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05 出産 早期教育
しおりを挟む妊娠がわかってから、わたしはまるで別の人になった。
雑誌を読む時間も、化粧をする時間も、みんな「赤ちゃんのため」に変わった。
胎教という言葉をバカみたいと思っていたわたしはいない。「これだわ」と思った。お腹の中にいるうちから教育を始める。なんて理想的なんだろう。
だから毎日、クラシック音楽を流した。モーツァルトとバッハ。
まだ、ぺっちゃんこのお腹に手を当てて、「お元気でちゅか?」と話しかけた。
食事にも気をつけた。野菜を多くして、塩分を控えて、カフェインは禁止。
母が「そんなに神経質にならなくても」と笑ったけれど、わたしは真剣だった。
この子には、最高のスタートを与えたい。
それが、母親としての最初の仕事だと思っていた。
出産予定日前日に入院して、翌日、予定通りに陣痛が来た。
わたしの予定より陣痛は痛かった。夫も痛そうな顔をしていた。
「もうすぐだよ」
その声が遠くで響いた。次に聞いたのは泣き声。それから「おめでとう」の声。
男の子です、と看護師が言った。
小さな体を胸の上に乗せられて、温かさと重みを感じた。
泣き止んだ顔を見て、涙が勝手に出てきた。
夫は写真を撮りながら「お疲れさま」と言っていた。
きっと、人並みな出産だったんだと思う。だけど、わたしにとっては、人生でいちばん大きな戦いだった。
退院してからは、忙しくなった。夫はシッターを雇えと言ったが、わたしは自分でやりたかった。
昼も夜も区別がなく、泣けば抱っこ、泣けばミルク。泣けばオムツ。泣けば抱っこ。また抱っこ。
それでも、眠っている小さな顔を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなった。
この子のためなら、何でもできる。そう思った。
子供中心の生活になって、自分にかまわなくなった。
クラシックが英語のCDに変わった。
絵本よりも本を読んで聞かせた。
まだ意味なんてわからないだろうけれど、声のリズムがきっと脳を育てる。
「早期教育」が最高の価値観になった。
二歳になるのを待って、春野市の早期教育教室に通い始めた。
週に三回。最初のうちは泣いたけれど、先生が優しく手を引いてくれて、すぐに馴染んだ。
廊下で待っている間、同じように子どもを預けたお母さんたちと顔見知りになった。
誰かが「お茶行きません?」と言った。
気づけば、それが日課になっていた。
近くのカフェでお茶を飲みながら、子どもの話、夫の話、家の話をした。
「どこのスイミングが評判いい?」「ピアノの先生、変えた方がいいかな?」
誰かが新しい教室の話を出すと、すぐにスマホで検索して、次の週には体験に申し込んでいた。
スイミング、英語、ピアノ、ダンス。
気づけば、カレンダーがびっしりと予定で埋まっていた。
「小さいうちが勝負だから」みながその価値観で動いていた。
この子には、わたしが届かなかった世界を見せたい。
わたしが昔、憧れた都会の子として育てたかった。
夕方になると、車で実家に寄って夕食を食べた。
母は孫が来ると目を細めて、「今日は何習ってきたの?」と聞く。
息子はまだ上手く話せないのに、一生懸命ジェスチャーで答える。
母はそのたびに拍手して、「天才だねえ」と笑う。
その笑顔を見ると、わたしの中の何かが、ようやく報われる気がした。
わたしもこうして育てて欲しかった。
夜、帰宅してから子どもを寝かしつける。
疲れからわたしも子供と一緒に寝ていた。夫の顔を一週間見ないなんてざらだった。
これが異様だと思わなかった。
小さな背中を撫でながら、ふと思う。
これが、わたしの人生なのだと。
昔、東京の叔母ちゃんに憧れていた。
都会で暮らし、ブランドのカバンを持ち、ホテルで食事をしていた頃。
あの頃のわたしは、世界の真ん中にいると思っていた。
けれど、今、目の前に眠る小さな命こそが、わたしの世界の中心になっている。
鏡を見る、昔より肌はくすみ、髪もボサボサだ。でも、それを悲しいとは思わない。
息子の笑顔を見ていると、過去のわたしが遠く霞んでいく。
それでも時折、ふとした瞬間に美和子ちゃんの顔が浮かぶ。
春野市の産婦人科で見かけた彼女。同じ時期にお腹が大きかった。
今頃、あの子も二歳くらいだろうか。
きっと彼女も、どこかで同じように子どもを抱いている。
多分、油に塗れて子供を背負って働いているだろう。
わたしの子がどんな道を歩いていくのか、まだわからない。
だけど、わたしはあらゆる可能性をこの子に用意している。
明日はスイミング。英語のCDを聴きながら車を走らせる。
美和子ちゃんの子には、手の届かない世界がこの子を待っている。
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