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青嵐
それぞれの場所で
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放たれた最後の祝砲が空に余韻を残して吸われて消えて行くと、国家儀礼を終えた儀仗隊は一矢乱れぬ隊列を組んで市庁舎の裏手へと掃けて行く。
真昼の太陽を集めたような市庁舎の広場には居並ぶコーチシナ(仏領インドシナ連邦)のハノイ総督や市長、町の
名士達が一人また一人と祝辞を述べて行く。
この次にはいよいよヴィクトーの番だった。ジリジリとした気持ちで待っている彼のこめかみからは、一筋二筋と汗が滴り落ちていた。
シルクハットにこの暑さは耐え難いな。
気が遠くなりかけた時、漸くヴィクトーが壇上へと促された。
見たこともない男の登場に、列席者の拍手は疎らだった。
今にも消え入りそうなその拍手を受けながら、ヴィクトーは登壇した。
空を仰いで深呼吸をする。
気持ちを整えて話し始めた。
「皆様、この佳き日にこの場でご挨拶出来る事を光栄に思います。この国策でもある新住宅街のデザインを僭越ながら賜りましたエルネスト・エブラールです。
と、言いたいところですが、彼は非常に恥ずかしがり屋で気の小さな男でして…」
そこで列席者の何人かから笑いが漏れる。掴みはOKとばかりにヴィクトーはその笑いを押し留めるように軽く手を上げた。
「いや、それはほんの冗談ですが、本人の名誉のために言いますと、エブラール氏は実は本日は少しばかり体調を崩しておりまして、代わりに私ヴィクトー・マルローが弱輩ながらスピーチの代読を承っております」
こんな挨拶や社交辞令が苦手という割には気の利いた滑り出しだった。場が和むとヴィクトー自身も安堵した気持ちになっていた。
「えー…。この新住宅街は、エブラール氏がインドシナとヨーロッパの融合を目指した新しい建築様式を取り入れた東南アジアでは先駆的な試みとなり…」
テケテケテケテケテケテケ!
唐突に甲高い何かを打ち鳴らす音が鳴り響いてヴィクトーは図らずもスピーチを遮られてしまった。
それと同時に四方八方から五匹の大きな黒いフィー・フォンが、両手にでんでん太鼓を打ち鳴らしながら会場へと勢い良く躍り出てきた。
激しく踊り狂うフィー・フォンに会場は一瞬騒めいた。
ヴィクトーはと言えば、スピーチの続きをどうしたものかと助けを求めるように進行役へと視線をやったが、予定外のこの事態に進行役も訳がわからずにあたふたと進行表を忙しく捲ったり、会場を眺め回したりと落ち着きが無い。
「どうなってるんだ?!俺はどうすりゃいい?!」
ヴィクトーは口パクで進行役に訴えてみたが、進行役はそれを見るどころか頭を抱えてしまっていた。
異様な光景だったが、列席者は皆これはハノイ式の祭りの一環なのだと思っているようで、誰も席を立とうとはしなかった。
一際でんでん太鼓の音は激しく、フィー・フォンは人々の周りを縫うように踊り狂う。
その時、不思議な熱気に包まれる会場の何処かから叫び声が上がったのだ。
「火事だ!!見ろ!住宅街から煙が…っ!火が!!」
その声で皆一斉に新住宅街の方角に目を向けた。
市庁舎の目と鼻の先にある新住宅街の、立ち並ぶ木々の上からは濛々と黒煙が立ち登り、市庁舎の上空はあっという間に流れてくる黒煙に覆われてしまった。
それはみるみる間に燃え上がる炎に変わり、舞い上がる火の粉が会場にまで流れて来ると、漸くここに集う人々はこれは祝賀の余興などでは無い事に気がついた。
それからはもう会場は阿鼻叫喚の有様となった。
悲鳴を上げて逃げる人、慌てふためいて転倒する人、そこに追い討ちをかけたのが被り物を脱ぎ捨てたフィー・フォン達だった。
でんでん太鼓を投げ捨て弓矢に持ち替え、矢の先に火をつけると一斉に祝賀の垂れ幕やお偉方に向かって火矢を放ったのだ。
「フランス人は出て行け!」
「主権は我らに有り!」
「我らの土地を返せ!」
「思い知るがいい!」
口々にそう叫び声を上げる中、瞬く間に炎は広場に広がった。
逃げ惑う人々と暴れる青嵐達。そこへ引き返してきた儀仗兵達が雪崩れ込み、広場は入り乱れる人々で一層騒然となっていた。
「撤収ーー!!」
ライの放った一言で青嵐の五人は撤退の道を走り出したが、儀仗兵の来る前に撤収するはずがライのタイミングが一瞬遅かったのだ。
三階建ての市庁舎の壁からは燃える垂れ幕が中途半端にぶら下がり、今にも下へ落ちそうになっている。
その下では逃げ惑う人達を誘導していたヴィクトーが声を張り上げていた。
「河へ逃げろ!紅河に飛び込め!」
逃げるどさくさのその中で、ライはヴィクトーの声を聞いた気がして視線を走らせた。
その視線の先には髪に火がついた女性を己のジャケットを被せて懸命に消火しているヴィクトーの姿が目に飛び込んできたのだ。
ライは驚いた。
「なんで…彼奴がここにいるんだ!!」
その瞬間、火のついた大きな垂れ幕はヴィクトー目掛けて崩れるように落下した。
咄嗟にライはヴィクトーに向かって叫んでいた。
「逃げろ!!」
一方、新住宅街の新築の家々に火を放って回るタオの元へと撤収を知らせる伝令の男が走り込んできた。
「撤収だ!頭が撤収しろと…っ、ヒッ!!」
言い終える前に銃声が響き渡り、伝令はタオの目の前で前のめりにドサリと倒れた。
だが誰が何処から撃ったのか分からない。
「け、憲兵だ!!憲兵だ!!」
タオの後ろにいた男がすっかりテンパった声で叫ぶと震える手で銃を構え、姿の見えない兵士に向けて発砲してしまったのだ。
「馬鹿!止めろ、撃つな!逃げるんだ!!」
タオが止めても無駄だった。
一旦外れた恐怖のタガを元に戻すことは出来なかった。
皆が闇雲に逃げながら迫り来る何かの気配に向けて発砲していた。
茂みの中からは確かに草むらを分ける何人もの兵士達の足音がタオ達を追いかけていた。
何度も頭の中でシュミレーションをしていた筈なのに、まるで使い物にならない。初めての実戦にタオはパニックを起こしかけていた。
こんな筈ではなかった!
これじゃあ退路の確保なんて出来るものか!
ライ…、ライ!!
この混乱の少し前、エリックは新市街の場所を通りすがりの人に尋ねながら、近くにあると言う市庁舎の尖塔を取り敢えず目標にして走っていた。
建物や木々の間から見え隠れする尖塔だったのだが時には全く見えなくなってしまう時もある。
そんな時は勘だけを頼りに走ったが、ふと何処から何かが焦げたような匂いが漂って来て立ち止まった。
「…何だろう…畑焼き?でもハノイでもそう言う習慣があるのかな…確かに米の畑は麦畑に似てはいるけど、収穫が終わるにはまだ…」
まさか自分の向かっている先が燃やされているとも知らないエリックはそんなことをぼんやりと考えていた。
だが、すぐに異変に遭遇することとなった。
不気味な白煙が何処からともなく濃霧のように湧いて来た。それと同時に臭気は先へ行くほど濃厚になって行く。
これは火事だ!何処かで大きな火事が起きてる!
前方からは煙に追われるように走って来る人々に一人また一人とすれ違う。
白煙の中に黒煙が混じり始め、
不安に駆られたエリックは次に走って来た女性の腕を捕まえて、どうしたのかと尋ねてみた。
女は靴を履いていなかった。
煤だらけの険しい表情で泣き叫んでいる。
「新住宅街が焼かれた!市庁舎も焼かれて皆んな火に巻かれて命からがら逃げて来たのよ!」
『本日正午、居留地の新住宅街には近づくべからず』
タオが教えてくれたのはこれだったのだ。
なのにヴィクトーはその渦中にいるのだ。
「嘘…、ヴィクトー…嘘だよ…!」
ヴィクトーの身を案じてフラフラと走り出したエリックの耳には己の血の気の引く音だけが煩く鳴り響いていた。
真昼の太陽を集めたような市庁舎の広場には居並ぶコーチシナ(仏領インドシナ連邦)のハノイ総督や市長、町の
名士達が一人また一人と祝辞を述べて行く。
この次にはいよいよヴィクトーの番だった。ジリジリとした気持ちで待っている彼のこめかみからは、一筋二筋と汗が滴り落ちていた。
シルクハットにこの暑さは耐え難いな。
気が遠くなりかけた時、漸くヴィクトーが壇上へと促された。
見たこともない男の登場に、列席者の拍手は疎らだった。
今にも消え入りそうなその拍手を受けながら、ヴィクトーは登壇した。
空を仰いで深呼吸をする。
気持ちを整えて話し始めた。
「皆様、この佳き日にこの場でご挨拶出来る事を光栄に思います。この国策でもある新住宅街のデザインを僭越ながら賜りましたエルネスト・エブラールです。
と、言いたいところですが、彼は非常に恥ずかしがり屋で気の小さな男でして…」
そこで列席者の何人かから笑いが漏れる。掴みはOKとばかりにヴィクトーはその笑いを押し留めるように軽く手を上げた。
「いや、それはほんの冗談ですが、本人の名誉のために言いますと、エブラール氏は実は本日は少しばかり体調を崩しておりまして、代わりに私ヴィクトー・マルローが弱輩ながらスピーチの代読を承っております」
こんな挨拶や社交辞令が苦手という割には気の利いた滑り出しだった。場が和むとヴィクトー自身も安堵した気持ちになっていた。
「えー…。この新住宅街は、エブラール氏がインドシナとヨーロッパの融合を目指した新しい建築様式を取り入れた東南アジアでは先駆的な試みとなり…」
テケテケテケテケテケテケ!
唐突に甲高い何かを打ち鳴らす音が鳴り響いてヴィクトーは図らずもスピーチを遮られてしまった。
それと同時に四方八方から五匹の大きな黒いフィー・フォンが、両手にでんでん太鼓を打ち鳴らしながら会場へと勢い良く躍り出てきた。
激しく踊り狂うフィー・フォンに会場は一瞬騒めいた。
ヴィクトーはと言えば、スピーチの続きをどうしたものかと助けを求めるように進行役へと視線をやったが、予定外のこの事態に進行役も訳がわからずにあたふたと進行表を忙しく捲ったり、会場を眺め回したりと落ち着きが無い。
「どうなってるんだ?!俺はどうすりゃいい?!」
ヴィクトーは口パクで進行役に訴えてみたが、進行役はそれを見るどころか頭を抱えてしまっていた。
異様な光景だったが、列席者は皆これはハノイ式の祭りの一環なのだと思っているようで、誰も席を立とうとはしなかった。
一際でんでん太鼓の音は激しく、フィー・フォンは人々の周りを縫うように踊り狂う。
その時、不思議な熱気に包まれる会場の何処かから叫び声が上がったのだ。
「火事だ!!見ろ!住宅街から煙が…っ!火が!!」
その声で皆一斉に新住宅街の方角に目を向けた。
市庁舎の目と鼻の先にある新住宅街の、立ち並ぶ木々の上からは濛々と黒煙が立ち登り、市庁舎の上空はあっという間に流れてくる黒煙に覆われてしまった。
それはみるみる間に燃え上がる炎に変わり、舞い上がる火の粉が会場にまで流れて来ると、漸くここに集う人々はこれは祝賀の余興などでは無い事に気がついた。
それからはもう会場は阿鼻叫喚の有様となった。
悲鳴を上げて逃げる人、慌てふためいて転倒する人、そこに追い討ちをかけたのが被り物を脱ぎ捨てたフィー・フォン達だった。
でんでん太鼓を投げ捨て弓矢に持ち替え、矢の先に火をつけると一斉に祝賀の垂れ幕やお偉方に向かって火矢を放ったのだ。
「フランス人は出て行け!」
「主権は我らに有り!」
「我らの土地を返せ!」
「思い知るがいい!」
口々にそう叫び声を上げる中、瞬く間に炎は広場に広がった。
逃げ惑う人々と暴れる青嵐達。そこへ引き返してきた儀仗兵達が雪崩れ込み、広場は入り乱れる人々で一層騒然となっていた。
「撤収ーー!!」
ライの放った一言で青嵐の五人は撤退の道を走り出したが、儀仗兵の来る前に撤収するはずがライのタイミングが一瞬遅かったのだ。
三階建ての市庁舎の壁からは燃える垂れ幕が中途半端にぶら下がり、今にも下へ落ちそうになっている。
その下では逃げ惑う人達を誘導していたヴィクトーが声を張り上げていた。
「河へ逃げろ!紅河に飛び込め!」
逃げるどさくさのその中で、ライはヴィクトーの声を聞いた気がして視線を走らせた。
その視線の先には髪に火がついた女性を己のジャケットを被せて懸命に消火しているヴィクトーの姿が目に飛び込んできたのだ。
ライは驚いた。
「なんで…彼奴がここにいるんだ!!」
その瞬間、火のついた大きな垂れ幕はヴィクトー目掛けて崩れるように落下した。
咄嗟にライはヴィクトーに向かって叫んでいた。
「逃げろ!!」
一方、新住宅街の新築の家々に火を放って回るタオの元へと撤収を知らせる伝令の男が走り込んできた。
「撤収だ!頭が撤収しろと…っ、ヒッ!!」
言い終える前に銃声が響き渡り、伝令はタオの目の前で前のめりにドサリと倒れた。
だが誰が何処から撃ったのか分からない。
「け、憲兵だ!!憲兵だ!!」
タオの後ろにいた男がすっかりテンパった声で叫ぶと震える手で銃を構え、姿の見えない兵士に向けて発砲してしまったのだ。
「馬鹿!止めろ、撃つな!逃げるんだ!!」
タオが止めても無駄だった。
一旦外れた恐怖のタガを元に戻すことは出来なかった。
皆が闇雲に逃げながら迫り来る何かの気配に向けて発砲していた。
茂みの中からは確かに草むらを分ける何人もの兵士達の足音がタオ達を追いかけていた。
何度も頭の中でシュミレーションをしていた筈なのに、まるで使い物にならない。初めての実戦にタオはパニックを起こしかけていた。
こんな筈ではなかった!
これじゃあ退路の確保なんて出来るものか!
ライ…、ライ!!
この混乱の少し前、エリックは新市街の場所を通りすがりの人に尋ねながら、近くにあると言う市庁舎の尖塔を取り敢えず目標にして走っていた。
建物や木々の間から見え隠れする尖塔だったのだが時には全く見えなくなってしまう時もある。
そんな時は勘だけを頼りに走ったが、ふと何処から何かが焦げたような匂いが漂って来て立ち止まった。
「…何だろう…畑焼き?でもハノイでもそう言う習慣があるのかな…確かに米の畑は麦畑に似てはいるけど、収穫が終わるにはまだ…」
まさか自分の向かっている先が燃やされているとも知らないエリックはそんなことをぼんやりと考えていた。
だが、すぐに異変に遭遇することとなった。
不気味な白煙が何処からともなく濃霧のように湧いて来た。それと同時に臭気は先へ行くほど濃厚になって行く。
これは火事だ!何処かで大きな火事が起きてる!
前方からは煙に追われるように走って来る人々に一人また一人とすれ違う。
白煙の中に黒煙が混じり始め、
不安に駆られたエリックは次に走って来た女性の腕を捕まえて、どうしたのかと尋ねてみた。
女は靴を履いていなかった。
煤だらけの険しい表情で泣き叫んでいる。
「新住宅街が焼かれた!市庁舎も焼かれて皆んな火に巻かれて命からがら逃げて来たのよ!」
『本日正午、居留地の新住宅街には近づくべからず』
タオが教えてくれたのはこれだったのだ。
なのにヴィクトーはその渦中にいるのだ。
「嘘…、ヴィクトー…嘘だよ…!」
ヴィクトーの身を案じてフラフラと走り出したエリックの耳には己の血の気の引く音だけが煩く鳴り響いていた。
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