【短編集】

朝山みどり

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主人公は幸せに

わたしらしく箒にまたがって

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 可哀想なアンソニーは葬られた。
わたしは、晴れて未亡人になった。
わたしは、アンソニー・ブラウンの夫人からメアリー・ブラウンになった。

 アンソニーはよく出来た夫だった。そしてわたしもいい妻だった。
結婚するまえは父に逆らわない従順な娘。結婚後は夫によく仕えるいい妻だった。

 晴れて未亡人になったわたしの重石はなくなった。
わたしの人生はわたしのものになった。わたしはこれから好きなことをする。

 わたしは魔力を多く持って生まれた。それを活かして治癒魔法を仕事にしたかったのだ。
治癒魔法士と言うのは女性の仕事としては最先端で、かっこいい仕事だった。

 だが、父は進学は許してくれたが、語学が精一杯だった。せめて教えることが出来るようにと思ったが
「働くってなんだ。父がいるではないか?」と返事が返って来た。
 すねて怒ると最近発売されたというチョコレートをたくさん買って来て、
「ほら、美味しいぞ」と渡された。
 母からは
「あれで寂しがってるんだから、かまってあげてよ。困らせないで」と言われた。

 大学は楽しかった。それなりに付き合ったりもしたけど、在学中にお見合いした相手と卒業を待って結婚した。

 大切にしてくれたと思う。それがある日、新聞に載っていた、『おつかいは箒に乗って』と読んで、箒に乗ろうとしたらすごく怒って
「なにを考えているんだ。俺の女がそんなみっともないことをするとは」と言ったのだ。
言い返すのは簡単だ。やってやると思ったが、父の顔、母の顔、三歳の息子の顔が浮かんで来たのでやめた。

 アンソニーはすぐに怒鳴って悪かったと謝ってきたから、わたしもアンソニーに恥をかかせるところだったと謝った。

 でも箒は掃除道具置き場の隅に大切に保管した。


 さて、わたしは箒を取り出すと優雅に横乗りをした。

それから『おつかいは箒に乗って』の通りに飛び上がると窓から外に飛び出した。
高く飛び上がれない。せいぜい自転車に乗った程度の高さと速さだった。

 だけど、風を感じるのはいい気持ちだった。

 そしてなにより、わたしを見てみなが驚くのが楽しかった。

 なんせ、最近は魔力を持った者が少なくなって来ていて、魔力がある者を魔女と呼ぶのが流行なのだ。
もっと高度がとれるようになれば、道など関係なく飛び回るのだが、今は道を外れずに地道に飛ぶしか出来ない。

 目的なく飛ぶのも勿体無い。近所のお店に向かった。
  
 最近出来たお店で大きな建物のなかに小さなお店が入っていて、一度で用が済むのだ。

 わたしは箒を外に置いて、なかに入ると、好きなお菓子とハーブティーを買った。

 外に出るとわたしの箒を取り囲んで何人かが話をしている。

「おばあちゃんの箒?」と話しかけられたので

「わたしはだれのおばあちゃんかしら?」と言って箒に腰掛けた。

「えっとええとお。そのそちらさまの箒ですか?」

「はい」と言うと箒を動かした。

「待って。待って」と聞こえたが、無視した。

あぁ高さが欲しい。練習だ。

 それからわたしは毎日、高く飛ぶ練習をした。

 一ヶ月で屋根の高さに上がれるようになった。
屋根に上がれるようになると、世界がぐっと広くなった。
見慣れた通りも、見慣れた庭も、上から見るとまるで違う場所のように見える。

「わたし、やっと少し魔女らしくなれたかしら」

 屋根に腰を下ろした。風が髪を揺らし、胸の奥がすっと軽くなる。

 けれど、ただ飛ぶだけでは飽き足らなくなった。
もっと高く、もっと遠くへ行きたい。
そのためには、力を増す方法が必要だった。

 わたしはクローゼットの奥にしまい込んだ箱から、学生のころにこっそり集めた魔法の理論書を取り出した。父に見つからぬようしまい込んでおいた、埃をかぶった革の背表紙。

 治癒魔法を学びたいと願っていたころの、置き去りにした夢の断片。

 わたしは文字を追った。老眼鏡を新調した。それでも見えにくいので照明を最近の方式に変えた。
忘れていた知識が少しずつ蘇り、魔力の流れを整える方法や、道具に魔力を蓄える技があることを思い出した。

「やってみよう」

 次の日、箒の柄に魔力を込めた。最初はかすかに震えるだけだったが、数日かけるうちに、箒の先から青白い光がふわりと漏れ始めた。

 試しに飛ぶと、今度は家々の屋根を軽々と越え、街の広場を見下ろせる高さまで上がった。
眼下で子どもたちが指さし、大人たちが口をあんぐり開ける。

「お母さん、魔女だ!」

 笑い声が聞こえた。誰?と思ったら、自分の声だった。
胸の奥で何かが解けるようだった。

 ある日、街の役人が家を訪ねてきた。

「奥さま。近頃、空を飛んでおられるとか」

にこやかに言う声の奥に、探るような気配があった。

 わたしは笑顔で答えた。
「ええ、散歩のかわりよ。問題かしら?」

 役人は困ったように頭をかき、
「いや、ただ……最近、魔女に関する規制が議会で議論されておりまして」
と告げた。

 わたしは静かにうなずいた。
――やはり来たか。

 魔力を持つ者が少なくなったからこそ、珍しがられ、同時に恐れられる。
けれど、わたしはもう引き下がるつもりはない。

「ご忠告ありがとう。でも、わたしは飛ぶわ。だって、それがわたしの自由なのだもの」

 その晩、遠い未来を思った。
この力を使ってただ遊ぶだけで終わるのか、それとも――かつて夢見た治癒魔法士として、誰かを助ける道へ踏み出すのか。

 選択は、わたしの手の中にあった。


 わたしが役所の上を飛ぶようになったのは、ほんの思いつきだった。
 新聞に取り上げられ、議会で規制の議題にまで上がったのは、まったくの想定外。
 最初は近所の子どもが面白がって手を振り、主婦仲間が遠巻きに眺める程度の、小さな出来事にすぎなかったのだ。

 けれど、人々は思いのほか熱心にこちらを見上げた。
 あの日から、わたしの旋回は日課となり、役所の窓から顔を出す役人たちに見せつけるように空を回るようになった。

 最初のころはひとりだった。
 けれど次第に、わたしの後を追って空に挑む人が現れた。

 庭をぐるぐる回るだけの者。窓の外を何度も行き来して、ひやひやしながら笑い声を上げる者。
 最初は恥ずかしそうに飛んでいた彼らも、数日もすれば慣れた顔になり、箒の柄に色布を巻きつけたり、先端に花を結んだり、思い思いの飾りを付けるようになった。

 役所の周囲は、いつしか即席の飛行練習場のようになった。
 朝の光を浴びて飛ぶ者。夕焼けに染まる空を旋回する者。月明かりの下でふわりと浮かぶ者。

 「魔女だ」「危険だ」と叫ぶ人もいたが、その声は次第に子どもたちの歓声にかき消されていった。


 もちろん、役所は黙ってはいなかった。
 ある日、窓から大声で「やめなさい!」と叫ぶ役人がいた。
 けれどわたしはすました顔で、わざとその窓の前を通り抜けてみせた。

 (危険? 誰の判断?自分で判断しなさいよ!)

 そう言い返したわけではない。ただ視線で、笑みで、挑発しただけ。
 役人は顔を真っ赤にして窓を閉めた。

 次の日、その窓辺には子どもが顔を出していた。
 「飛んで! もっと高く!」と声をかけてきた。
 わたしが旋回すると両手を振って喜んだ。
 
 わたし自身の飛行も日ごとに進歩した。
 高さはもちろん、速さを追求した。自動車に負けない。馬車には楽勝。列車に並走するのはすごく面白い。乗り移って強盗に変身できそう。
 風に備えてコートを着込み、髪はスカーフで覆った。
 
 空気の層は高さによって異なり、薄く冷たくなるところもあれば、やわらかに流れる層もある。そうした違いを身体で覚えるうち、飛行は単なる遊びではなく、技術になっていった。

 わたしは一日のうちでもっとも風が安定する時間を見計らい、役所の上空を旋回する。
 空に描かれるわたしの軌跡は、もはや習慣というより、意志の証だった。

 仲間が増えると、笑い声が増した。
 高く飛べない者は役所の庭を旋回した。
 もう少し飛べる者は窓の外を行き来する。
 屋根を上を旋回する者。
 わたしと数人の熟練者はその上を旋回する。

 役人たちは苛立ちを募らせた。
 新聞には「魔女の集団飛行、秩序を乱す」と大きく見出しが躍った。
 けれど同じ紙面の片隅には、「空を舞う姿に勇気づけられた」「こんな自由があってもよいのでは」という投書も載っていた。

 規制を叫ぶ声と、自由を讃える声。
 両方が渦巻く中で、わたしたちはますます高く舞い上がった。

 ある日、役所の前に記者たちが集められた。
 合同の記者会見だと告げられ、わたしは招待を受けた。

 壇上に立ち、無数の視線と閃光を浴びながら、わたしは口を開いた。

「わたしは父親のよき娘、夫のよき妻、子どもたちのよき母として生きてきました。どこにも傷のない良き市民です。そのわたしが、運動がてら、ほんの気晴らしに空を飛ぶことに、どんな問題があるのでしょう?」

 ざわめきが広がる。記者たちのペンが一斉に走る。
 わたしは続けた。

「あなたたち役所の人間こそ、ちゃんとしつけを受けたのですか? わたしがあなたたちの母親なら、もっと厳しくしつけていたでしょう」

 声を張り上げる必要はなかった。
 静かに、しかし揺るぎなく言い切った。

 その場にいた仲間たちが次々と拍手を送った。記者の中にも頷く者がいた。
 わたしは確信した。もう、大丈夫。

 役所の上空を飛ぶことは、単なる嫌がらせではなくなっていた。
 それは宣言であり、祈りであり、そして未来への約束だった。

 わたしたちは日ごとに集まり、空に輪を描き続けた。
 地上で声を荒げる者もいたが、それ以上に笑顔で手を振る者が増えていった。子どもたちは空を指さし、老人は目を細めて見上げた。

 ――あぁ、これはもう、わたしひとりの楽しみではない。

 やがて、外国の新聞記者までもが取材に来るようになった。
 「あなたたちは魔女なのか、それとも新しい時代の市民なのか」と問われ、わたしは笑った。

「両方ですよ。魔力のある人間です。最近は魔女と呼ばれているようです。わたしはただ、わたしでありたいのです。
 箒にまたがり、空を飛びたい。
 それは誰かの迷惑になるのでしょうか?」

 記者は沈黙したあと、微笑んでシャッターを切った。


 最近、わたしは外国旅行の資料を眺めている。そこには向こう岸が見えない河が描いてある。
 大きな河をひとっ跳びで渡れるだろうか。向こう岸が見えないほどの広さを、箒に乗って飛び越えることはできるだろうか。
 そんな想像をするだけで胸が高鳴る。

 役所の上を飛ぶ日々は、わたしを遠くへ運ぶ準備運動にすぎなかった。
 けれど、わたしは確かに知っている。
 あの日、父の娘でも夫の妻でもなく、ただ「わたし」として箒にまたがった瞬間から、世界は変わったのだ。

 だから明日も飛ぶ。
 役所の上を、街の空を。
 
 いつかは国境を越えて。
 風を切り、空を翔け、わたしらしく在るために。

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