見栄と友情

朝山みどり

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09 夫の浮気 1

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 それは偶然だった。
 春野市立病院の事務員が夫の海外転勤に帯同することになって辞めて、人手が足りなくなったらしい。
 それで、
「しばらくの間、手伝ってもらえないか」と電話がわたし個人に来た。
 わたしの母の知り合いから、直接電話があったのだ。
 母の言葉を借りるなら「世の中は回る」らしい。
 その回転の輪の中に、わたしも巻き込まれたのだと思う。

 勤めて一週間ほど経ったある日、知ってる名前の書類を処理した。
 妊娠検査と出産の予約が入っていた。うちの病院の看護師で、独身だった。

 わたしの妊娠がわかった時のとってつけたような笑顔を思い出した。

 こんな時の感は当たっているはずだ。


 その夜、母に電話をした。
「どうしたの、あんた声が硬いよ」と母が言った。
 わたしは震える声で言った。
「お母さん、光一さん、たぶん浮気してる」
 沈黙があった。しばらくして、母は静かに言った。
「そう。あの人も、うちの父親も似たようなもんだね」
 そして母は続けた。
「弁護士に会いなさい。あんたの気持ちじゃなくて、現実を整理してもらうの」

 母が紹介してくれた弁護士は、女性だった。
 黒いスーツに小さな真珠のピアス。
 話し方が柔らかく、けれど冷静だった。
 わたしは泣くつもりで行ったのに、泣けなかった。
 机の上のボールペンを指先で転がしながら、
「開業資金はどこから出ているんですか?」
 と尋ねられて、ハッとした。
「わたしの実家です。母の土地をわたしの名義で借りています。建物も設備も借りています」
「そうですか。それなら、権利関係を整理しておきましょう。いざという時に備えて」

 いざという時。その言葉が胸に残った。
 弁護士は淡々とメモを取り、夫と看護師の関係を確認するための調査を勧めた。
 探偵という言葉を初めて現実として受け止めた瞬間だった。
 わたしはうなずいた。母の気持ちが本当にわかった気がする。わたしは母の娘だ。

 一週間後、結果は届いた。封筒の中にあった写真。
 二人のアパート。買い物袋を下げ、笑っている顔。見覚えのあるシャツ。
 わたしが去年の誕生日に贈ったものだった。
 それを彼女が着ていた。
 まるで世界の音が消えたようだ。
 写真の中の二人の笑い声だけが残っているようだ。

 それでも、涙は出なかった。代わりに、静かな怒りがじわりと広がった。
 そしてあの、事務員のこともわかった。
 どうしてわたしに仕事を教えなかったのか?


 叔母ちゃんが紹介してくれた人。信頼していた。
 今ではそれが、憎しみの対象に変わっていた。

「叔母ちゃんの顔を潰した」と言ったわたしの言葉を捉えて、
「これは叔母ちゃんには内緒で。失礼だけど、その方も疑いの対象です」
 弁護士は冷静だった。
「感情ではなく、事実で動きましょう」
 と言って、手続きを進めてくれた。
 財産分与、慰謝料請求、そして診療所の名義の再確認。
 開業資金の出所を示す書類を整理しながら、わたしは思った。
 この一枚一枚の紙が、わたしの防壁なのだ。
 愛ではなく、数字と印鑑で作られた砦。

 夜、夫はいつも通り食卓についた。
 息子は弁当を持って自分が選んだ塾に行っている。

「今日、どうだった?」
「まあまあかな」
「そっちは?」
「同じ」
 それだけの会話。わたしたちは夫婦を演じていた。

 だが、演じることに慣れた女は強い。
 母がそうだったように、わたしも変わっていく。
 もはや悲劇の妻ではなく、冷静な経営者として。






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