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第4話 魔法世界その3

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 お師匠様のお家から更に一時間くらい歩くと、木々に囲まれた大きなみずうみが見えてきた。
 彼は少し大きいと言ったが、少なくとも対岸たいがんが見えない程度には大きい。
 遠くには山がいくつもあり、中には暑い時期であるにも関わらず雪を被っている山もある。

「どう? ここ、とっておきの場所なんだ。よく釣りをして魚をったものだよ」

 確かに初めて来た私でもこの場所の美しさには心打たれるものがある。

「あれ?」

 すばるくんが何かを見つけて走りだすと、その先には人影が一つぽつんと見えた。

 私も少し遅れて昴くんに追いつこうと走るけど、差はどんどんと開くばかり。

 どうも、肉体が亡くなった時点で身体の性能は止まるらしい。

 だから、私みたいに足の遅い人間は亡くなって幽霊になっても、足が遅いままなのだ。

 これはここに来るまでに痛感している。
 この一ヶ月間、私はずっと昴くんに足並みを揃えて貰っていた。
 申し訳ない気持ちが強かったけど、昴くんは全く気にしていない様子で、それはそれでまた気持ちが重くなった。

「――やっと追いついた……」

 昴くんに追いつくと、そこには五十代から六十代だろうか、オールバックの長い白髪はくはつに白い顎髭あごひげたくわえ、大柄で良い年の取り方をした素敵なオジサマが椅子いすに座って釣りをしていた。

「師匠! お久しぶりです!」

 師匠と呼ばれたオジサマは昴くんを見ると、あまりの衝撃に一瞬石化してしまっていた。
 無理もない話だ。肉体の状態が止まってしまうということは、年齢も止まっているのだろう。

 このお師匠様が知っている昴くんのまま、三十年経って改めて突然目の前に現れたのだ、驚くのも当然だ。

「スバルか、久しいな。見たところ歳を取っておらぬようだが、誰の魔法だ?」

「やだなぁ、言うわけないじゃないですか」

「……それもそうか」

 けわしい顔つきのお師匠様に対して、飄々ひょうひょうとした態度で対応する昴くん。
 きっと、彼がお師匠様の元で修習しゅうしゅうしていたころもこんな感じだったのだろう。

 それにしてもなるほど。この世界は魔法があると言っていたから、肉体年齢が変わっていないというのもありえる……のかな? 本当に?

「お前の魔法は使えぬ魔法だったからな。全く、せっかく才能があったというのに……」

「ははは、過大評価ですよ。そうだ、今からここで絵を描こうと思ってたんです」

「また絵か、変わらんな……。それより、そちらのご令嬢れいじょうはどうした」

 きびしそうな眼で私の方に視線が向けられる。
 別に何か悪いことをしているわけではない。毅然きぜんとした態度を取っていればいいはず。

「あ、それぞれ紹介が遅れちゃいましたね。まずこちらがハーツ=グラン師匠です。僕のグランというせいもお師匠様からいただいてるんです」

「ハーツ=グランだ。よろしく頼む」

「は、はい!」

 なぜだろう。別に何か悪いことをしているわけではないのに、怒られた気分になってしまう。

「で、こちらが僕の奥さんの北山きたやま 黒江くろえちゃんです! クロエちゃんって呼んであげてください!」

 ハーツさんが一瞬驚いた顔をした後に、眉間みけんを押さえてなやましい顔をしている。

 ごめんなさい。多分、言いたいことはわかります。

「正気か? クロエじょう?」

「えーっと……。まぁ、正気です」

 ハーツさんは大きくため息をつく。

「僕が結婚して最初にお師匠様に挨拶あいさつうかがおうと思ったんです。これからまた旅に出るので、しばらくお会い出来ないと思いますけど」

「三十年前もそうやって出て行って、帰って来たのが今なのだがな……。まぁよい。クロエ嬢、スバルは悪いやつではないのだがな、まぁ、その、何だ……」

 ハーツさんが明らかに言葉を選んで困っている様子が伺えた。

「あ、大丈夫です。何となく言いたいことはわかりますので……」

「そこまで理解できているなら……。まぁいか」

 ハーツさんが口元がゆる安堵あんどしたようだった。
 きっと、この人はこの人で昴くんのことが心配だったのだろう。

「ねえー! ここでこうと思うんだー!」

 五十メートル位離れた場所で昴くんが大きく手を振っている。
 いつの間にあんな遠くまで行ったのだろう。

「行ってきてくれ、私は帰る。ここはあいつの居場所だ、邪魔しても悪い。クロエ嬢、スバルを頼んだ」

 その言葉を最後にハーツさんは一礼いちれいをして、一人歩いて帰って行ってしまった。

 特に彼へ別れの挨拶あいさつをするでもなく――いや、きっと挨拶などしなくても良い間柄あいだがらなのだろう。
 もし次会うのが十年後であっても、明日であっても、きっと同じ挨拶をするのだ。

 まぁ、流石に身体が変わってないのには驚いていたみたいだけど。

 私は昴くんのところへゆっくりと歩いていくと、彼はいつの間にか大きなキャンバスを持っていた。
 どこから取り出したのだろうか。全く検討けんとうがつかない。これも彼の魔法なのだろうか。

「見ててね、黒江ちゃん。僕の魔法」

 そう一言、笑いながら彼が右手を天にかかげると、空の色が林の色が、そして湖の色が、まるで煙を吸い込むように彼の右手に集まって来た。

 空の青は人差し指に、林の緑は中指に、湖の水色は薬指に、それぞれ吸収されて指先の色が変色している。
 もちろん単純な色だけではない、両手十本の指にそれぞれ複雑な色合いが吸収され、彼の指がまさに『カラーパレット』のように変化した。

「驚いた? これが僕の魔法『カラーパレット』だよ。景色の色を指に吸収して絵の具に出来るんだ」

「お、驚いた……けど。これで絵を描くの? 筆とか使わないの?」

「使わないよ、指で絵を描くんだ。僕の魔法はの魔法なんだ」

 そう言い、彼はキャンバスに風景をえがき始めた。

 何時間もかけて、無くならない指の絵の具でひたすら描き続ける。

 私はそれをずっと横で見守り続けた。

 そして、夜が近づく頃に一つの絵が完成した。


◇ ◇ ◇


「じゃーん、どうかな? タイトルは『湖面こめん』かな。黒江ちゃんと新婚旅行ハネムーンの最初の一枚」

 彼は嬉しそうに描かれたキャンバスを私に見せてくる。

 まるで写真のような精密せいみつさでえがかれた山々と、そして絵画かいがであることを引き立たせる荒々しい湖面の水の動き。素人の私でもわかる、これは天才的な絵だ。

 今までも私の部屋で何度も見せてくれていたはずなのに、どうして気が付かなかったのだろう。

 彼は本当に嬉しそうに笑う。子供のような顔で。

「こんな感じでさ。僕は黒江ちゃんと色んな思い出を色んな世界で作っていきたいんだ」

「でも、それなら並行世界じゃなくて元の世界でも良かったんじゃないの……?」

 昴くんは微笑ほほえむように私の眼を見つめてくる。

「だって、黒江ちゃん。疲れてたでしょ?」

「えっ……?」

「黒江ちゃんには一度全てをリセットして自由になってほしかったんだ。もちろん、僕が勝手に考えて勝手に押したリセットボタンだってのはわかってる。それでも、僕が疲れていた時に助けてくれた黒江ちゃんに何かできないかって思って……」

 今まで見せたことのない顔を昴くんがしている。

 不器用かもしれないし、何を考えているのかわからないところがあるけど、彼は彼なりに私のことを考えていてくれたんだ。

「だから、今度また疲れちゃったときは絶対に僕に言ってね!」

「ありがとう、肉体とか背負せおっていたものとか、色んなものを捨てたら凄く身軽になったと思うよ。昴くんのおかげだと思う」

 肉体が死んだこの身体は、心が弱ったら死んでしまったり、夜に眠ることが出来なかったり、不便なところも多いけど、それでも元の世界にいた時よりも気が楽になった気がする。

 それだけ肉体を維持するっていうのは大変なことだったんだ。
 精神と肉体のどっちかだけなら、確かに楽かもしれない。

 でも、これは私しか知らないズルをしている状態。

 昴くんがいなかったら出来なかったズルいやり方。

 そういう後ろめたさはある。

「……いい絵だね」

 私は自分の考えを誤魔化ごまかすように彼の持つキャンバスを受け取り、近くでしっかりと描かれた指跡ゆびあとを感じ取った。
 それは間違いなく彼の指でえがかれたもので、筆ではえがくことの出来ない荒々あらあらしさと繊細せんさいさが混じったタッチだった。

「ねぇ、昴くん?」

「なに? 黒江ちゃん」

「次はどこにいくの?」

 一瞬きょを突かれた顔をしたけど、彼はすぐに満面の笑みを浮かべた。

「えっとねぇ、どこがいいかな? 今度は黒江ちゃんの行きたいところにするよ!」

 彼が私の胸に飛び込んでくる。

 よくわからないし、色々と思いを抱えたまま始まった新婚旅行ハネムーンだけど、どうやら次の目的地も決まりそうだった……。
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