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第二章
2 情
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如雨露に水を汲み、その隙間から水面を覗き込んでみる。ただの水面では色までは分かりにくいけれども、頬が腫れているのは分かった。
これは冷やさないといけない。使用人たちならともかく、セシルに見つかるのはまずい。何も言わずとも彼は、フィオナが母にされた仕打ちを見抜いて、母に激しい怒りを向けるだろうから。
「ねえ、フィオナ。母さんに何かされたでしょ」
小屋の扉が開く音と共に、後ろから彼の声がして、フィオナの肩が震えた。ああ、来てしまった。
母はセシルには甘いけれど、フィオナが関することでは譲らない。セシルが母に何か言いに行こうものなら、家中の空気が冷え切る。だから知られたくないのに、彼は何かあったことを察するのも早くて、隠すのも間に合わない。
「何でもないわ」
さっと顔を逸らすも、これでは怪しい。なんとかして顔を隠せないかと思考を巡らせているうちに、彼が間近に迫ってくる。慌てて後ろに下がるも、数歩下がったところで肩が硝子の壁に触れた。
彼の視線が痛いほど刺さる。それは母への怒りから来るもので、フィオナに向けられたものではない。だけど彼から滲み出る苛立ちは、フィオナの身体を強張らせた。
「顔、見せて」
「だめ」
「じゃあ仕方ない」
諦めてくれたのかと期待したが、違う意味だったらしい。彼の片方の手がこちらの手を掴み、もう片方の手が頬にかかっていた髪を避けた。
「また殴られたの」
「そんな大げさな」
「でも真っ赤だ。数日腫れるんじゃないかな」
彼の指が腫れた部分におそるおそる触れる。こちらが痛みに顔をしかめた途端離れるそれを、フィオナは目で追った。
「手当てしてあげる。行こう」
「先に水やりさせて」
「手当てが先」
フィオナが素直に頷けずにいると、彼は渋々如雨露を手に取った。
「分かったよ。二人でやって早く終わらせよう」
「あ、ありがとう」
「いいから如雨露持って」
水が汲まれた如雨露を押し付けられ、慌てて水やりをする。終わると、片付けもろくにしないまま小屋から連れ出された。
セシルの一歩一歩は大きくて、フィオナが小走りで進まないとついて行けない。普段彼と並んで歩けているのは、彼が意識的にゆっくり進んでいるからなのだと思い知らされるようだった。
「セシル、待ってよ」
「ごめん」
彼が振り返り、それから目を伏せた。フィオナの腫れた頬を見たくないからというのもあるだろうけれど、母に対する怒りを鎮めるためでもあるような気がして、どう振る舞えばいいか分からなくなる。
「助けてあげられなくて、ごめん」
「セシルは悪くない」
「ううん。母さんの機嫌が悪いのは分かってたんだ。フィオナを一人にさせるべきじゃなかった」
少なくとも俺がいれば殴られないでしょ。彼がそう呟く。伏せられた目がほんの少しこちらを向いて、フィオナの声が詰まる。
「だとしても、セシルは悪くないわ」
躊躇ってからようやく口にした言葉に、彼はやっと表情を柔らかくした。
「手当て、してくれるんでしょう」
「うん。早く行こう」
歩き出した彼は、いつも通り歩幅を合わせてくれている。
こうして横に並んでいると、彼はフィオナをただ想ってくれているのではないかと考えてしまう。妬まれている、憎まれているはず。そう思っていたけれど、フィオナの思い込みに過ぎなかったのだろうか。もし自分が、彼に向けている妬みや憎しみに対する罪悪感を、彼にも同じように思われているはずだと思い込むことで薄れさせていたのだとすれば、セシルのことをずっと誤解していたことになる。
彼が被っているはずの仮面は彼が作り出したものではなく、フィオナが見出した幻なのではないだろうか。きっと本当の彼はもっと素直で、優しくて、それから――。
「俺の顔見ても何もないよ」
「え、そんなに見ていたかしら」
「見てたよ」
フィオナが首を傾げると、彼は口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「どうして?」
「いいから」
嬉しそうにこちらを振り返りながら歩く彼に、フィオナは再び首を傾げるのだった。
これは冷やさないといけない。使用人たちならともかく、セシルに見つかるのはまずい。何も言わずとも彼は、フィオナが母にされた仕打ちを見抜いて、母に激しい怒りを向けるだろうから。
「ねえ、フィオナ。母さんに何かされたでしょ」
小屋の扉が開く音と共に、後ろから彼の声がして、フィオナの肩が震えた。ああ、来てしまった。
母はセシルには甘いけれど、フィオナが関することでは譲らない。セシルが母に何か言いに行こうものなら、家中の空気が冷え切る。だから知られたくないのに、彼は何かあったことを察するのも早くて、隠すのも間に合わない。
「何でもないわ」
さっと顔を逸らすも、これでは怪しい。なんとかして顔を隠せないかと思考を巡らせているうちに、彼が間近に迫ってくる。慌てて後ろに下がるも、数歩下がったところで肩が硝子の壁に触れた。
彼の視線が痛いほど刺さる。それは母への怒りから来るもので、フィオナに向けられたものではない。だけど彼から滲み出る苛立ちは、フィオナの身体を強張らせた。
「顔、見せて」
「だめ」
「じゃあ仕方ない」
諦めてくれたのかと期待したが、違う意味だったらしい。彼の片方の手がこちらの手を掴み、もう片方の手が頬にかかっていた髪を避けた。
「また殴られたの」
「そんな大げさな」
「でも真っ赤だ。数日腫れるんじゃないかな」
彼の指が腫れた部分におそるおそる触れる。こちらが痛みに顔をしかめた途端離れるそれを、フィオナは目で追った。
「手当てしてあげる。行こう」
「先に水やりさせて」
「手当てが先」
フィオナが素直に頷けずにいると、彼は渋々如雨露を手に取った。
「分かったよ。二人でやって早く終わらせよう」
「あ、ありがとう」
「いいから如雨露持って」
水が汲まれた如雨露を押し付けられ、慌てて水やりをする。終わると、片付けもろくにしないまま小屋から連れ出された。
セシルの一歩一歩は大きくて、フィオナが小走りで進まないとついて行けない。普段彼と並んで歩けているのは、彼が意識的にゆっくり進んでいるからなのだと思い知らされるようだった。
「セシル、待ってよ」
「ごめん」
彼が振り返り、それから目を伏せた。フィオナの腫れた頬を見たくないからというのもあるだろうけれど、母に対する怒りを鎮めるためでもあるような気がして、どう振る舞えばいいか分からなくなる。
「助けてあげられなくて、ごめん」
「セシルは悪くない」
「ううん。母さんの機嫌が悪いのは分かってたんだ。フィオナを一人にさせるべきじゃなかった」
少なくとも俺がいれば殴られないでしょ。彼がそう呟く。伏せられた目がほんの少しこちらを向いて、フィオナの声が詰まる。
「だとしても、セシルは悪くないわ」
躊躇ってからようやく口にした言葉に、彼はやっと表情を柔らかくした。
「手当て、してくれるんでしょう」
「うん。早く行こう」
歩き出した彼は、いつも通り歩幅を合わせてくれている。
こうして横に並んでいると、彼はフィオナをただ想ってくれているのではないかと考えてしまう。妬まれている、憎まれているはず。そう思っていたけれど、フィオナの思い込みに過ぎなかったのだろうか。もし自分が、彼に向けている妬みや憎しみに対する罪悪感を、彼にも同じように思われているはずだと思い込むことで薄れさせていたのだとすれば、セシルのことをずっと誤解していたことになる。
彼が被っているはずの仮面は彼が作り出したものではなく、フィオナが見出した幻なのではないだろうか。きっと本当の彼はもっと素直で、優しくて、それから――。
「俺の顔見ても何もないよ」
「え、そんなに見ていたかしら」
「見てたよ」
フィオナが首を傾げると、彼は口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「どうして?」
「いいから」
嬉しそうにこちらを振り返りながら歩く彼に、フィオナは再び首を傾げるのだった。
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