黙ってすっこんどいたら良かったのに

朝山みどり

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37 清掃員 殿方目線

 朝の挨拶なんて、したこともされたことも稀だ。それが当たり前の生活をしていた。
 ここでも、同じだ。おまけに、俺の出勤時間は遅い。寝坊だから。
 一般社員よりも一時間は遅い。


 しかしその日、予想外の声が聞こえた。

「……おはようございます」

 俺は思わず顔を上げた。
 聞き覚えのない、しかしきちんとした挨拶。
 振り返ると、清掃服を着た男が、軽く頭を下げていた。

「……お、おはようございます」
 びっくりした。相手は、単純に礼儀として挨拶したのだろうが。

 振り返って後ろ姿を見送った。節目がちだが、背筋は伸びている。


 翌朝も彼は挨拶してきた。たまたまこの時間、移動しているのだろう。

「おはようございます」

「……おはようございます」

 三日、四日、一週間。
 毎朝まったく同じ時間、同じテンポで挨拶してくる。

 意識して観察した彼は、意外と若いし、かっこいい。何も清掃のような仕事をしなくても、いや、清掃も立派な仕事だが、もっと華やかな仕事ができるのではないか?

 そう思ってしまった瞬間、俺の悪い癖――興味が湧いてしまった。

 興味が湧くと調べずにはいられない。

 俺は清掃員・マツダ・トオルのデータを社内端末で検索した。入念に調べた。


 経歴は、実に立派だ。

 大学名、学科、資格、前職??

 どれを見ても清掃から大きく離れている。
 むしろ、管理職候補側の人間だ。

 そしてこれなら清掃だな。倉庫整理は満員だしね。


 普通なら辞める。逃げる。別の仕事に行く。

 なのに、彼はこの会社に残った。
 それどころか、毎朝淡々と清掃をしている。

 この一点だけで、俺の興味は完全に切り替わった。

 なぜ残ったのか?なぜここなのか?なぜ辞めないのか?

 その理由が知りたかった。それはネットのどこに見つからない。


 ある朝の挨拶の後、俺は決意して声をかけた。

「少し……お話してもいいですか」

 彼、マツダ・トオルさんは驚いたように目を丸くした。

「俺に、ですか?」

「はい」

 彼と並んでエレベーターホール横に移動する。誰も通らないけど、なんとなく端によってしまう。

 短刀直入に聞いた。

「どうして、この会社に残ったんですか?」

 マツダさんはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、淡々と語り出した。

「ここ……冷暖房、完備なんですよ」

「……え?」

 予想外の答えに、思わず間抜けな声が出た。

 彼は続ける。

「ショッピング街より楽そうだと思ったんです。あそこ、外気の影響を受けるし、人も多いし。
 冬は寒いし、夏は暑い。でもここは、温度も湿度も一定でしょう?」

 俺は唖然とした。

 なるほど、合理的だ。

「それに……」

 トオルの視線が一瞬だけ下を向く。

「ここは噂の大元ですから。誰かが、噂を聞いて、『ねぇ、これってあなたのこと?』なんてことは起きませんから」

「なるほど、みんなが知っているってことですね」

「はい」

 俺は息を飲んだ。

 誰よりも冷静で、誰よりも正しい判断だ。

「それに、清掃の制服って……仮面になるんです」

「仮面?」

「下を向いて歩いていれば、自分のことを知ってる社員とも目が合わない。
 向こうも、清掃員の顔なんて見ません。ここに噂のトオルはいないんです」

 俺は、完全に言葉を失った。

 この男は、感情的ではない。逃げようとしているわけでもない。
 ただ、冷静に“生き残るための選択”をした。

 そして、完璧に理由付けされている。

 これは、心理学とか経営とか、そんなことじゃないか?

 経営判断だろう


 その日、俺は仕事の途中なのに気づけば資料を閉じていた。

 トオルの言葉が頭から離れない。

 ・状況分析
 ・環境把握
 ・風評リスクの計算
 ・最も安全で効率のいい選択
 ・心理的負荷の調整
 ・自分を守るための合理的行動
 ・そして他者との距離感の操作

 これは俺にできることではない。挨拶一つ自分からできない俺と比べるなんて烏滸がましいが。

 企業の中枢に置くべき人間の判断だ。多分?

 対人能力も……ある。
 俺に最初の挨拶をしてきた時点で、それが分かる。おまいが言うなだが。


 彼の挨拶は、負担じゃなかった。挨拶されて嫌じゃなかった。
 それに気づいて、自分でも驚いた。

 この男なら、会社を。人間を。統括できる

 情報戦は俺が担当すればいい。ネット関係は俺が全部見ればいい。給料計算だっておれがやる。

 だが、人。動き。現場。バランスは俺ではできない。

 それができるのは彼だ。

 早速、社長にメールした。

「社長。スカウトしたい人間がいます」

「あなたの会社です。ご自由に。ただ参考までに誰ですか?スカウトしたい人は」

「今、清掃をしている。マツダ・トオルさんです」

「ほぉ、興味本位で尋ねます。理由は?

「はい、状況判断能力があると思います」

「わかりました。最初に言った通り、あなたに任せます」


 翌日、いつものように

「おはようございます」
「おはようございます。少し、時間をいただけますか?」

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