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19 婚約解消
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玄関を入った瞬間、息が詰まった。
天井のシャンデリアが光を反射して、壁の金縁を照らしている。重たい絨毯の上を歩くたび、靴底が沈んだ。
あたりには花の香りが満ちていて、わたしの着ている古いワンピースが場違いに思えた。
所長が隣で小声で言った。
「落ち着いて。王家にも喜ばれる刺繍の腕だ、胸を張りなさい」
――そんな慰め、今は響かない。
この部屋に来る理由が何なのか、もう分かっていたから。
正面の長椅子にはカイルがいた。
その隣に、淡い青のドレスを着た令嬢が並んで座っている。
あの事故で助けられたという令嬢。パトリシアさん。
彼女の手が、しっかりとカイルの手を握っていた。
その向かいに、わたしと所長が通された。
向こう側には、威厳のある年配の男性と、見覚えのある夫人。
令嬢の父と母だ。
あの香水の匂い。店に来たときと同じ。
「おかけになって」
夫人の声はやわらかく、けれど刺があった。
出された紅茶の香りは甘すぎて、喉の奥に苦みが広がる。
令嬢の父が口を開いた。
「今日は、お二人に大事な話があって来てもらいました」
低い声が部屋に響いた。
「娘とカイル君は。愛し合っている」
静かな言葉だった。
でも、刃のように冷たかった。
「カイル君の将来は、我が家が保証する。身の振り方は全てこちらで整える。
だから、身を引いていただきたい」
机の上に置かれた皮の袋。中から、お金がこすれる音がした。
小さな袋ひとつ。それなのに、重たくて世界が傾いた気がした。
隣で、所長が低く言った。
「カイル。お前はそれでいいのか?」
カイルは少し俯き、唇を結んでいた。
沈黙が続く。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
令嬢が、パトリシアさんがカイルの手をぎゅっと握った。
そしてカイルは、ゆっくりと顔を上げて言った。
「……婚約を解消します」
声が震えていなかった。
ただ、わたしの方を一度も見なかった。
「衛兵も……やめます」
その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かが崩れた。
音はしなかった。
けれど、確かに壊れた。
わたしはカイルの顔を見た。
目を捉えたかった。
でも、彼は視線を合わせなかった。
その横顔が、遠くの誰かのように見えた。
「デイジーさん」
所長が静かに声をかけた。
「どうする?……君の言葉で答えなさい」
唇が乾いて、うまく動かなかった。
喉の奥が焼けるように痛い。
でも、声は出さなければならない。
わたしは、膝の上で握りしめた手を見つめながら言った。
「……婚約を、解消します」
その瞬間、背中の力が抜けた。
「お金は……要りません」
父親が何か言いかけたけれど、所長が遮った。
「お金は、あっても困らない。受け取っておきなさい」
わたしはゆっくりとうなずいた。
何も考えられなかった。
紅茶の湯気が、ぼやけて見えた。
香水の匂いが重くのしかかる。
豪華な部屋の中で、わたしの心は凍っていた。
やがて、所長が席を立った。
「失礼します」
その声に続いて、わたしも立ち上がった。
頭を下げた時、指輪が目に入った。
わたしは立ったまま、それを外してテーブルに置いた。さっきまで皮の袋が置かれていた所にそれを置いた。
ドアを出た瞬間、外の空気が冷たくて息を呑んだ。
廊下の窓から差し込む光が、まぶしいほど白かった。
所長が歩きながら言った。
「……済まなかった」
「所長は、悪くありません」
「……あいつは、馬鹿だ」
「そうでしょうか?」
それ以上、何も言えなかった。
馬車の中で、金貨の袋がわたしの膝の上に置かれた。
布越しに触れると、金属の冷たさが指先に伝わる。
「これは、君の・・・」
所長さんは続きを言わなかった。だからわたしが言った。
「わたしとカイルにつけられた値段です」
窓の外を見た。
街の屋根が流れていく。
いつもは美しかったその景色が、今日は遠く霞んでいた。
部屋に帰ると、ランプに火を灯した。
光が小さく揺れて、影が壁を染めた。
机の上に袋を置く。
重い。それから引き出しに入れた。
前にボブのお金を入れていた場所。
重さが全然違う。違いはなんだろう?
わたしは手を伸ばして、針と糸を取り出した。
泣きながらでも、針は動く。
布の上に一針、また一針。
縫い目が滲んで、糸が歪む。
でも、それでも手を止めなかった。
「わたしは、歩く」
声に出した。
泣き声が混じっていたけれど、それでよかった。
針を持つ限り、わたしは自分をつなぎとめられる。
一晩、わたしは縫い続けた。
空が明るくなって来た。これからは、窓の外にカイルを見ることはないんだと思った。涙が溢れてきた。
天井のシャンデリアが光を反射して、壁の金縁を照らしている。重たい絨毯の上を歩くたび、靴底が沈んだ。
あたりには花の香りが満ちていて、わたしの着ている古いワンピースが場違いに思えた。
所長が隣で小声で言った。
「落ち着いて。王家にも喜ばれる刺繍の腕だ、胸を張りなさい」
――そんな慰め、今は響かない。
この部屋に来る理由が何なのか、もう分かっていたから。
正面の長椅子にはカイルがいた。
その隣に、淡い青のドレスを着た令嬢が並んで座っている。
あの事故で助けられたという令嬢。パトリシアさん。
彼女の手が、しっかりとカイルの手を握っていた。
その向かいに、わたしと所長が通された。
向こう側には、威厳のある年配の男性と、見覚えのある夫人。
令嬢の父と母だ。
あの香水の匂い。店に来たときと同じ。
「おかけになって」
夫人の声はやわらかく、けれど刺があった。
出された紅茶の香りは甘すぎて、喉の奥に苦みが広がる。
令嬢の父が口を開いた。
「今日は、お二人に大事な話があって来てもらいました」
低い声が部屋に響いた。
「娘とカイル君は。愛し合っている」
静かな言葉だった。
でも、刃のように冷たかった。
「カイル君の将来は、我が家が保証する。身の振り方は全てこちらで整える。
だから、身を引いていただきたい」
机の上に置かれた皮の袋。中から、お金がこすれる音がした。
小さな袋ひとつ。それなのに、重たくて世界が傾いた気がした。
隣で、所長が低く言った。
「カイル。お前はそれでいいのか?」
カイルは少し俯き、唇を結んでいた。
沈黙が続く。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
令嬢が、パトリシアさんがカイルの手をぎゅっと握った。
そしてカイルは、ゆっくりと顔を上げて言った。
「……婚約を解消します」
声が震えていなかった。
ただ、わたしの方を一度も見なかった。
「衛兵も……やめます」
その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かが崩れた。
音はしなかった。
けれど、確かに壊れた。
わたしはカイルの顔を見た。
目を捉えたかった。
でも、彼は視線を合わせなかった。
その横顔が、遠くの誰かのように見えた。
「デイジーさん」
所長が静かに声をかけた。
「どうする?……君の言葉で答えなさい」
唇が乾いて、うまく動かなかった。
喉の奥が焼けるように痛い。
でも、声は出さなければならない。
わたしは、膝の上で握りしめた手を見つめながら言った。
「……婚約を、解消します」
その瞬間、背中の力が抜けた。
「お金は……要りません」
父親が何か言いかけたけれど、所長が遮った。
「お金は、あっても困らない。受け取っておきなさい」
わたしはゆっくりとうなずいた。
何も考えられなかった。
紅茶の湯気が、ぼやけて見えた。
香水の匂いが重くのしかかる。
豪華な部屋の中で、わたしの心は凍っていた。
やがて、所長が席を立った。
「失礼します」
その声に続いて、わたしも立ち上がった。
頭を下げた時、指輪が目に入った。
わたしは立ったまま、それを外してテーブルに置いた。さっきまで皮の袋が置かれていた所にそれを置いた。
ドアを出た瞬間、外の空気が冷たくて息を呑んだ。
廊下の窓から差し込む光が、まぶしいほど白かった。
所長が歩きながら言った。
「……済まなかった」
「所長は、悪くありません」
「……あいつは、馬鹿だ」
「そうでしょうか?」
それ以上、何も言えなかった。
馬車の中で、金貨の袋がわたしの膝の上に置かれた。
布越しに触れると、金属の冷たさが指先に伝わる。
「これは、君の・・・」
所長さんは続きを言わなかった。だからわたしが言った。
「わたしとカイルにつけられた値段です」
窓の外を見た。
街の屋根が流れていく。
いつもは美しかったその景色が、今日は遠く霞んでいた。
部屋に帰ると、ランプに火を灯した。
光が小さく揺れて、影が壁を染めた。
机の上に袋を置く。
重い。それから引き出しに入れた。
前にボブのお金を入れていた場所。
重さが全然違う。違いはなんだろう?
わたしは手を伸ばして、針と糸を取り出した。
泣きながらでも、針は動く。
布の上に一針、また一針。
縫い目が滲んで、糸が歪む。
でも、それでも手を止めなかった。
「わたしは、歩く」
声に出した。
泣き声が混じっていたけれど、それでよかった。
針を持つ限り、わたしは自分をつなぎとめられる。
一晩、わたしは縫い続けた。
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