されど誰(た)が為の恋は続く

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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結章

結章 第三部 第四節

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 惨劇さんげき

「イヅェン! ちょっと―――待ちなさい! イヅェン!」

 惨劇だ。

「あなた本当に最近どうかしてるわよ。お母様じゃあるまいし……お母様みたいに、このままだと死んじゃう気がしてるのよ、わたしは! ほら、ちゃんとわたしの目を見なさい! イヅェン! キルルよ―――イヅェン!!」

 惨劇だった!

 受けた衝撃のまにまに愴然そうぜんとして、イヅェンは左手で顔を押さえた。その指のさくの内側から、おぞましい澆季ぎょうきを見下げ果てる。

 駆けつけるのが遅かった。韋駄天いだてんのごとき敏捷びんしょうさで、姉を連れ去っていった魔物の化身もそうだが……追走を阻もうとこの胸元にすがりついて離れない双子の醜悪しゅうあく極まる末路こそ酸鼻さんびに耐えず、嘆声たんせい戦慄わななくに任せるしかない。

「おいたわしや―――小姉君ちいあねぎみまで楽園のとりこへ下されるとは……」

 ただでさえ突き付けられていた現実から更に食らわされた不意打ちに、前のめりになっていた頭を上げて、ふらりと半歩後ずさる。その半歩だけだ……彼が後退したのは。

 わきにいるに違いないしもべへ、抜かりなく宮廷儀礼を済ませ―――『これから話しかける』―――、イヅェンは命令した。

「魔物の毒気が抜けるまで小姉君ちいあねぎみを幽閉せよ。父王ちちおうのように、十年あまりで済むことを祈りて―――」

御意ぎょい

 返答は早く、その手際もまた早い。はずだ。

 見もせず―――王家にその必要はない―――に、きびすを返して目的地へ向かう。右手にげたこんに力を込めて、敵対の決意を重ね書きした。背の高い若い男……そう見えただけのもの・・へ。

「魔物が現出げんしゅつした、この機をがしてなるものか……ヴァシャージャーよ―――司左翼しさよくを総動員にしてでも、の化け物を抹殺まっさつせしめん!」

 そうして、幾許いくばくか……幾刻いくこくか―――

 羊水を泳ぐように―――産道をうように。母の胎内たいないで聞くような、どこからともなく湧き立ってくる物音のけたたましさが、魔物の手中で握り潰されつつある王冠の大災厄だいさいやくをひしひしと知らしめてくる中を、進み抜いて……記憶にある扉が見えてくる。王城執務室だ―――司左翼の。

 どん! と肩口からぶつかるようにもたれかかって、イヅェンは来訪を告げた。

 そこから身を起こすこと、しばし。特に飾るでもなく、外開きの扉が開けられる。

 現れたのは、唯任ゆいにんそう騎士きしその人ではなく、彼の継次官けいじかんだった。短くした灰色の直毛には寝癖も無いが、たとえ仮眠していたとしても分からない程度には板についた真顔で伏し目がち―――このまま彼が許さなければ彼女は生涯を通して目を伏せ続けねばならない―――に、そのままドアノブを押さえて道を開けてくる。なんなら、騎士らしく膝行しっこうしようとしたのかも知れないが、聴許ちょうきょしている余裕はなかった。こんを連れていない手で『省け』を示して、室内へ踏み込む。

 書棚や書類を壁際に控えさせた応接セットがぽつねんと中央にこしらえられているだけの一間ひとまには、誰もいなかった。首を巡らすと、入ってきた扉と対角にある別のドアを開けて―――その男が、とうにたたずんでいる。人目を気にする程度には控え目に色の軍服をくつろがせた、壮年の軍人。その黒瞳こくどうに目を合わせると、彼もまた床へと逃がしていた目を上げて、流したままの長い黒髪の奥から、静かな興味を向けてきた。彼の眼光に月光じみた熱のえを錯覚したのは、その顔のいかめしいしわ輪郭りんかくを裂く三条の瘢痕はんこんが、重なり合う三日月のように白々として、浮世離れして見えたせいかもしれない。

 イヅェンを応接間から執務室内へ招き終えると、彼は廊下との扉に目をくれてやってから、手元の扉を閉めた。気を回して、継次官けいじかんを退室させてくれたようだ。ありがたいが、そのことに礼を済ませるどころか、宮廷儀礼を挟む時間も無かった……のだが、結局はどちらのせいもあって―――手が『省け』のままだった―――、ヴァシャージャーから口火を切られる。

「これは殿下。このような刻限に、わざわざ足をお運びいただくとは。如何いかような御用向きで?」

 二人しかいない部屋の中ではさほど声量は必要ないということか、政務区画で夜に登庁してくる物好きな役人もいないなりの静寂に水を注す引け目からか、いつも以上に朴訥ぼくとつとした口ぶりだが。

 その調子さえ事態の無理解からくる大いなる陋劣ろうれつであると断じて、儀礼を解いた片手を拳に、強談きょうだんする。

「可及的すみやかに、命令一下めいれいいっかを司左翼へ。最悪の事態が―――」

「おそれながら、後継階梯こうけいかいてい附任ふにん権が失効されている現状で、拝命することは致しかねます」

 想定されていた正答ではあった。

 どうあっても、そうではない回答を引きずり出さねばならない。こころから、観想かんそうしているすべてを披瀝ひれきする。

姉君あねぎみさらわれた」

「……ほう? 姉とは。小姉君ちいあねぎみたるキルル姫でなく」

 ちらと相手の目の色が、八年前からの軍歴に医者だった過去歴を含み直して、混和ににごった―――その、よどんだ眸底ぼうていの眼識に理解の光がともるまで、打ち明け続けるしか手はない。

 イヅェンは手にしたこんのようにまっすぐ直立し直して、もう半歩ほどにじり寄りながら泡を飛ばした。

「姉君シヴツェイア・ア・ルーゼは、後継第一階梯こうけいだいいちかいていである! あの日―――【血肉の約定】の革命日、犠牲の幸先さいさきとなった霹靂へきれきザーニーイに代わり、ゼラ・イェスカザを名乗る旗司誓きしせいが、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>からこの神蛇しんだの腹へと献納けんのうたてまつった! それを攫うべくして、魔物が現れた! 既に城内へ侵入を許している……姉君を奪還し、今こそ父母のあだを討たねばならない!」

「……ゼラ・イェスカザ。イェスカザ?」

 ―――ふと。

 ごとのように、ヴァシャージャーがその名を噛み砕いて、考え深げに眉宇びうじる。かるく丸めた片手を口許くちもとにすると、まるでその中に吹き込むように……胸奥から、そこに吹き溜まっていた言葉を、つぶやいてきた。

「後継第一階梯。シヴツェイア。霹靂へきれき。ザーニーイ。【血肉の約定】。と、ゼラ―――旗司誓のゼラ。それは……正体不明を暗喩あんゆする隠語のゼラを意味しての、いち旗司誓に対する単なる通称ではなかったのですか? ゼラ・イェスカザと―――みずから、名乗ったのですか? その者は。霹靂へきれきは死んだと。<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>から。後継第一階梯を差し出して」

然様さようだ!」

 首肯までしたイヅェンの、目前で。

 こうまで世界はすげ替わる。

 豹変ひょうへんはまず―――ヴァシャージャーから。

「はは―――はははハハハハは!!」

 それは国家の一大事と腰を上げ辣腕らつわんを振るうはずの男は、ただただ胸をむしり、腹をかかえては首をいて、盛大な哄笑こうしょうをぶちまけていく。その手つきは、まるで自傷するように―――ためらい傷のように……あるいは、ついてしまった致命傷を誤魔化ごまかしてくれる痛みを、いたましいまでに今でも求めているように。そう見えた。

「そうか、そうかあ……―――だから、道理で! 彼は! あの人は!! ははアはははははは!!」

 肺腑はいふを絞り、顔面を過去の瘢痍はんいもろともゆがませて、浮かんだ涙を痙攣けいれんする眼瞼がんけんひねり潰しても、なお凄絶せいぜつなまでに高笑いし続ける。わらうしかないとでも言いたげに―――唯任ゆいにん左総騎士さそうきしから化けたものが、化けゆくなりに禍々まがまがしい峻嶮しゅんけんさを毎分毎秒さらけ出しつつも、それなのにヴァシャージャーのまま目の前に存在する。このようなことは……これは―――

これはなんだ・・・・・・―――」

 思わず口にしながら―――それでもイヅェンは、それを見ているしかなかった。絶句を呑まされるまま棒立ちとなって、我知らずこんを手落としてしまっても、それを見送っていた……

 満身から五臓六腑ごぞうろっぷを煮上げるように【わら】い終えたその男は、やや前傾ぜんけいさせてしまっていた上背うわぜいを伸ばした。ゆっくりと、そのまま胸をらして……いつしか だらりと前に垂らしていた両腕を腰の裏にまで引き下げ、立ち尽くす。ひとしきりしわ古傷ふるきずを深め終えた顔貌がんぼうが、卓上にひとつきりの提灯ランプから照らし出されて、凹凸おうとつの陰影を濃くしている―――だけかと思えたが。違う。この男は、イヅェンではなく、イヅェンの背後に置かれた執務机の上を見ていた。燈火とうかに向き合うように首の角度を変えたので、影の濃淡を強めたのだ。

 思わずそちらへ振り返るが、そこにあったのはやはり提灯ランプである―――それを乗せた大机と、そこにめ込まれた執務椅子いすと。変哲なく、執務室に似つかわしい。似つかわしくないのは……このヴァシャージャーにそっくりな怪物と、机上に放り出されている奇妙な形をした文鎮ぶんちん―――

「悪いが。然様サヨウならナラ。これまで、だ」

 耳朶じだの内へと吹き込まれた、言葉。

 いていこうとする調しらべの中でイヅェンが解釈したのは、その言葉だけだった。

 どん、と相手から腹部を打突だとつされる意味も―――その、離れていくにぎこぶしから解放され、イヅェンのわき腹を刺突しとつしたままでいる刃物にも。わけが分からなかった。

 だからこの痛みが、悪夢のような激痛なのか、激痛を生む悪夢なのかさえ、分かったものではない。信じられないのに、疑うべくもない―――賢いまでに愚かしい……紅蓮ぐれんごとつばさ頭衣とういが、裏切られ、深手を負い、ひざを折って床に羽をき散らした、この眼界がんかい。目もあやなるかな、この世界。それは地獄じごく。ならば天国。これぞ煉獄れんごく。なれど現世げんせ。あらば楽園らくえん。なしや失楽園しつらくえん。まほろば。玉響たまゆら永遠とわ。されど。

 さもあらば続く―――しかあれど、続く。始まってしまっていた……知っていたのに、そのことは。それなのに―――それならば……

「こ、れ、は、―――」

 しゃきり。しゃきり。しゃきり。血染めになりゆく羽毛に包まれながら、鼓膜こまく福音ふくいんがもうひと回り、混沌こんとん渦巻うずまかせる。朦朧もうろうめく、その中から……声が聞こえる―――こうまでにも……聞こえ続ける……

 おいで。

 おいで。

 こちらに、おいで。

真正しんせいに前後不覚でいてもらう。どうせ死なん」

 呼び声の渦中かちゅうから、そう吐き捨てられるより先に。イヅェンが悟ってしまったことがある。

 絶望して、彼は眠った。

「お、の、れ、は―――とうに、招かれて……」

 ―――ここは楽園の中。
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