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08 子離れ
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母の話を聞いた夜、しばらく眠れなかった。
あの母が「弁護士に相談した」と言った時、胸の奥がざわめいた。
母は田舎の主婦だと思っていた。ひたすら台所で料理をする人。畑の匂いのする、地味で頑固な人。
けれどその人が、法の仕組みを学び、財産を守るために戦っていたなんて。
しかも、わたしのために。
「教育が大事だとわかったのよ」と笑った母の声が頭から離れなかった。
母が勉強して、自分の手で未来を切り開いたように、わたしも何かをやり直さなければならないと思った。
翌週、わたしは専門学校の説明を聞きに行った。
医療事務の資格を取るつもりだった。運よく、半年に一度の新学期だった。
夫の病院で働くためだ。
病院には古くからいる事務員さんは叔母ちゃんの紹介の人で長く働いてくれているが、
「奥様は座っててくださいね」と、わたしに書類を触らせようとしなかった。
楽で良かったけど、それではダメだ。
母が弁護士と話せるように、学んだように、わたしも数字と仕組みを知りたい。
誰にも馬鹿にされないように。
授業は厳しかった。
用語は英語ばかり、保険点数や請求システムも複雑で、最初の一ヶ月は泣きそうになった。
でも、ノートを取りながら思った。
母もこうして机に向かっていたんだ、と。
年老いた手でページをめくり、蛍光ペンを引いていた姿を想像すると、わたしも頑張れた。
帰ると、息子がリビングで寝転んでいた。
高校受験を控えているのに、スマホをいじって笑っている。
「ちょっと、勉強は?」
わたしがつい、声をかけると、息子はのんびりした声で答えた。
「もう習慣ついてるから大丈夫」
その言い方が妙に大人びていた。
「ママ、最近、頑張ってるね。なんか楽しそう」
「そりゃね、ママも勉強してるのよ」
「え、ママが? 試験受けるの?」
「うん、医療事務。うちの家業は病院だからね」
「すげぇな。見直した」
息子は笑って、立ち上がり、冷蔵庫からジュースを出した。
「なんかさ、ホッとする。ママが笑ってると」
その言葉に、胸がチクリとした。
笑ってる? 自分ではそんなつもりなかった。
けれど、母のように何かを掴もうとしている今の自分が、息子には輝いて見えているのかもしれない。
「こんなこと言ったらなんだけど」と息子が続けた。
「ママ、俺は人並みよりちょっと上だよ。ちょっと頑張れば医者になれるかな?なりたいではないけど、親父が医者だからな。家業だし」
「そう?」
「うん。その程度」
「ママが俺にかまわなくなってホッとしてる。ママも自分の道を行く時期だよ。もちろん感謝してるよ。いい環境に。ありがとうございます。おかあさま」
息子はわざとらしくおどけて笑った。
ちょっと大根の息子が可愛くてわたしは笑った。
それから、息子は姿勢を正した。
「ママ、僕は大丈夫。僕は勉強の習慣はついてるし、スイミングもダンスもやってたから体力ある。ピアノも弾ける。手が器用なのは親父似だと思う。ちゃんとやっていけるし、それなりの大学に行って、医者になろうと思ってる。教育資金はたくさんあるだろ。ママも・・・お袋さんも、自分の道を行って」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
息子がわたしを見下ろしていた。
その目が、夫とそっくりだった。
わたしは子離れ、息子は親離れをしたのだ。
わたしは笑った。涙が出そうになって、急いでキッチンに行き、蛇口をひねった。
冷たい水の音が、泣き声を隠してくれた。
勉強を始めて半年。医療事務の資格を取った。
夫は驚いて「おめでとう・・・」と言った。
母は電話で泣いて喜んだ。
「すごいじゃない」と。
母の声が揺れていた。
うちの病院ではなく、春野市の大きな病院でパートで働いた。
武者修行のつもりだ。
うちから春野市まで電車で通った。昔、通学で歩いていたのとは別の道を通って通った。
ほんの腰掛けですぐにうちの病院で働くつもりだったけど、職場に馴染んで仕事時間を長くした。
ある日、帰宅すると、息子が夕食を作っていた。
「え? どうしたの」
「お袋さん。疲れてるでしょ。たまには俺が」
テーブルの上には、少し焦げたオムライスと野菜たっぷりのスープ。
思ったより美味しくて、涙がこぼれそうになった。
わたしは母に料理してあげたことはなかった。して貰うばっかりだ。
リビングから息子の笑い声が聞こえる。
友達とオンラインで話しているらしい。
その声を聞きながら、わたしは心の中でつぶやいた。
この子はもう、わたしの手の届かないところへ行く。
でも、もう心配しない。わたしはこの子のためにここを守る。
その夜、わたしは久しぶりに心から眠れた。
夢の中で、母と息子が並んで笑っていた。
あの母が「弁護士に相談した」と言った時、胸の奥がざわめいた。
母は田舎の主婦だと思っていた。ひたすら台所で料理をする人。畑の匂いのする、地味で頑固な人。
けれどその人が、法の仕組みを学び、財産を守るために戦っていたなんて。
しかも、わたしのために。
「教育が大事だとわかったのよ」と笑った母の声が頭から離れなかった。
母が勉強して、自分の手で未来を切り開いたように、わたしも何かをやり直さなければならないと思った。
翌週、わたしは専門学校の説明を聞きに行った。
医療事務の資格を取るつもりだった。運よく、半年に一度の新学期だった。
夫の病院で働くためだ。
病院には古くからいる事務員さんは叔母ちゃんの紹介の人で長く働いてくれているが、
「奥様は座っててくださいね」と、わたしに書類を触らせようとしなかった。
楽で良かったけど、それではダメだ。
母が弁護士と話せるように、学んだように、わたしも数字と仕組みを知りたい。
誰にも馬鹿にされないように。
授業は厳しかった。
用語は英語ばかり、保険点数や請求システムも複雑で、最初の一ヶ月は泣きそうになった。
でも、ノートを取りながら思った。
母もこうして机に向かっていたんだ、と。
年老いた手でページをめくり、蛍光ペンを引いていた姿を想像すると、わたしも頑張れた。
帰ると、息子がリビングで寝転んでいた。
高校受験を控えているのに、スマホをいじって笑っている。
「ちょっと、勉強は?」
わたしがつい、声をかけると、息子はのんびりした声で答えた。
「もう習慣ついてるから大丈夫」
その言い方が妙に大人びていた。
「ママ、最近、頑張ってるね。なんか楽しそう」
「そりゃね、ママも勉強してるのよ」
「え、ママが? 試験受けるの?」
「うん、医療事務。うちの家業は病院だからね」
「すげぇな。見直した」
息子は笑って、立ち上がり、冷蔵庫からジュースを出した。
「なんかさ、ホッとする。ママが笑ってると」
その言葉に、胸がチクリとした。
笑ってる? 自分ではそんなつもりなかった。
けれど、母のように何かを掴もうとしている今の自分が、息子には輝いて見えているのかもしれない。
「こんなこと言ったらなんだけど」と息子が続けた。
「ママ、俺は人並みよりちょっと上だよ。ちょっと頑張れば医者になれるかな?なりたいではないけど、親父が医者だからな。家業だし」
「そう?」
「うん。その程度」
「ママが俺にかまわなくなってホッとしてる。ママも自分の道を行く時期だよ。もちろん感謝してるよ。いい環境に。ありがとうございます。おかあさま」
息子はわざとらしくおどけて笑った。
ちょっと大根の息子が可愛くてわたしは笑った。
それから、息子は姿勢を正した。
「ママ、僕は大丈夫。僕は勉強の習慣はついてるし、スイミングもダンスもやってたから体力ある。ピアノも弾ける。手が器用なのは親父似だと思う。ちゃんとやっていけるし、それなりの大学に行って、医者になろうと思ってる。教育資金はたくさんあるだろ。ママも・・・お袋さんも、自分の道を行って」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
息子がわたしを見下ろしていた。
その目が、夫とそっくりだった。
わたしは子離れ、息子は親離れをしたのだ。
わたしは笑った。涙が出そうになって、急いでキッチンに行き、蛇口をひねった。
冷たい水の音が、泣き声を隠してくれた。
勉強を始めて半年。医療事務の資格を取った。
夫は驚いて「おめでとう・・・」と言った。
母は電話で泣いて喜んだ。
「すごいじゃない」と。
母の声が揺れていた。
うちの病院ではなく、春野市の大きな病院でパートで働いた。
武者修行のつもりだ。
うちから春野市まで電車で通った。昔、通学で歩いていたのとは別の道を通って通った。
ほんの腰掛けですぐにうちの病院で働くつもりだったけど、職場に馴染んで仕事時間を長くした。
ある日、帰宅すると、息子が夕食を作っていた。
「え? どうしたの」
「お袋さん。疲れてるでしょ。たまには俺が」
テーブルの上には、少し焦げたオムライスと野菜たっぷりのスープ。
思ったより美味しくて、涙がこぼれそうになった。
わたしは母に料理してあげたことはなかった。して貰うばっかりだ。
リビングから息子の笑い声が聞こえる。
友達とオンラインで話しているらしい。
その声を聞きながら、わたしは心の中でつぶやいた。
この子はもう、わたしの手の届かないところへ行く。
でも、もう心配しない。わたしはこの子のためにここを守る。
その夜、わたしは久しぶりに心から眠れた。
夢の中で、母と息子が並んで笑っていた。
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