最後の桜の下で空を喰む

Benorka

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逃避と迷い

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 颯空そらは暗闇の中で息を潜める。
胸の奥がツキツキと痛む。

 押し入れの中に隠れていた沈黙の時間は、おそらく1分もなかったはずだが、颯空にはとても長く、終わりのない闇の中に足を踏み入れてしまった未来のように感じた。

 太陽たいようが押し入れを開けないように祈りながら、目をぎゅっと瞑る。視界を完全に遮断したことで、自分のドクッドクッという心臓の音が体に響き、まるで外にも聞こえているような錯覚に陥った。

 しばらくすると、太陽が颯空の部屋の襖を閉め、部屋から遠ざかる足音が聞こえた。居間にいる祖母へ、颯空の不在を伝えに話しかけている声も耳に届く。

――いまだっ!

 隠れていた押し入れから音を立てないように抜け出すと、通学用に使っていたリュックに制服と着替えを数枚、乱雑に押し込んだ。充電器、財布、そして処方された薬の袋も。
震える手で急いで、でも音を立てないように気をつけながら詰め込んでいく。
必要最低限の荷物をリュックに詰め終えると、目の前にかかっていたキャップを目深に被り、部屋を出ようとする。
しかし、居間にはまだ太陽がいる気配がする。

どうやって見つからずに部屋から出ようかと考えていた颯空が顔を上げると、登校日に履こうと思って準備していたオニューのスニーカーが目の前の棚に準備してあった。靴があるならと、窓から逃げることを決めた。

窓際に近づいた時、携帯を持っていないことに気がつく。

――連絡……くるよな。

 現実から逃げたい気持ちと葛藤しながら、携帯を置いていくか迷う。しかし、連絡を絶つ勇気はなく、結局ポケットに携帯を押し込んだ。
庭に誰もいないことを確認し、窓枠に足をかける。
音を立てないようにそっと着地したが、草の葉に触れたわずかな音さえ、颯空にはとても大きく感じられた。

ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ――
 
心臓の音がうるさくて、周りの音がぼやける。

落ち着け心臓!大丈夫だ、太陽はまだ玄関の方で祖母と話している。
鉢合わせしないよう、庭から裏戸へ回り、駅に向かって駆け出した。
「ごめん……」
声にはならず、唇が小さく動くだけの、誰にも届かない謝罪が空に散る。

――伝えなきゃいけないのに。

頭ではわかっているのに、どうしても顔を見られなかった。
言葉が喉に張り付いて、どうしても出てこなかった。

余命6ヶ月

ぱんぱんに膨らんだリュックの重みが肩にのしかかる。
変わらない現実もまた重く、今の晴れない心の重さと重なる。

太陽から逃げた、まだ向き合えない。

走り出した背中が見つからないよう、普段よりキャップを深く被り、太陽に後姿を見られても簡単には気付かれないように祈りながら、駅まで走った。
何度も通ったことのある道なのに、今日はとても長く、とても遠く感じる。

脈が速い。息が上がる。体が震える。暑いのか寒いのかもわからない。

やっとたどり着いた駅で、電車の接近音が聞こえた時、ポケットのスマートフォンが震えた。

“大丈夫? どこにいるの?”

太陽からのメッセージが通知されていた。
相変わらずの気遣いに胸が痛む。でも、無理だ。今は開けない。

 自分から連絡する勇気もない。

 改札を抜け、ホームに上がると、先ほど聞こえた電車がちょうど到着したところだった。
電車のドアが開き、冷房の風が汗ばんだ額を撫でる。

 車内に乗り込むと、夏休み期間中の朝一ということもあり、家族連れや学生の集団が楽しそうに今日の目的地や予定を話している声が耳に届く。
飲み会帰りのようにぐったりしている大学生の集団の話し声も聞こえてくる。
 団体客が多い場所を避け、空いていた角の席に腰を下ろし、息が上がった体を落ち着けようと窓の外をぼんやりと眺める。
自然に周囲の楽しそうな雑音が耳に入る。

 本当なら自分も、夏休みの残りの日程を惜しみながら、太陽と遠出する計画を立てていたかもしれない。
そう思った瞬間、来年の夏はもう自分には来ないことに気付き、目の前が真っ暗になった。
 

 太陽の顔が浮かんでは消える。
 検査結果を言葉にすれば、あの優しい男の未来は一瞬で絶望感に包まれるだろう……。

 それくらい、ボクらは近くて、常に一緒だった。

 最低なやり方だとわかっている。
 それでも――

 太陽にどう伝えていいのか、わからなくなっていた。

 そういえば、逃げ先の家主、父方の叔父――林 翔はやし かける、通称かーくんに、まだ連絡をしていなかったことを思い出した。

 かーくんは、シンガポールで日本の建築技術やデザインを広めることを目標に、10年前に起業。
 今やシンガポールを本社に、日本とドイツに支社を持つ会社の代表を務める、結構な有名人だ。

 ちなみにシンガポールで起業した理由は、大学時代の留学先がシンガポールだったからで、現地に繋がりを作りやすかったらしい。
 ドイツに支社を出したのは、ボクの母がドイツ育ちの日仏ハーフで、かーくんの兄――ボクの父も、かつてドイツに出向していたという経緯があったから。
 その縁もあり、ヨーロッパ進出を決め、ドイツを拠点に運営している。

 そんな世界を跨いで忙しいかーくんも、先月から“しばらく日本支社をメインに動く”と連絡が来ていた。
 つい先日、ホテル暮らしから引っ越したことも聞いていて“いつでも遊びに来い”と住所が送られてきた。

 ……なので、勝手に甘えさせてもらうつもりで、今こうして無許可で叔父宅へ向かっている。

 “いま向かってるから今日は泊めて🙏”

 メッセージを送ると、すぐに既読が付き、返信が来た。

 “金は後で渡すから、好きなおやつと飲み物買ってこい”

 相変わらず、少しぶっきらぼうだけど優しい叔父だ。

 “いきなりごめんね、仕事だよね。大人しく家にいるから”

 “こういう時の為にCEOやってんだから気にすんな!迎えに行くか?”

 “もう電車乗ってる。あと1時間くらいでお家に着くから大丈夫だよ”

 かーくんは、昔からこういう人だ。
 口調はキツいけど、実はとても優しい。

 おじいちゃんの家系の遺伝子が濃くて中性的な顔立ちのパパに対して、
 おばあちゃんの家系の遺伝子が強く出て、男らしい外見のかーくん。
 もちろん、パパ似なボクとはあまり似ていなくて、子供の頃は「このくまみたいな人が叔父さん?」とピンと来なかった。

 だけど、外見の厳つさとは裏腹に、かーくんの中身はとても優しい叔父だった。

 ――これで今日は、太陽に見つからない。

 そう思った途端、張り詰めていた緊張が解けたのか、強烈な睡魔が襲ってくる。

 かーくん家の最寄駅までは、まだ時間がある。

『……少し寝よう』

 心地の良い電車の揺れと騒音に包まれながら、颯空は束の間の安らぎを得た。

 
 ――――――――――――――


 颯空がおかしい。

 今日は先日、病院に行くと約束していた颯空に会いにきたのだが、部屋はもぬけの殻で、いつもならすぐに返ってくるメッセージも返ってこない。

 普段なら何でも話してきて、すぐに甘えてくる可愛い幼馴染。
 最近の体調の事もあり、早く検査結果を聞きたくて、朝早く来たつもりだったが、行き違いになってしまっただろうか。そんな不安で、行き場のない感情に蝕まれたながら思い出したのは、出会ったばかりの頃の颯空のことだ――

 日独クォーターの颯空は、ドイツの血が濃いのか、瞳はよく見ると透き通るような碧色をしていた。
 颯空の父・ 林 颯はやし はやとも中性的で、息を呑むほど美しい人だったと両親から聞いていた。
 父親の面影を色濃く継いだ颯空は、幼い頃から目を惹く中性的な美少年だった。

 だが、その外見ゆえに、颯空は常に周囲から浮いていた。
 知らない大人に付きまとわれ、誘拐未遂に遭ったこともあれば、学校では「オカマだ」と蔑まれ、心ない言葉に傷つけられた。
 そういった他人の、歪んだ感情の掃き溜めになっていた彼は、家族以外の人間を“敵”と見なすようになっていった。
 実際、初めて出会った頃の颯空は、誰に対しても一定の距離を保ち、笑顔すら見せなかった。
 北海道に暮らしていた颯空が、長期休みに帰省するたび、両親に連れられて 真壁気うちを訪れることはあったが、当時の颯空にとって真壁家の子どもたちは“親の友達の子ども”でしかなかった。

 特に、歳の近い女の子は苦手だったようで、姉の 陽葵ひなたが声をかけても、怯えたように身を隠し、一言も話さなかった。
 まだ赤ん坊だった妹の 陽愛はるあにだけは、自ら近づいていったが、それも「言葉を話せない相手」だったからだろう。

 そんな颯空にとっては、同性で同い年の自分は、距離を取りつつも、その場にいる人間の中では、過ごしやすい存在だったのかもしれない。
 親たちが談笑する傍ら、俺たちは特にお互いに干渉せず、静かに本を読み、時折ゲームで遊ぶようになっていた。
 何度か顔を合わせるうちに、「この家の子どもたちは自分を傷つけない」と理解したのか、颯空はの表情は少しずつ和らいでいき、ときおり笑顔を見せるようになっていた。
 
 でも、その穏やかな日々は唐突に終わりを告げた。
 
 俺たちが小学校に上がった年、颯空の両親が飛行機事故で命を落とした。
 訃報の連絡を受けてから、夏休みぶりに再会した颯空の顔からは、あらゆる感情が抜け落ちていて、葬儀が終わった後には、僕らを含めて、誰とも会おうとしなくなった。
 颯空が引き取られた、祖父母の住んでる林家は、真壁家の向かえに位置していたので、俺らとも長年の付き合いがあった。
 息子夫婦を失った林夫妻と、両親を失った颯空は、見ていられないくらいに、どんどんと憔悴していった。
 俺の両親は、かなり心配をしていて、当時は林家へ頻繁に顔を出すようにしていたと思う。
 それでも、たまに見かける颯空の瞳には光がなく、目は開いているのに、何も映していないようにみえた。

 でもある日、母さんが「このままではいけない!!」と、引きこもる颯空に向かって宣言した。

「しばらく、うちの子たちと一緒に暮らそうか。」

 母からの提案に颯空は「うん」とも「嫌」とも言わなかったが、颯空の祖父母は母からの提案に賛成してくれたので、颯空は“預かられる”という形で真壁家に通うようになった。
 だが、母の“預かる”は普通と一味違ったようで、颯空だけの面倒をみるのではなく、林家と真壁家は一緒に暮らしているような不思議な形になり、寝る時以外の日中は、どちらかの家に集まり過ごした。
 そんな不思議な毎日は、常に賑やかで、いつの間にか大家族のように生活するのが、当たり前の日常になっていった。 それに、 真壁家おれたちの祖父母はすでに他界していたため、そんな生活を過ごしていくと、颯空の祖父母──カエ婆ちゃんとヤト爺ちゃんは、自然と“本当の祖父母”のような存在になっていった。

 そうした日常の中で、最初は食事の時しか姿を見せなかった颯空も、少しずつ居間で過ごす時間が増え、やがて皆と笑い合い、当たり前のように俺の隣に座るようになった。
 学校に通えるようになってからは、特に俺の後ろにベッタリとくっついて行動することが増えていったし、俺も、表情が消えてしまった颯空をもう見たくなくて、今の笑顔を守りたくて。成長と共に大きくなった自分の体格を活かすように、気がつけば颯空の親友兼、用心棒みたいな存在になっていた。
 それに、俺自身、颯空以上に大切に想える存在はできないと感じているのもあってか、颯空に過保護気味なのはちゃんと自覚している。

 が、過保護を除いても、最近の颯空の体調はあまり良いとは思えない。
 夏バテだと言っていたが、そうも思えない。

 カエばぁちゃんと少し話して、再び、居ないとわかってる颯空の部屋の襖を開ける。
「やっぱり、いないよな……」
 颯空の布団に腰をかけて、部屋を見渡す。

「……制服が……ない。」

 いつもかかっている場所に制服がない。
 よくみると通学の時に使っているリュックも、新学期に履くといっていった新しいスニーカーも棚に見当たらない。
 おかしい、新学期は2日後だ。
 携帯を見ても送ったメッセージには、まだ既読はついていない。
 突然このまま颯空と会えなくなるのではないかと、嫌な事ばかり浮かんでは、そんなはずないと思い直す。
「颯空、なんでもいいから、早く連絡返してくれ……」
 そう呟いた瞬間、携帯が震えた。

 急いで通知を見るも“宿題を写させてくれ”と、差出人はクラスメイトだった。こいつは悪くないが、今相手をする気にもならないでいたら、居間にいるカエばぁちゃんに呼ばれたので、後ろ髪を引かれながらも颯空の部屋を後にした。
 

 
 
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