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女王の料理人へ
しおりを挟む「――女王の命を果たした兵の帰還であるぞ!」
朔を連れた一行が高らかに宣言しながら、王宮に舞い戻る。
そこは荘厳な場所だった。
高くそびえる物見やぐら、幾重にも巡らされた巨大な環濠、そして、その中央に鎮座する、ひときわ大きく、威圧的な宮殿。
朔は囚人として、その巨大な口の中へと吸い込まれていった。
香が焚きしめられた、貝がらの灯明で照らされる薄暗い回廊を幾度も曲がり、先を行く衛兵たちが巨大な木の扉を押し開けると、眩いほどの光が朔の目を射た。
そこは、広大な広間だった。
磨き上げられた木の床、天井を支える巨大な柱には朱色の装飾が施され、壁には異国の獣を描いたと思われる豪奢な織物が掛けられている。
数十人の屈強な衛兵と、色とりどりの衣を纏った役人たちが、広間の左右に壁のように整列し、冷たい視線で朔を見つめていた。
その広間の最も奥。
一段高くなった場所に、玉座があった。
そこに一人の女が座っている。
他の誰とも違う、純白の衣。長く黒い髪。顔立ちは、幾重にも垂らされた薄絹の向こうで判然としないが、その艶のある女のシルエットから放たれる存在感は、この巨大な広間そのものを支配していた。
女王・卑弥呼。
この国の、神に最も近いとされる存在。
その絶対的な権威が、肌を刺すような圧力となって、朔にのしかかる。
衛兵に連れられ、玉座の前までやってきた朔は、その場で膝をつくよう指示される。
「許可があるまでお顔を上げぬよう」
衛兵が、後ろから朔に指示をする。
まもなくして、薄絹が一枚、また一枚とカーテンのように開けられていく。
すべて取り払われ、その姿が明らかになる。
「………」
長い、長い沈黙。
試すような、あるいは珍しい虫でも観察するかのような視線が注がれているのがわかる。やがて、鈴を転がすような、しかし有無を言わせぬ威厳を宿した声が、広間に響いた。
「…そなたが、サクか」
「……そうだ」
「顔を上げよ」
命じられるままに顔を上げると、あっと声が出てしまうほどに美しい女が、前に座っていた。
艶やかな黒髪は頭頂部で結い上げられ、ヒスイの勾玉がついた髪飾りによって固定されている。
それは、王冠の代わりとなる「髪の冠」。
肌は驚くほど白く、肌理が細かい。
目鼻立ちは美術家が描いたかのように整っており、澄んだ黒い瞳は静かな湖面のようで、深い知性とどこかしら孤独さのようなものを湛えている。
純白の麻の衣を纏っているが、肩、腕、太もも、足先と、肌はその多くが露出され、大人の女性の艶がいっさいの遠慮なく放たれている。
「随分と、手こずらせてくれた」
卑弥呼はその唇に楽しげな笑みを浮かべていた。
それは、探し求めていた玩具をようやく手に入れた子供のような、無邪気で、それゆえに残酷な微笑みだった。
「だが、良い。見つかったのだからな」
彼女は満足げに頷くと、驚くべき言葉を続けた。
「サクよ。そなたを今日この時より、我が邪馬台国の貴人として取り立てる。身分は『大人』。そして、王宮に仕える十五人の料理人衆に加え、私付きの料理番を命じる。望むままの食材、望むままの道具を与えよう。そなたのその腕、これからは私の、そしてこの国のためにのみ振るうが良い。……光栄であろう?」
広間が、どよめいた。
名もなきよそ者を、いきなり支配者階級の貴人に取り立て、あまつさえ女王直属の料理人に任命する。前代未聞の恩賞だった。
誰もが、この幸運な男が、ひれ伏して感謝の言葉を述べると信じて疑わなかった。
だが、朔の口から出た言葉は、その場の全ての人間を凍りつかせた。
「断る」
迷いの一切ない声だった。
縛られ、膝をつかされた囚人のものとは思えぬ、明確な拒絶の意思。
卑弥呼の微笑みが、ぴたりと止まった。
構わず朔は続けた。
その目は、まっすぐに玉座の女王を見据えて。
「貴人だの、宮廷の料理人だの、俺には興味ない。俺の望みは、たった一つだ。カイナの村へ帰してほしい。俺は今の身分でなんら不自由していない。そして、家族同然の人たちがあそこにいる。ただ、静かに彼らと共に暮らしたい。それだけだ」
再び、広間が大きくどよめいた。
女王陛下からの破格の恩賞を、無位無官の男が無下に断る。
それは、反逆に等しい行為だった。
「――無礼者め!」
近くにいた衛兵が、思わず剣の柄に手をかける。
「余計な真似をするな!」
だが、それを制したのは、卑弥呼自身だった。
激昂された兵はぎょっとして、慌てて下がり、畏まった。
彼女の顔から、笑みは完全に消えていた。
代わりに浮かんでいるのは、獲物に逃げられた子供の怒りではなく、複雑なパズルを前にした賢者のような、冷徹な好奇心だった。
(……面白い。この男、私の知る理屈で動いておらぬ)
富も、名誉も、地位も、この男を縛る鎖にはならない。ならば、と卑弥呼は、手を変えることにした。
「そなたは己の腕が、どれほどの価値を持つか分かっておらぬと見える。哀れなことよ」
彼女は、今度は侮蔑の色を声に滲ませた。
「あの地図にも載らぬような貧しい村では、そなたの料理は宝の持ち腐れだ。ここに来れば、東の海の果てで獲れるという巨大なアワビも、北の国の、雪のように白い塩も、天上の神々しか口にできぬと伝わる、光るキノコも、全てがそなたのものとなる。料理人として、心惹かれぬか?」
それは料理人の魂を直接揺さぶる、悪魔の囁きだった。
最高の食材。最高の環境。だが、朔の心は揺らがなかった。
「俺が作りたいのは、希少なもので作る料理ではない」
「ならば、不本意ではあるが、力で従わせるまでよ」
卑弥呼の声が、さらに温度を失った。
「サク。私の一言でそなたの命は露と消える。私のために料理を作るか、それとも朽ち果てるか。選ぶが良い」
広間の空気が、冷たい空気で満たされる。
だが、朔はそれでも屈しなかった。
静かに目を閉じ、そして開くと、穏やかな声で言った。
「恐怖で縛られた手で、人の心を温める料理を作れるはずがない」
「……ほう」
その言葉は、卑弥呼の胸の奥深くに、鋭い楔のように打ち込まれた。
そうだ。私が求めているのは、ただの料理ではない。
あの、門前町で感じた、民の活気と喜びに満ちた、あの温かい味。恐怖に怯える奴隷に、あの味が出せるはずがない。
卑弥呼は初めて、自分が本気で「交渉」をしなければならない相手と向かい合っていることを悟った。
力も、富も、名誉も通用しない。
この男を動かすものは、一体何なのか。
(いや、違う)
――答えは、最初から彼自身が叫んでいるではないか。
カイナ村。彼の仲間。子供たち。
それこそが、この男の唯一にして最大の、弱点なのだと。
卑弥呼は、張り詰めていた空気を、ふっと息を吐くことで霧散させた。
そして、初めて、玉座の上から一人の人間として、朔に語りかけた。
「……分かった。そなたの覚悟、見事だ。力でそなたを屈させるのは、諦めよう」
その穏やかな口調に、朔も、周囲の者たちも、戸惑いを隠せない。
「ならば取引だ、サク」
卑弥呼は、その細い指で玉座の肘掛けをトン、と叩いた。
「そなたは、私のために料理を作れ。邪馬台国の大炊頭《おおいのかみ》として、生涯この宮殿で私の舌を、そして私の魂を楽しませろ」
「……断ると、言ったはずだ」
「まあ、最後まで聞け」
卑弥呼は唇の端に、今度は勝利を確信した者の絶対的な笑みを浮かべた。
「そなたが、その契約を受け入れるならば、私は、女王・卑弥呼の名において、カイナ村に我が直轄の地として、未来永劫の安寧を約束しよう」
「なに」
その言葉に、朔の表情が初めて変化した。
「カイナ村の税は、永久に免除する。加えて、毎年王宮の備蓄倉から、彼らが一年間食べても余りあるほどの米と粟を送ろう。狩りの獲物がなくとも、畑が凶作に見舞われようとも、カイナ村の者たちが、二度と飢えることはない。村の子供たちが、腹を空かせて眠る夜は、決して来ない。この日の巫女が約束する」
朔は、息をすることも忘れ、卑弥呼の言葉を聞いていた。
自分の自由と引き換えに、愛する者たちに絶対的な幸福と安全が与えられる。
自分一人が、この華やかな牢獄に囚われるだけで、あの子供たちは、生涯、食べ物に困ることなく、笑って暮らせる。
(最初から自分に選択肢など、なかったか)
朔は卑弥呼の顔を見た。
その顔には、交渉相手への敬意と、そして勝者の余裕が浮かんでいた。彼女は、力ずくで自分を屈服させるのではなく、自分が最も大切にするものを人質に取ることで、自ら膝を折らせたのだ。
朔は、ゆっくりと、目を閉じた。
脳裏に、厨房に集う子供たちの屈託のない笑い声が、次々と浮かんで消えていった。
迷う理由はない。
彼らの未来を守れるなら。
「……ならば受けよう。その約束を守ってくれるなら、自分もいっさい手抜きしない料理を作ると約束する」
その言葉を聞いた卑弥呼は、心の底から満足したように、嬉しそうに微笑んだ。
衛兵が、朔の縄を解き放つ。
彼はもはや囚人ではなかった。
だが、自由でもなかった。
鎖に繋がれた、女王の料理人。
広大で、豪奢で、そしてひどく冷たいこの広間で、朔の新たな物語が静かに始まろうとしていた。
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