化け物の棺

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新らしい景色の中へ

逆巻く想い

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平らな大地に張り付くように走る紅河は遮るものがなく、本来なら逃げ込むには不向きな場所だ。
だが支流の支流、地図にも乗らない細い川が無数に存在するならばそこは格好の隠れ家になる。
四人を乗せた小舟が逃げ込んだのもそんな川の一つだった。
鬱蒼とした低い木々が緑のトンネルを作っているような場所だった。
そこをシュアンは迷いもなく舟の舳先で舵を取って進んでいた。辺りはもう日がとっぷりと暮れていたが、彼を取り巻く蝶たちがまるで夜光虫のようにその羽を光らせ、金色に輝く鱗粉を放って行く先を照らし出している。
それは幻想的な光景だった。
舟の中の静けさとは正反対に辺りは蛙や虫が煩い程に鳴いていた。

「おい、シュアン!何処に向かっているんだ?」

沈黙に耐えかねたライが口火を切ってシュアンの背中に尋ねたが、シュアンからの返答は中々返されて来なかった。
ようやく返されたのはポツリと一言。

「………私のお墓です」

突拍子もない答えが返されてライが声を荒げた。

「墓だと?どう言う意味だ。お前はまだ死んじゃいないだろう!」

そんな兄に弟から返される答えは無かった。
エリックはと言えば、ずっと一言も話さずに膝に乗せたヴィクトーの頭を抱え、額から流れる血の跡を、自分のシャツの袖口で拭いていた。
不思議な縁で出会ったこのシュアンと言う人が何者なのか聞きたい事は沢山ある筈なのに聞くのが怖い。
何の確証もなくこのシュアンと言うこの美しい人がヴィクトーの心を占めているパピヨンだと思えてならない。
エリックが漸く口に出来たのはなんとも確信を欠いた遠巻きな質問だった。

「あのっ、…ライさんとシュアンさんは…お知り合いですか?」
「私はこの人の弟です。嫌われていますが…」
「俺は別に…!嫌ってなどいない!」

この美女と野獣のような似ても似つかない兄弟の間には、紅河よりも深い河が流れているようだった。
会話はここで途切れてしまったが、舟はようやく一つ所に止まった。
入り口は鬱蒼とした植物に隠されて、恐らく外からは誰もここを見つける事が出来だろう、そんな場所だ。
舟を岸に寄せると先にシュアンが降りて、そこに置いてあったと思しきランプに慣れた様子で火を灯した。
やはり初めて来たというわけではないのだろう。
ぼんやりと辺りが明るくなると、少しだけここがどのような所か見えてきた。
植物と岩が織りなす煙突の中。そう表現するのが恐らくぴったりするだろう。
足元は苔の絨毯が広がっていて、四人の人間が休むのには充分すぎる広さがあるように見えた。
エリックが降りるとヴィクトーを担いだライが舟を降りてきた。
シュアンが丸めて立てかけてあった敷物を広げ、ライがそこへとヴィクトーを寝かせた。

「ここは何だ?お前の隠れ家か?」

隅にたったひとつだけ置かれていた大きな木箱の中からシュアンは布と盥《たらい》を出して来ると、川の水を汲んで布を浸した。

「時々、俗世の雑音を遮断しに来るのです。一人でここにいると落ち着きますから」
「どうやってこんな場所を見つけたんだ?」
「蝶の導きがあったのです」

そこには何かまだ秘密めいた響きがあったが、今は言葉少なにシュアンはそう答えると、ヴィクトーの傍に跪いて傷口をその濡らした布で拭き始めた。

「貴方にまたお会いしたかった。きっとすぐに目が覚めますよね」

シュアンがヴィクトーを見つめる優しげな眼差しに耐えきれず、エリックは傷を拭うシュアンの手を思わず止めた。

「僕が、僕がやりますから」

何故かエリックはシュアンの目を見る事ができなかった。
シュアンはエリックが今のヴィクトーにとってどんな存在なのか悟った様だった。
直ぐに布をエリックへと任せたが、ヴィクトーを見つめる眼差しだけは誤魔化すことは出来なかった。

「…ごめんなさい。エリック。私も彼もこの前、初めて会って分かってしまったんです。互いに特別な存在だと言う事が…。それがどんな意味や感情があるのか私自身、良く分からないんです。ただずっと前から私は彼を見ていたんです。
いえ、彼の幻、と言った方が良いのかもしれませんが…。
私達が何か不思議な力で惹きあっている。そうとしか思えない。私の説明のできない何かが否応なく彼を求めてしまうのです」

聞きたくても聞けずにいたこんな恐ろしい告白を聞いて自分にどうしろと言うのか、傷を拭うエリックの手が小刻みに震え、今にも塞がれそうな喉から必死に声を振り絞った。

「…知ってます!貴方は紫の蝶の人なんでしょう?…知ってます!知っていて…それでも僕はヴィクトーに着いてきたんです!彼の事が好きだから…っ、でも、運命や宿命が存在する事だって分かっています…だから…だから僕は…、ただ僕は、、」

後は言葉にはならなかった。
こんな結末を予感していた気がする。それでも彼の側から離れられずにいたのは自分なのだ。

「さっきから俺の分からん話をしているようだが、こいつがこの前寺院を騒がせたって言う外国人か。それがどうして惚れた腫れたの話になるんだ!」

いきなり事情を知らない人間に怒鳴られてシュアンの中の何かが切れた。

「貴方にはどうせ分かりません。私達の問題なのですから貴方には立ち入って欲しくはないです!には関係のない話ですから!
貴方には他に考えるべき事があるでしょう?今日何をしでかしたか分かっているんですか?!関係のない人達まで巻き込んでおいて貴方は何とも思わないんですか?!」

それは至極正論だった。シュアンの語気の強さにピシャリと叩かれライは思わず頭に血が上った。

「何だと!俺に助けた恩を売ってるつもりか!」

思わずライがシュアンの胸ぐらを掴んだ時だった、ヴィクトーから微かな呻き声が漏れた。

「うぅ、う…っ」

「ヴィクトー!ヴィクトー!」

エリックの声が最初にヴィクトーの耳に聞こえた。
目が開くより先に傷口を押さえるエリックの手にヴィクトーの手が重なった。

「エリッ…ク…、エリックか?…俺は…どうしたんだ…」

ゆっくりと開く瞳の中に、最初に飛び込んできたのはエリックではなくシュアンの方だった。

「君は…っ、あの時の!待ってくれ、行かないでくれ!俺には君に聞きたい事が…ううっ、、」

ぼんやりと目に写ったその人が幻に見えてヴィクトーは慌てて起きあがろうとするがあちこち痛んで思うように起き上がれない。

「大丈夫です。私は幻ではありません。消えたりしないので…」

シュアンがそっと起きあがろうとしていたヴィクトーの胸を押し留めた。
その光景が鋭くエリックの胸を抉った。
それは彼が目覚めた喜びを凌駕する程の居た堪れ無い感情だった。
自分が彼を呼ぶ声に最初に気がついて名前を呼んでくれたのに、先に目に入ったのはシュアンだなんて。
下らない嫉妬だと分かっていながら、どうにも出来ない感情が胸の中で暴れていた。

こんな事ならいっそシュアンの声が先に耳に届き、シュアンの名を呼べば良かったんだ!
そしたらきっと、きっと僕は彼を…!


彼を…。



ー諦められただろうかー


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