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幕間1.魔女と満月
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月がとびきり綺麗な夜だった。母さんと過ごした夜を思い出しながら、狭い路地の隙間から覗く満月に見惚れていると、足音もなくひとりの老婆が隣に立っていて飛び上がりそうになった。
「綺麗な月だねえ」
ひとりごとなのか、それとも自分に向けられた言葉なのか。警戒しながら老婆の顔を盗み見ると、ぎょろりとした瞳がこちらを向いた。警戒して、全身の毛を逆立たせる。
「大丈夫さ。こんな婆にお前さんをどうこうすることはできないよ」
老婆はゆったりと言い聞かせるように喋った。たしかに、この老婆からは敵意のようなものは感じない。少し離れた位置から老婆のことを観察する。瞳の色は黄金色で、夜空に浮かぶ月に似ている。老婆は月を見たまま寂しそうに微笑んでいた。
「悲しいことがあったのか」
そう話しかけると、老婆は驚いた顔でこちらを見た。それからこちらの顔を覗き込んでくる。
「なんだ。お前さんも同じか」
「同じって何が」
老婆は自分の瞳を静かに指さした。月の色をした瞳が一緒だということだろうか。近頃は自分の姿を見ないようにしていたけれど、やはり母さんと同じ色にはなれなかったのだと思い知り、胸がきゅうと締め付けられる。
「お前さん、人間の言葉がわかるだろう。それは、特別なんだよ。普通の猫は飼い主とか特定の人間の言葉しかわからないもんだよ」
だから何だっていうんだ。正直、それがいいこととは思えなかった。外を歩けば縁起が悪いだの不吉だのと罵られる。そんな言葉はわからないほうがいいに決まっている。不満げな表情を読み取ったのか、老婆はにやりと笑う。
「特別ってのは、言葉がわかること自体じゃないさ。人間になることができる猫だってことなんだよ」
「人間に?」
人間なんか嫌いだ。そんなものになって、何かいいことがあるのだろうか。黒猫の姿でいるよりは、もしかしたら生きやすいのかもしれないけれど。
「人間になるには条件もある。失敗したら、人間としてはもちろん、猫として生きることもできなくなる。お前さんの存在は、なかったことになるんだ」
存在はなかったことになる。それはとても寂しいことだと思った。母さんに愛してもらったことも、あの頃の思い出もなくなってしまうのだろうか。そんなリスクを負うのなら、なおさら人間になりたいとは思えない。けれど、話だけは最後まで聞いてやろうと老婆を見つめ返す。
「条件っていうのはなんだ?」
「愛しい人にキスしてもらうこと。そして、その後に満月の光を浴びることだ。まあこれはそこまで難しくない」
「じゃあ何が難しいんだ?」
「人間の姿になって、二カ月以内に相手から必要だと、愛していると、伝えてもらう必要がある。それができなければ、消えてなくなるだけだ。ああ、もちろんその期限があることを相手に伝えるのはダメだ。その場合は残りの期間に関わらず、お前さんの存在は、この世から消えてなくなるだろう」
「そうか。でも、人間になりたいなんて思わない。どうしてこんな話をしたんだ? それに、あんたは一体何者だ?」
「私のことは『魔女』とでも呼んでくれたらいいさ。いつか、お前さんが大切な人に出会ったときに、今の話を思い出してくれたらいい」
魔女はそう言って、こちらに左手を伸ばしてきた。咄嗟に飛びのくと、魔女は静かに手を引っ込める。その薬指で、きらりと何かが煌めいた気がした。
その後、魔女の姿を見ることはなく、次第に聞いた話のことも忘れていった。人間なんか好きになるはずがない。だから、自分には関係のない話だと思っていた。
「綺麗な月だねえ」
ひとりごとなのか、それとも自分に向けられた言葉なのか。警戒しながら老婆の顔を盗み見ると、ぎょろりとした瞳がこちらを向いた。警戒して、全身の毛を逆立たせる。
「大丈夫さ。こんな婆にお前さんをどうこうすることはできないよ」
老婆はゆったりと言い聞かせるように喋った。たしかに、この老婆からは敵意のようなものは感じない。少し離れた位置から老婆のことを観察する。瞳の色は黄金色で、夜空に浮かぶ月に似ている。老婆は月を見たまま寂しそうに微笑んでいた。
「悲しいことがあったのか」
そう話しかけると、老婆は驚いた顔でこちらを見た。それからこちらの顔を覗き込んでくる。
「なんだ。お前さんも同じか」
「同じって何が」
老婆は自分の瞳を静かに指さした。月の色をした瞳が一緒だということだろうか。近頃は自分の姿を見ないようにしていたけれど、やはり母さんと同じ色にはなれなかったのだと思い知り、胸がきゅうと締め付けられる。
「お前さん、人間の言葉がわかるだろう。それは、特別なんだよ。普通の猫は飼い主とか特定の人間の言葉しかわからないもんだよ」
だから何だっていうんだ。正直、それがいいこととは思えなかった。外を歩けば縁起が悪いだの不吉だのと罵られる。そんな言葉はわからないほうがいいに決まっている。不満げな表情を読み取ったのか、老婆はにやりと笑う。
「特別ってのは、言葉がわかること自体じゃないさ。人間になることができる猫だってことなんだよ」
「人間に?」
人間なんか嫌いだ。そんなものになって、何かいいことがあるのだろうか。黒猫の姿でいるよりは、もしかしたら生きやすいのかもしれないけれど。
「人間になるには条件もある。失敗したら、人間としてはもちろん、猫として生きることもできなくなる。お前さんの存在は、なかったことになるんだ」
存在はなかったことになる。それはとても寂しいことだと思った。母さんに愛してもらったことも、あの頃の思い出もなくなってしまうのだろうか。そんなリスクを負うのなら、なおさら人間になりたいとは思えない。けれど、話だけは最後まで聞いてやろうと老婆を見つめ返す。
「条件っていうのはなんだ?」
「愛しい人にキスしてもらうこと。そして、その後に満月の光を浴びることだ。まあこれはそこまで難しくない」
「じゃあ何が難しいんだ?」
「人間の姿になって、二カ月以内に相手から必要だと、愛していると、伝えてもらう必要がある。それができなければ、消えてなくなるだけだ。ああ、もちろんその期限があることを相手に伝えるのはダメだ。その場合は残りの期間に関わらず、お前さんの存在は、この世から消えてなくなるだろう」
「そうか。でも、人間になりたいなんて思わない。どうしてこんな話をしたんだ? それに、あんたは一体何者だ?」
「私のことは『魔女』とでも呼んでくれたらいいさ。いつか、お前さんが大切な人に出会ったときに、今の話を思い出してくれたらいい」
魔女はそう言って、こちらに左手を伸ばしてきた。咄嗟に飛びのくと、魔女は静かに手を引っ込める。その薬指で、きらりと何かが煌めいた気がした。
その後、魔女の姿を見ることはなく、次第に聞いた話のことも忘れていった。人間なんか好きになるはずがない。だから、自分には関係のない話だと思っていた。
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