼の身体は疲れていたが、心は高揚していた。それは、孤独なルーティンの中で決して得られなかった、誰かの人生に貢献できたという、純粋で温かい満足感だった。

彼は、後部座席に残された、微かな安堵と汗の匂いを嗅いだ。

「新しい人生の始まり……」

彼は、静かに呟いた。その熱気が、山下の冷え切った心を、わずかに温めた。彼は、初めて、このタクシーの仕事に意味を見出した気がした。
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