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2部
第二話
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遅すぎた。
あれから定期的にちひろのことは追っていたが、仕事が立て込んでしまい、間が空いてしまった。
一息ついて、また彼女の様子を追えた頃には、彼女の暮らしていた家に不動産屋の広告がかけられていて、背筋が凍った。
たった数ヶ月でも、人一人の人生が脆く崩れ去るには十分すぎる期間であることは、自分が身をもって知っていたはずなのに。
ちひろの手を引きながら、いくは唇を噛む。
後悔しても仕方がない。
力がこもりそうになる指先を意識して緩めながら、あくまでも紳士的にちひろを駐車場へ案内する。
顔を見ただけで思い出してくれて良かった。
忘れられていたり抵抗されることも想定していたので、こんなにもあっさり自分に行く先をゆだねてくれるのはありがたかった。
バイクの座席から予備のヘルメットを出して手渡し、自分もヘルメットを被る。
「宇宙服みたい」と呟きながらヘルメットを被る彼女に、手持ちのジャケットも着せる。彼女にとってはかなり大きいが、ないよりはあった方がいいだろう。袖を折ってやって、彼女の全身を改めて確認し、座席に座るよう促したところで、ちひろは初めて自分たちが通ってきた道を振り返った。
なにか気になることでもあるのだろうかと黙って様子をうかがう。
「ほかの子、たちは?」
いまいち意図の読めないその言葉に、いくは首を傾げる。
あの場には彼女しかいなかったはずだ。
「私だけじゃ、みんなが可哀そう。…いっぱい、いっぱい、いるよ。みんな、私と一緒」
生は静かにちひろを見つめた。
彼女は、彼女の店の、他の女も、全員連れ出してくれと言っているらしい。
驚くことは無かった。むしろ、ああ、そういえばちひろはこういう子だった、と思った。
顔も知らない自分の姉を、火事の中探しに行くような少女。
あの時のまま、大人からすれば顔をしかめてしまうような痛々しい純粋さを持ったまま、過ごしてきたのだろう。
それっぽい言葉で丁寧に納得させることはできたが、今の彼女に冷静に考えさせる余裕を与えたくなかった。
自分の家は、仕事は、と、きりが無くなってくる。
脱走でなく、誘拐にならないうちに、自分のテリトリーに入れてしまう必要があった。
「ごめん、ちひろ」
生はちひろを抱き上げて、バイクに乗せる。
ちひろが何かを言う前に、座席にまたがりエンジンをかける。
ちひろの手を自分の体に回させて、なだめるように軽く叩き、生はアクセルを踏んだ。
***
今更ながら、ちひろは決断を生に任せてしまったことに気付いた。
嫌なオンナだ、と思った。
不遇な境遇の中で小公女のように生きたわけでもなく、垂らされた糸を掴もうとすらしなかった自分は、傍から見れば「仕事を投げ出しただけの迷惑な女」で「なにも決められない卑屈な女」だった。
落ちないように回した腕に力を籠める。
それでも、生に見限ってほしくなかった。
この幸運を、なかったことにしたくなかった。
仲良くなった少女や、これからもあの場所で働くことになるのだろう少女たちのことを思い出さないように背中に頭を預ける。
ヘルメット越しでは届かない体温がもどかしく、ちひろは滲んだ涙が目的地に届くころには引くように目を強くつむった。
かなりの長距離をバイクは走っていく。
この分ならおそらく隣の県に入るだろう。時折目につく交通標識を見ながらちひろは思う。
なんとなく行き先を知ってはいけない気がして、青い看板が目に入らないように、ちひろはぼんやりと流れる景色に意識を向ける。
真夜中の高速道路は初めてだった。乗用車よりトラックの多い道の隙間を、滑るようにバイクは進む。
冬ではないが、やはり体に直接あたる風は冷たかった。
山の中の高速道路を降り、街の中をゆっくりと走り、そこそこ新しく綺麗な駅の脇を抜け、ようやくバイクはスピードを落とす。住宅街の端の、塀に囲まれた小さな一軒家のガレージの前に、バイクは止まった。
生は「着いた」とちひろの手を軽く叩く。
ちひろが回していた手を緩めると、生はスタンドを立て、バイクから降りる。
「ちひろ、降りられる?」
頷こうとして、ちひろはバイクの降り方を知らないことに気が付いた。
座席の余白に手をついてみるが、腰が持ち上がらない。足も地面からは少し遠く、ちひろは跳び箱から降りれなくなった小学生のように途方に暮れた表情を生に向けた。
生はちょっと笑って手を広げる。
少し恥ずかしくて「ありがとうございます」と小さく言いながら支えられつつバイクを降りる。
車庫のシャッターを上げ、バイクを押して中に入る生の後ろをついていきながら、ちひろは「生」と名前を呼んだ。
「なぁに」
生はバイクを立ててちひろの方を向いた。
「わがまま、言ってごめんね。迎えに来てくれて、嬉しい。ありがとう」
忘れないうちに、タイミングを逃さないうちに、バイクの上で悶々と練っていた謝罪を口に出す。
多分彼は自分よりずっと大人で、頭も良い。自分があれこれ考えていることを、彼が考えていないはずはないのだ。
彼は自分にとってはまるで王子様のように迎えに来てくれたけれど、みんなに同じことができる神様ではない。
「…いいよ」
静かに返しながら眉を下げる生の表情は、ちひろには分からなかったが、思ったより柔らかい声に、ちひろは安堵の息をもらした。
話を区切るように、「大丈夫?酔わなかった?」と生にヘルメットを外される。
「うん、大丈夫」
「顔色、あんまりよくないよ」
「ちょっと疲れただけだよ」
「そっか。ご飯か、風呂か、布団か、どれがいい?」
「ん、…お風呂?」
「分かった」
話す間に、生も自身のヘルメットを外し、ちひろを案内するように歩き始めた。
家の中は綺麗と言うより、物が少なく、生活感もあまり感じられない印象だった。
玄関には靴が置きっぱなしになっていたりしないし、壁にカレンダーがかけられているわけでもない。カーテンは柄の無いもので統一されており、テーブルにはティッシュも筆記用具も乗っていなかった。自分の部屋とは大違いだ、とちひろは感心する。
風呂場に移動し、タオルはここ、着替えは来客用のものを後で出しておく、洗い物はこのネットに入れて洗濯槽の中に入れておいて、と説明を受けながら、ちひろは今更ながら男性の家で一番初めにお風呂に入りたいと言ったことに気まずさを感じた。
上着を着せてもらったものの、バイクでの長距離移動は寒く、疲れもあったため、考えなしに風呂を選択したが、迷惑では無かっただろうか。
しかも、自分がこうなら生はもっと疲れているし寒いし眠いのではないだろうか。
「どうかした?」
途中から説明に対し上の空な様子で、自分の方に目線を注ぐちひろに、生は目線を合わせた。
「生、先にお風呂入らなくて大丈夫?」
いまだ手袋も付けたままの生を見ながら不安そうに言ったちひろに、なんだそんなことか、とでも言うように、生は微笑んで「全然、俺は後から入るから大丈夫、ありがとう」と返した。
それ以上食い下がるのも無粋な気がして、ちひろは「そっか」と眉を下げた。
あれから定期的にちひろのことは追っていたが、仕事が立て込んでしまい、間が空いてしまった。
一息ついて、また彼女の様子を追えた頃には、彼女の暮らしていた家に不動産屋の広告がかけられていて、背筋が凍った。
たった数ヶ月でも、人一人の人生が脆く崩れ去るには十分すぎる期間であることは、自分が身をもって知っていたはずなのに。
ちひろの手を引きながら、いくは唇を噛む。
後悔しても仕方がない。
力がこもりそうになる指先を意識して緩めながら、あくまでも紳士的にちひろを駐車場へ案内する。
顔を見ただけで思い出してくれて良かった。
忘れられていたり抵抗されることも想定していたので、こんなにもあっさり自分に行く先をゆだねてくれるのはありがたかった。
バイクの座席から予備のヘルメットを出して手渡し、自分もヘルメットを被る。
「宇宙服みたい」と呟きながらヘルメットを被る彼女に、手持ちのジャケットも着せる。彼女にとってはかなり大きいが、ないよりはあった方がいいだろう。袖を折ってやって、彼女の全身を改めて確認し、座席に座るよう促したところで、ちひろは初めて自分たちが通ってきた道を振り返った。
なにか気になることでもあるのだろうかと黙って様子をうかがう。
「ほかの子、たちは?」
いまいち意図の読めないその言葉に、いくは首を傾げる。
あの場には彼女しかいなかったはずだ。
「私だけじゃ、みんなが可哀そう。…いっぱい、いっぱい、いるよ。みんな、私と一緒」
生は静かにちひろを見つめた。
彼女は、彼女の店の、他の女も、全員連れ出してくれと言っているらしい。
驚くことは無かった。むしろ、ああ、そういえばちひろはこういう子だった、と思った。
顔も知らない自分の姉を、火事の中探しに行くような少女。
あの時のまま、大人からすれば顔をしかめてしまうような痛々しい純粋さを持ったまま、過ごしてきたのだろう。
それっぽい言葉で丁寧に納得させることはできたが、今の彼女に冷静に考えさせる余裕を与えたくなかった。
自分の家は、仕事は、と、きりが無くなってくる。
脱走でなく、誘拐にならないうちに、自分のテリトリーに入れてしまう必要があった。
「ごめん、ちひろ」
生はちひろを抱き上げて、バイクに乗せる。
ちひろが何かを言う前に、座席にまたがりエンジンをかける。
ちひろの手を自分の体に回させて、なだめるように軽く叩き、生はアクセルを踏んだ。
***
今更ながら、ちひろは決断を生に任せてしまったことに気付いた。
嫌なオンナだ、と思った。
不遇な境遇の中で小公女のように生きたわけでもなく、垂らされた糸を掴もうとすらしなかった自分は、傍から見れば「仕事を投げ出しただけの迷惑な女」で「なにも決められない卑屈な女」だった。
落ちないように回した腕に力を籠める。
それでも、生に見限ってほしくなかった。
この幸運を、なかったことにしたくなかった。
仲良くなった少女や、これからもあの場所で働くことになるのだろう少女たちのことを思い出さないように背中に頭を預ける。
ヘルメット越しでは届かない体温がもどかしく、ちひろは滲んだ涙が目的地に届くころには引くように目を強くつむった。
かなりの長距離をバイクは走っていく。
この分ならおそらく隣の県に入るだろう。時折目につく交通標識を見ながらちひろは思う。
なんとなく行き先を知ってはいけない気がして、青い看板が目に入らないように、ちひろはぼんやりと流れる景色に意識を向ける。
真夜中の高速道路は初めてだった。乗用車よりトラックの多い道の隙間を、滑るようにバイクは進む。
冬ではないが、やはり体に直接あたる風は冷たかった。
山の中の高速道路を降り、街の中をゆっくりと走り、そこそこ新しく綺麗な駅の脇を抜け、ようやくバイクはスピードを落とす。住宅街の端の、塀に囲まれた小さな一軒家のガレージの前に、バイクは止まった。
生は「着いた」とちひろの手を軽く叩く。
ちひろが回していた手を緩めると、生はスタンドを立て、バイクから降りる。
「ちひろ、降りられる?」
頷こうとして、ちひろはバイクの降り方を知らないことに気が付いた。
座席の余白に手をついてみるが、腰が持ち上がらない。足も地面からは少し遠く、ちひろは跳び箱から降りれなくなった小学生のように途方に暮れた表情を生に向けた。
生はちょっと笑って手を広げる。
少し恥ずかしくて「ありがとうございます」と小さく言いながら支えられつつバイクを降りる。
車庫のシャッターを上げ、バイクを押して中に入る生の後ろをついていきながら、ちひろは「生」と名前を呼んだ。
「なぁに」
生はバイクを立ててちひろの方を向いた。
「わがまま、言ってごめんね。迎えに来てくれて、嬉しい。ありがとう」
忘れないうちに、タイミングを逃さないうちに、バイクの上で悶々と練っていた謝罪を口に出す。
多分彼は自分よりずっと大人で、頭も良い。自分があれこれ考えていることを、彼が考えていないはずはないのだ。
彼は自分にとってはまるで王子様のように迎えに来てくれたけれど、みんなに同じことができる神様ではない。
「…いいよ」
静かに返しながら眉を下げる生の表情は、ちひろには分からなかったが、思ったより柔らかい声に、ちひろは安堵の息をもらした。
話を区切るように、「大丈夫?酔わなかった?」と生にヘルメットを外される。
「うん、大丈夫」
「顔色、あんまりよくないよ」
「ちょっと疲れただけだよ」
「そっか。ご飯か、風呂か、布団か、どれがいい?」
「ん、…お風呂?」
「分かった」
話す間に、生も自身のヘルメットを外し、ちひろを案内するように歩き始めた。
家の中は綺麗と言うより、物が少なく、生活感もあまり感じられない印象だった。
玄関には靴が置きっぱなしになっていたりしないし、壁にカレンダーがかけられているわけでもない。カーテンは柄の無いもので統一されており、テーブルにはティッシュも筆記用具も乗っていなかった。自分の部屋とは大違いだ、とちひろは感心する。
風呂場に移動し、タオルはここ、着替えは来客用のものを後で出しておく、洗い物はこのネットに入れて洗濯槽の中に入れておいて、と説明を受けながら、ちひろは今更ながら男性の家で一番初めにお風呂に入りたいと言ったことに気まずさを感じた。
上着を着せてもらったものの、バイクでの長距離移動は寒く、疲れもあったため、考えなしに風呂を選択したが、迷惑では無かっただろうか。
しかも、自分がこうなら生はもっと疲れているし寒いし眠いのではないだろうか。
「どうかした?」
途中から説明に対し上の空な様子で、自分の方に目線を注ぐちひろに、生は目線を合わせた。
「生、先にお風呂入らなくて大丈夫?」
いまだ手袋も付けたままの生を見ながら不安そうに言ったちひろに、なんだそんなことか、とでも言うように、生は微笑んで「全然、俺は後から入るから大丈夫、ありがとう」と返した。
それ以上食い下がるのも無粋な気がして、ちひろは「そっか」と眉を下げた。
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