初夜開始早々夫からスライディング土下座されたのはこの私です―侯爵子息夫人は夫の恋の相談役―

望月 或

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10.旦那様の決意

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 旦那様が四、五日ぶりにサオシューア侯爵家に帰ってきた。
 夜、旦那様の部屋に行くと、彼は執務椅子からすぐに立ち上がって、私を迎え入れてくれた。

 旦那様、少し痩せた……? ちゃんとご飯は食べていたのかしら? それに何だか元気が無いような……。

 旦那様は私の手をそっと握り、ソファまで歩くとそこに私を座らせ、彼は一人分離れた場所に座った。


 あら? もしかして心の声が聞こえちゃったのかしら?
 それにしても、私が部屋に入ってきてから全然口を開かないわね? とうとうお髭に呑まれて口が消えちゃったのかしら?


 私が首を傾げて旦那様を見ていると、彼は下を向いていた顔を上げ、身体ごと私に向き直った。


「……リファレラ」


 あ、喋ったわ。口あったわ。


「はい?」
「その……。触れて……いいだろうか……」


 さっき手を握ってましたが? それは“触れる”の内に入らなかったのですか?


 そうツッコもうと口を開いたけれど、すぐに閉じる。そんな冗談を言える雰囲気ではないことを察したのだ。
 旦那様は、何故か緊張しているような面持ちで私を見つめている。
 まぁ触れるだけなら、と私はコクリと頷いた。


「ありがとう……」


 旦那様は律儀に礼を言うと、そろそろと自分の手を伸ばし、私の頬にそっと触れてきた。
 旦那様の剣ダコでゴツゴツした指が、私の頬から顎にかけて何度もなぞっている。

 まるで壊れ物を扱うかのように、ゆっくりと、優しく。


 ……くすぐったいんですけど! いつまで続くのこれ!?


「……リファレラ」
「はい?」


 今度は何でしょう?


「……抱きしめても……いいだろうか」


 はいっ!? 何故にっっ!? あの女にやればいいでしょっ!?


 再びツッコもうと口を開き、喉から出掛かった言葉を既のところで呑み込む。
 更に増したピリピリと緊張感漂う空気は、やはりそんなことを言える雰囲気じゃなくて……。


 旦那様、何だか酷く落ち込んでいるような……?
 慰める為にも許可してあげた方がいいかしら……。
 けど、あの女はいいのかしら?

 ……ん? どうして私が浮気している二人を気に掛けなきゃいけないの? 何だかこっちが浮気している気分になるじゃない、もう!


 少し迷った末、旦那様の真剣に固唾を呑む表情に負け、私は再びコクリと頷いた。
 すると、旦那様がホッと安心したように口元に笑みを作った……気がする。
 何せお髭で見えないから……。


「ありがとう……リファレラ」


 旦那様が私のすぐ傍まで寄ると、私の背中にそろそろと両腕を回し、ゆっくりと抱きしめてきた。
 彼の片方の手は、私の頭を優しく撫でている。時々髪を梳いてきて。


 ……旦那様の心臓、すごいバクバク言ってるわ……。
 この帝国中を常時全速力で走ってきた直後のように……。いえ走ったことないけど。そんなことしたら確実に死んじゃうわ。
 

 不意に旦那様が、私の肩にコテリと頭を預けてきた。
 そして、次第に身体が微かに震え始め――私は、旦那様が泣いていることに気が付いた。

 懸命に声を押し殺して。
 私を抱く腕にぐっと力がこもる。


 まるで、私を逃さないとするような――



 ……え、えぇ……? どうしよう? どうしたらいいのこれ?
 声掛けた方がいいの? そのまま泣かせとく?
 きっと何か辛いことがあったのよね?

 それなら――


 私は旦那様の背中におずおずと腕を回すと、その広い背中をポンポン優しく叩いた。
 旦那様の身体が一瞬ビクリと震え、次の瞬間、私の身体は旦那様に強く掻き抱かれていた。


「ごめん……ごめん、リファレラ……っ! ごめん……っ!!」


 謝罪の言葉を何度も何度も繰り返し、旦那様は号泣している。


 ええぇっ!? ホント一体何があったの!?
 この帰ってこない四、五日間の間にどんな出来事がっ!?


 取り敢えず落ち着かせる為に、何度も旦那様の背中を撫でて優しく叩き――


 ようやく落ち着いた旦那様は、気恥ずかしそうに私の身体をそっと離した。
 私がテーブルの上にあったティッシュを差し出すと、旦那様は控え目に鼻を噛む。
 もっと豪快に噛んでいいのに……。私より乙女だわ、旦那様。


「ご……ごめん……」
「一生分聞いた気がしますよ、それ」
「うん……本当に……ごめん……」


 だからもういいって!!


「旦那様、その謝罪は何に対してなのですか?」
「……う……。そ、その……。君を傷付けてしまったこととか、僕の無神経な発言のこととか……」
「えっ、今更?」


 今度はついに口から言葉になって出てしまった。
 いやだって本当に今更だったから……!


「……そう……だよな……。今更……だよな……。本当に……そうだよ……」


 あぁっ!? 旦那様が思いっ切りズーーンと落ち込んでしまったわ!!
 また泣かれてしまったら大変よ! 別の話題を出さなきゃ……!


「で、でも、突然どうしたのです? 何かあったのですか? 旦那様……?」
「……彼女と、別れたんだ……」
「えっ!」


 あの女と別れたっ!?
 もしや金品目当てなのがバレたのかしら?


「彼女は……僕の『初恋の人』じゃなかった。『初恋の人』だと偽って、僕に金品を買わせていた。それに気付いて別れたんだ……」


 あらら、『初恋の人』じゃなかったのね!? そしてついに気付かれましたか!
 私がそれを伝えても信じなかっただろうから、自分で気付けて良かったですね。

 まぁあんな女と付き合っていたら、近い内に旦那様の私財が食い潰されていただろうから、別れて正解だわ。


 あ、あの女が侯爵家に乗り込んできたことは言わなくていいかしら?
 旦那様のお父様とお母様には伝えたのだけれど。
 もう別れて関係がなくなったのなら、大丈夫そうね。


 ――でも、ちょっと待って?
 『初恋の人』が違ったってことよね?
 また一から捜すのかしら?


「旦那様? では再び『初恋の人』を捜すのですか?」
「いや、捜さない」
「え?」
「もう、いいんだ。捜さなくて……もう――」


 旦那様は、何故かジッと私を食い入るように見つめてくる。

 だから! 男性に免疫が無い私はそれやられると照れるんですって!


「あ、えっと……そう言えば、私の親との面会はどうでした?」
「あぁ……。離縁は先延ばしになったよ」
「そうですか……」


 シルヴィの言った通りね……。
 お父様、お母様。私の周りのことまで考えてくれてありがとう――



 ……ん? でもちょっと待って?
 あの女と別れたってことは、離縁をする必要がなくなった……?

 え、どうしよう!! やっぱり『初恋の人』を早急に捜して貰わなきゃ困るわ!!


「旦那様、あの――」
「リファレラは、やっぱり僕と離縁したい……?」
「へ?」


 突然そんな質問をされ、私は一瞬面食らってしまったが、正直に答えることにした。


「えぇ、そうですね。前の彼女は偽物でしたが、捜さないにしても、旦那様は『初恋の人』をこれからも想い続けるのでしょう? 夫婦なのに気持ちが違う方を向いているって、とても切ないことだと思うのです。夫婦になるからには、『政略結婚』でも、やはり愛され愛したいと私は思いますし」
「……違う……。違うんだ、僕は……僕は君を――」
「え?」


 旦那様は言葉を切ると、目を瞑り頭を横に振った。


「……いや……。これを今言っても、君は全く信じないだろう……。――リファレラ、頼む……少し時間をくれないか。君が信じてくれる僕に、僕はなりたいんだ。一度失った信用を取り戻すのは決して容易でないことは十分分かってる。でも、僕は変わりたい。だから、お願いだ。離縁は少し待って、僕を見ててくれないか?」
「旦那様……?」


 旦那様の前髪から覗く瞳の光は、とても真剣味を帯びていて。
 彼は言い終わるとソファを降り、そのまま座り込んだと思ったら、絨毯に額を付け私に向かって土下座の格好をした。


 ――ええぇっ!? またっ!?



「頼む……お願いだ、リファレラ……」


 ……うーん……。
 このままじゃ、「はい」と言うまで頭を上げなそうね……。
 結局は世間の目の所為ですぐには離縁出来ないのだし、旦那様のお願いを聞いてもいいかしらね。


「えぇ、分かりましたわ」
「……っ。ありがとう……! 本当にありがとう!」


 頭を上げて見せた髭もじゃらの顔でも、旦那様が嬉しそうに笑ったのが分かった。


「話を聞いてくれてありがとう。もう夜も遅いし、そろそろ寝ようか。――リファレラ、おいで」


 旦那様は起き上がり、微笑みながら私の手を引いてそっと立ち上がらせると、ベッドに向かう。
 そして、私を抱き上げベッドに静かに降ろすと、旦那様もすぐ隣に横になり、私を抱きしめると毛布を掛けてくれた。


「? !? ……?!?」


 立ち上がってからこれまでの一連の流れに、私の思考が追いつかない。


 ……あれ? 何で私、また旦那様に抱きしめられてるの?
 いや確かに許可はしたけど、さっきの時だけだと思ってたわよ?


 え? ちょっと待って? もしかしてこの状態で寝るの……?


「おやすみ、リファレラ。良い夢を」
「あ、え、お……おやすみなさい……?」


 旦那様が、私の頭を静かに撫でてくれる。時には髪の毛を梳いて。

 ――その手は、まるで大事なものを愛でるように優しく動いて。



 混乱する思考の中、旦那様の胸は相変わらずバクバクと言っていたけれど、腕の温もりとその優しい手付きに眠気が誘われ、すぐに夢の世界へと入っていったのだった――




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