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10 夫の浮気 2
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翌月、弁護士から電話があった。
「証拠が十分に揃いました。いつでも離婚出来ます」
その声を聞いて、ようやく涙が出た。
母に報告すると、電話の向こうで「そうかい」と一言。
それから少し間を置いて、
「あんたも、勉強したね」と笑った。
「うん、教育は大事。特に自習が大事」とわたしも笑った。
わたしは、もう昔のわたしではない。
夫の影で生きる妻でも、誰かの紹介に頼る娘でもない。
自分の頭で考え、動ける人間になったのだ。
夫はまだ何も知らない。看護師も知らない。
知らせるのは、すべての準備が整ってから。
冷たい書面一枚で、事実だけを突きつける。請求だけを突きつける。
仕事が終わってから弁護士事務所に駆けつけた。
窓の外は夕焼けが沈みかけていた。
机の上の書類が、橙色の光に染まっている。
弁護士はわたしが書類をざっと見るのを待った。それから手元の万年筆を置き、わたしをまっすぐに見た。
「一つ、選択をしなければなりません。」
「選択ですか?」
「はい。出産の前に離婚を成立させるか、出産後に嫡出否認の訴えを起こすか。
どちらの方法で終わらせますか?」
彼女は静かに、二枚の書類を並べた。
一枚は離婚届、もう一枚は訴訟の申立書の雛形だった。
「前者、出産前の離婚は静かな終わりです」
弁護士は柔らかく言った。
「世間にも職場にも波風は立ちません。家庭には立ちますが、あなたは病院の経営者として傷を残さず、名誉も守れる。
その子が生まれても、あなたには一切の法的関係は生じません」
「主人に浮気されて、相手が妊娠して離婚したってことですね」
「そうですね。社会的には離婚した夫婦のその後というだけに見えます。浮気をした人間が、それなりの居場所を保ったまま生きていく。
法律はそこまで罰を与えません。ましてご主人は医師ですのでそれなりの社会的地位はなくしませんね」
「ちょっと悔しいかも。では、もう一方は?」
できるだけ軽い調子で尋ねた。
「嫡出否認です」
彼女の声、一段、低くなった。
「出産後にあえて訴えを起こす。法廷で、あなたの夫と看護師の関係、そしてその子の出生の真実を明らかにする。
記録に残り、戸籍にも残ります。彼女の職場にも、彼の家にも、親族にも、知られます」
「病院には彼女が産んだと記録されますよね。見ればわかるのに法廷ですか?」
「それが法律です。相手が悪用すれば、あなたの相続人にその赤ん坊がなります」
「なんですって?」
「ですから、法廷です」と彼女がさらりと言った。
「記録されるのですね」
「ええ。公に晒すということです。あなたの名も同じ書面に残りますが、裏切られた妻が真実を正したという形になります。
これは法の中の報復です。」
わたしはペン先を見つめた。手元の震えが紙に映る。
「もしわたしが出産前に離婚したら、あの人たちは、済ましてで生きていくんでしょうね」
「はい。たぶん、数年もすれば笑って思い出話にするでしょう」
「でも、訴えを起こしたら?」
「彼らは一生忘れられないでしょう」
弁護士の声は冷たくも、どこか哀しかった。
「先生、それって、復讐としては最高ですね」
「先生。わたし子供の頃から意地悪だったんです」と重ねて言うと、
しばらく沈黙が流れた。
時計の秒針だけが、部屋を刻んでいた。
やがて、弁護士が問いかけた。
「一応、確認します。どちらにしますか?」
わたしは窓の外を見た。
沈みきる太陽が、遠くのビルの影を長く伸ばしている。
その光の中で、ふっと笑った。
「静かに終わらせるなんて、嫌だわ。彼が選んだ女の恥は、彼自身の恥でもある。
ですから、公に終わらせます」
弁護士は短く息を吐き、ペンを取った。
「承知しました。では、訴状を準備しておきます。安産を祈りましょう」
「はい、もちろんです。子に罪はありません」
「証拠が十分に揃いました。いつでも離婚出来ます」
その声を聞いて、ようやく涙が出た。
母に報告すると、電話の向こうで「そうかい」と一言。
それから少し間を置いて、
「あんたも、勉強したね」と笑った。
「うん、教育は大事。特に自習が大事」とわたしも笑った。
わたしは、もう昔のわたしではない。
夫の影で生きる妻でも、誰かの紹介に頼る娘でもない。
自分の頭で考え、動ける人間になったのだ。
夫はまだ何も知らない。看護師も知らない。
知らせるのは、すべての準備が整ってから。
冷たい書面一枚で、事実だけを突きつける。請求だけを突きつける。
仕事が終わってから弁護士事務所に駆けつけた。
窓の外は夕焼けが沈みかけていた。
机の上の書類が、橙色の光に染まっている。
弁護士はわたしが書類をざっと見るのを待った。それから手元の万年筆を置き、わたしをまっすぐに見た。
「一つ、選択をしなければなりません。」
「選択ですか?」
「はい。出産の前に離婚を成立させるか、出産後に嫡出否認の訴えを起こすか。
どちらの方法で終わらせますか?」
彼女は静かに、二枚の書類を並べた。
一枚は離婚届、もう一枚は訴訟の申立書の雛形だった。
「前者、出産前の離婚は静かな終わりです」
弁護士は柔らかく言った。
「世間にも職場にも波風は立ちません。家庭には立ちますが、あなたは病院の経営者として傷を残さず、名誉も守れる。
その子が生まれても、あなたには一切の法的関係は生じません」
「主人に浮気されて、相手が妊娠して離婚したってことですね」
「そうですね。社会的には離婚した夫婦のその後というだけに見えます。浮気をした人間が、それなりの居場所を保ったまま生きていく。
法律はそこまで罰を与えません。ましてご主人は医師ですのでそれなりの社会的地位はなくしませんね」
「ちょっと悔しいかも。では、もう一方は?」
できるだけ軽い調子で尋ねた。
「嫡出否認です」
彼女の声、一段、低くなった。
「出産後にあえて訴えを起こす。法廷で、あなたの夫と看護師の関係、そしてその子の出生の真実を明らかにする。
記録に残り、戸籍にも残ります。彼女の職場にも、彼の家にも、親族にも、知られます」
「病院には彼女が産んだと記録されますよね。見ればわかるのに法廷ですか?」
「それが法律です。相手が悪用すれば、あなたの相続人にその赤ん坊がなります」
「なんですって?」
「ですから、法廷です」と彼女がさらりと言った。
「記録されるのですね」
「ええ。公に晒すということです。あなたの名も同じ書面に残りますが、裏切られた妻が真実を正したという形になります。
これは法の中の報復です。」
わたしはペン先を見つめた。手元の震えが紙に映る。
「もしわたしが出産前に離婚したら、あの人たちは、済ましてで生きていくんでしょうね」
「はい。たぶん、数年もすれば笑って思い出話にするでしょう」
「でも、訴えを起こしたら?」
「彼らは一生忘れられないでしょう」
弁護士の声は冷たくも、どこか哀しかった。
「先生、それって、復讐としては最高ですね」
「先生。わたし子供の頃から意地悪だったんです」と重ねて言うと、
しばらく沈黙が流れた。
時計の秒針だけが、部屋を刻んでいた。
やがて、弁護士が問いかけた。
「一応、確認します。どちらにしますか?」
わたしは窓の外を見た。
沈みきる太陽が、遠くのビルの影を長く伸ばしている。
その光の中で、ふっと笑った。
「静かに終わらせるなんて、嫌だわ。彼が選んだ女の恥は、彼自身の恥でもある。
ですから、公に終わらせます」
弁護士は短く息を吐き、ペンを取った。
「承知しました。では、訴状を準備しておきます。安産を祈りましょう」
「はい、もちろんです。子に罪はありません」
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