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結章
結章 第三部 第五節
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「―――ティエゲ」
「うん。確かに誰か今、積算に触れた。と思う」
受け答えするついでではなかったが。進んでいく方向を無作為に定めるのも抜け作なので、きょうだい―――義理だが―――ふたりして立ち止まる。
デューバンザンガイツである。ざっくりと様子見するだけのつもりで隣接地へ身を隠すこと一刻足らず、あれよあれよと妙な騒動が城内で膨れ上がるまま正門まで開け放たれる事態まで起爆してくれたチャンスを逃さず、騒ぎと正門を底辺に三角形を作る頂点近辺のポイントから、ティエゲと共に侵入した。もちろん見張りは巡回しているとはいえ、手薄になっている夜勤……しかも警笛まで鳴らされてのふってわいた糾合をかまされた直後とあっては、そぞろ歩きの昧な与太郎の目を盗むなど、プロパーの練成魔士の手にかかれば軽業と言うのもおこがましい。とは言え「ま。失敗したら腸どころか左葉くらい持ってかれちゃうだろうけど、肝臓って回復力抜群だから。統計的にも三万回か四万回に一度だし」とかティエゲに前置きしたのも事実ではあったが、ひとまずは次手空間転移―――重力制御ならびに移動の術式を極限まで究めたもので、言ってみれば目に見えないレベルの高速ひとっとび―――から着地に係る制御の魔術まで成功してくれた。舌を巻くまいとして突っかかる隙を探す とんがり眼になったティエゲに振り返ることもなく、彼が魔神を封印しかけたのが……いわば、その時だったのだが。
革命の折にキルルから微に入り細に入り間取りや構造の聴取を済ませていたものの、城だと聞いていたので隠密行動に役立つ屋敷林のひとつでもあるだろうと思い込んでいた―――のだが、単なる入り込んだ場所のせいか、それとも王冠に苔を生やしておくわけがないのか、そういった彩りは全くない。石畳と、石壁と……石だからこそ施された象眼と。頭の中に展開した城の設計図と現実の重合を試して、どうやら政務に関連した区画と推測づけるのが妥当だろうとの結論が腑に落ちて―――だからこそ、夜間は無人で疑いないということか。あたりの野外には行燈や篝火のような設備もなく、建物に開けられている窓らしき黒穴からさえ行きずりの提灯灯りのひとつも漏れてこない―――それを指差して火の玉だ怨霊だと嘯く楽しみすらもない、つまらない外回廊だ。建材は、凍蜜岩だと言う。おかげでジュサプブロスを解放している宝石の発光が千獣王の脈模様に反射するたび、紅色を帯びた襞のようなきらめきに目先をちらつかれて、かなわない―――額からひと巻きにした革紐に編み込むようにして左耳の裏あたりに宝石は結わえてあるのだから、そこに込められた鬼火を直視できたはずもないが、それでも八つ当たりまぎれに目に角を立てる。
と。
「メッザワりキッザワりミッミザワり~ざわざわサワり~ハダザワり~ハザワり飾り茶話さわり~日常茶飯事茶番メシ~♪」
「デュアセラズロ、ほんとにコイツ‘子爵’? うざっ」
「うざってウザったこのチビ! ねーねーゼラぁこいつ俺のことウザってウザリングしたうざり! うじゃウィー!」
「チビたぁ聞き捨てなんないわねー! デュアセラズロとおんなじくらいなんだから、もろとも貶してくれちゃったんだかんねアンタ今!」
「ゼラはあの身の丈&面構えだからこそ発揮してくれる本領があるから望むところウザリ!」
「ほんりょお? そんな秘密基地で何すんの?」
「ネオな感じの扉に開ひらけゴマかけるでしょ、エレガントなボンバーイェイだったから念力で頭ナデナデするでしょ、あと……」
「なにそれ!? そのものからしてイミフだけど、指折り数える件数ってのも何事!? 聞くだに地雷原じゃん! 踏み込まない踏み込まない! しっしっ! そのままそっと蓋して発禁しときんしゃい!」
「馬鹿ばぁぁあっか! 秘めてあるぞーって言いふらしとくからこその秘密基地の真価なのに、ぜーんぶ頭隠して尻まで隠す奴あるかーい! カラからっぽの空箱だって、宝の地図に描かれた洞窟の奥で古臭そうに錠前サビつかせて鎮座ましましとしてりゃあオープンするまでは宝箱ウザリ!」
「うざっ! ウザリングうざっ!」
ぎゃあぎゃあと素地でコントを始めた連中は、わきからのひと睨みで大目玉を食らわせてやることで静粛を強いて。とりあえずは。
考え込みがてらとばかり、ティエゲが分かりやすい思案顔からむうと唇をとんがらせた。こちらの真横で、すべらかな横顔に似合わない縦皺を眉根の間へ寄せ上げて、年長者らしく意見を譲ってみせる―――少しでも悪目立ちするのを避けるべく、嫡流らしさを抜いた口ぶりで。
「……そりゃまあ確かに、練成魔士の一人くらいガーディアンしてくれてたってイイ場所なんだけどさ」
「あっちの妙な乱痴気騒ぎの鎮圧に駆り出されたのかな?」
「だったら出しっぱにしとくんでない? 魔神」
と。そこでティエゲは横ざまに、両手を口の前でバッテンじるしに重ねてふくれっ面を隠しているジュサプブロスをぴっと人差し指で示してから、半眼ついでに付け足してきた。
「こんなのじゃない限りは」
「だね」
「だねってだねったゼラの裏切り者ー! 裏も表も影もかたちも裏切りのゼラのモノぉー!」
「「うざり」」
きょうだい同時に言い澄まして、地団駄を踏みながらおいおいと泣き真似しだしたジュサプブロスは放っておくにせよ。
ひとまずは、ある材料から分析を進めて、同時進行的にそれを口にする。
「魔神を召喚して、魔術を使った―――か、術を編む手順だけ確認して封緘し直した。となると、そこに向かうのが手っ取り早いか。城のあのあたり、三階層目だったね。行こう」
「え?」
「この時間帯・この場所・この場合で練成魔士として動き出す輩なんて、公務にしたって表舞台で役者を張らない黒子役に決まってる。対人殺傷能力傭員、医療関係者、諜報部……」
目をぱちくりさせたティエゲへと、城の上階から双眸をすべらせつつ、間髪いれず畳み掛けていく。鈍麻な呑み込みを介抱する役回りは、相手が寝たきり患者の口だろうが凡骨の頭だろうが当然のように自分へ回されてくるのが常とはいえ、お鉢を放り出して割った後片付けを考えると余念なく解説するくらいは億劫でもない。
「どの役割であれ、裏方なら裏事情であるほど精通してるはず。後継第一階梯の居場所を吐かせる」
「どうかなあ。吐かないとか。知らないとか」
「こんな山崩し遊びの砂山みたく街を積み木した、海のものとも山のものともつかない臥龍窟―――かどうかすら皆目見当つかずさ―――、虱潰しに探し回って手当たり次第に通行人を締め上げるより、僕の仮説を当てにした方が時間的にも労作的にも採算が取れる。でしょう?」
のらりくらりとしたティエゲの懸念を振り切るように口数を増やして、今一度彼女へと手を差し出した。不承不承そうに握り返してくるその手から巻き込むように重力制御の魔術の構成を織り成し―――瞬時に、発動させる。
「君は息―――口遊む息、編み紡ぐ歌星まで渡る」
そして、タイミングを合わせて地面を蹴り離した。ジュサプブロスも、数珠繋ぎに地を離れる。
内臓の重さを忘れるような分秒もかからず、目指していた王冠城の窓に飛び込めるだろう。そう暗算を終えていた隙に、
「なんちゅーか。アンタみたいな理詰めの論理クンから、錆びた雲色の髪なんてポエマーな代名詞、よくポン出てくるもんだわーって思った」
「そのティエゲの思い付きも、ポン出てくるアバンギャルド具合については同レベルなんじゃないの」
前触れなく話しかけられたことはともかく、言い返したなりに注意力を割いたせいで魔術の構成が やや ぶれた。そのゆがみを持ち直して、続ける。
「違うんだ。実のところ、あれは人からの受け売り。そう呼んでたのを知ってたから、訊きかれた時に咄嗟とっさに出ちゃって―――シザジアフ、ごめん。あの時ほんっとに悪かった」
「え? 最後らへんナニごにょってんの?」
「子どもなりに爪楊枝作る手伝いでもしとく腹積もりなんだろうと見積もっちゃって、これでいっかってあのナイフ渡したの僕なんだよねえ……手入れしてなさそーはしてなさそーだったけど、まさか破傷風起こすなんて。しょうがないよねえ治療のためなんだから、かびカビでろりんちょのグロ紫パテをわんこ蕎麦するのもさ。こんなド田舎じゃあれから成分抽出して精製するなんて無理だったって。多分。しょうがないでしょう。君が寝込んだからイェンラズハが子守りに鼻面を引き回されっぱなしになったところに、もう薬で病気が治るなんて見飽きたとかピカイチの ご無体をジンジルデッデが……」
「グロむらさき?」
「色にもましてグロかったなあ……シザジアフ。でもきっと紫色もしてた。赤青どころか黒紫までいった。きっといった。前人未到のフルコンプだよこれは。すごいねシザジアフ。死線の上をウルトラCだ」
遠い目になりながらぶつぶつと悔悟を口にしていると、それを無視して相手は話題を続投してきた。
「錆びた雲なんて、あだ名にしてはコケにする要素無くてキショいわー。普通なら、青菌ネズミとかじゃない?」
「きんねず」
ずけずけとした物言いに、閉口しかけたが。ティエゲはあっけらかんと疑問視しているだけのようで、ふわついた白髪混じりの己の髪が月光に混ざるのをオーロラでも見つけたかのように眦で追いかけている、その幼気に邪気はない。彼女のあどけなさに連れ出された心地で……つられるように、あけすけに吐露してしまう。
「シザジアフのことを、尊敬どころか崇拝していたからね……彼は」
「えー? しゅーきょー?」
「かもね。ひとりだけの」
「おっかしいじゃん」
「僕らだから他覚なりにそう言えるとしても、彼の自覚的には世界すべての方が狂っているんだろう」
「お前それガチ変態って言ったげなよー。友達なら」
「友達なら―――そうだね。また違っていたかも……知れないよね」
そして、目指していた窓枠に身を寄せたはずみで、ふたり揃って無駄口を取りこぼした。
「告げる封緘を受け入れるは汝、‘子爵’ジュサプブロス」
今度こそ魔神を手短に宝石へと隔離―――「ぷぷっぴどぅ~」とか言いながら片手の親指を小鼻にくっつけて残りの四本指をひらつかせていた―――して、そこから穴の奥を観察する……左右の二本指を引っ掛けた口角から歯茎を剥いていたティエゲが、魔神への鬱憤晴らしがてらこちらにベロまで突き出してきたが、それはシカトすることにして。
さすがは国の威信を背負っての建築だけあって、ティエゲ―――いない・いない・ばあ顔をやっと解いてくれた―――と肩を並べて乗り移っても充分な足場が残るくらいに壁の厚みがある。どうやら、通風孔か採光穴のようだ……少なくとも、沸騰させた油を曲者にぶっかけるような仕込みはされていない。匍匐前進していくような長さでもなさそうだと目算できるが、それでも四角い土管を横倒しにしたような場所の移動にはその体勢が最も適しているだろう。眼球の仕草で先に行くことを示して、真っ暗な横穴に身を伏せると、躄るように進んでいく。
そうなると、これもまたよくあることだったが。
「確かに前攻はデュアセラズロのポジションだけど、ボトムス越しとはいえ、おっさんの尻とか拝みたくなーい」
うしろから不意に追い抜いてくれた不平が不公平だったので、さすがに口を衝いてしまう。つい。うっかりと。
「なにか来るなら前からなのに、僕が後ろにいたらティエゲはどう逃げるの?」
そして彼女の急所までも突いてしまったと、気が付いた時には遅かった。通路に使った穴が、終わる。到着した。
廊下だ……各役所の親玉として、親玉らしい容積と、親玉に似つかわしい不愛想な廊下だ。壁が柱として機能しているのだろう。そういった石柱どころか、花を生けた花瓶も無ければ、花の水を取り替える使用人といった人影も無く―――こんな刻限にそんな作業に耽る者を使用人と表現していいものかどうかはさて置くにせよ―――、敢えて言うなら生きものがいる気配すら毛筋ひとつ感じない、不愛想な長方形の空洞だ。やはりこの穴は明り取りなのか、ぽつぽつと外から入り込んだ月光が あちこちの石畳に水たまりのように溜まっている。魔術で光球を生み出さずとも済みそうだ。
足元まで、意識を転ずる。ここから床までの距離は、下手をすれば足首の捻挫で済まされないくらいには開いていたものの、身体を反転させて両手を穴の縁に掛けることによってぶら下がれば、相当にリスクは軽減される。これもまた魔術を使うほど大それたことでもない。
行動の障害物となりうるものもなさそうだったので、思い描いた計画通りに動こうとした……少なくとも、しゃがみ込んだ体勢でくるりと身を返した、その時までは。
そして、その時。すかさず穴の中から、胡坐に猫背を屈めた仏頂面のティエゲに、ドタマを掴まれてしまう。両手で挟み込むように、がっしりと―――だけでなく、ぐりぐりと撫でさすってきた。ぐりぐりと……ゴミ箱に捨てられていた仔犬でも盥に突っ込んで水洗の刑に処するかのように、それはもうぐりんぐりんと。摩擦熱で頭皮を焦がそうと、頭の悪い企みでも考えているような執拗さで。
「姉孝行な弟を持って幸せだわよこのティエゲちゃんは。よーしヨシよしヨシ。どーれどれどれ。わっしゃわしゃわしゃわしゃ。変ねー。つかないわ。火」
「うわ輪をかけて頭ワル」
思わず零してしまった感想が、自分の身の振りを決めた。ティエゲによって、万力を込められた勢いのまま、べしっと横手へ頭蓋骨を投げ出される。
壁に側頭をバウンドさせるような悲劇の連投こそなかったものの、彼女の指に絡まってしまった癖っ毛を何本か毛根ごと持っていかれたらしい。痛む旋毛に片手をやりつつ、目蓋を半分より下までおろして、非難の目と抗弁をティエゲにちくりと向ける。
「あのさ。痛い」
「ちちんぷいぷい~♪ いたいのイタいの、トンデモげぇ~♪」
「本当に痛みがトンデモ気まで飛び級しそうだから、気軽に呪うのやめてくれない?」
「違ゃうわーい。ちゃうちゃう違ゃうんちゃうわーい。痛みごと、もげて飛んでけって意味よー」
「どの人体パーツであれ大惨事割り増しだね。それ」
「あんたね。ヘッポコのポンコツなんだから来なきゃよかったのにとか思ったでしょ。今」
言いがかりではあったが、言い返すほど見当違いのことでもなく、肩を落としてやりすごす。となるとティエゲは図星を差した興奮に怒りを倍加させてくるのだが、これもまたいつものことだ。こちら目掛けて一本指をスイングさせながら、もう片手を腰に、大上段から大風を吹かせてくる。
「ふてぶてしいにしたって、その態度は体罰モンだっつーの。あんたみたいな図に乗るにしたって頭が高いカラス天狗、足元すくわれて孤高からスッテンコロリンしたが最後、豆腐の角に頭ごっつんこした程度でマジおっ死ぬに決まってんじゃん。寝覚め悪いから、おネンネ前に夢見るくらい、しゃーなしに付き合ったげてんでしょー」
「じゃあせめてベッドメイクくらいしてきた?」
「ダボ言いなさんな。どーせブッ倒れたら大なり小なり汚れるんだから、いちいちピカピカにしとくだけ手間暇が損ってなもんっしょ?」
「……そこまで自分の器に後ろ向きの太鼓判押した上での無理なら、もう僕も助言も皮肉も言わないよ」
「けけけ。ぐうの音も出ないの間違いでないのー?」
きゃらきゃらと笑ってまで一点張りの強がりをめげさせない彼女から諦観面を背けて、中断していた計画を再開した。
穴から降りて、へりに両腕の力だけで吊り下がる風にしてから、懸垂をやめる。半秒となく、靴底がぽとりと雨垂れのような物音を踏んだが―――強いて変化を述べるなら、床に立っても、それだけだ。
その場から立ち退いて、自分と同じ工程で降りてくるティエゲを見る―――見守る。
(所要時間も作業量も―――最小で、済ませる)
またひとつ塗り重ねた言葉をなぞるように、彼は自身の胸骨に触れさせていた片手を下げた。
穴からぶらさがっているティエゲには、自重負けした腕が震えるような外見的な虚弱さもありはしないし、重圧負けした膝が笑うような内面の弱点もない。ただ彼女の呼吸からにじみ出る余力の薄弱さは、どうしたところで克服されていなかった。体質的な脆弱性は変えられない―――魔神を使いこなそうが、それ相応に訓練を積もうが、生まれ持ったハンディキャップは厳然として存在する。走り込みを訓練すれば走るスピードは増すとしても、骨が折れやすい性質の者から脚線そのものを自壊させていく。それは自然淘汰だ。回避をのぞむなら、負荷を低減する智慧を持つしか方法はない。基礎医学、臨床医学、社会医学……それらをどれだけ修めたところで、いつだってその終点からは抜け出せなかった。デュアセラズロと呼ばれていた頃から―――ゼラ・イェスカザを遂げた今でも。今となっても、彼女は変わらない。
床へと降り立ったティエゲが、またしても同じくらいの視座に並んだ。途端、
「……なぁによ。ぼけっとガンくれちゃって」
「―――いや。なんとなく、ピトとツーイーは元気かなって」
「輓近知らないけど、どっちみち元気でしょ。生きてるんなら猫又だし、死んでるんならあの世なんだから。どーせシューキルピーなら、夜泣きしてる揺り籠から墓場で胸元に聖印切り終わるまで、石頭なりの面倒見貫徹してくれてるっつの。見るまでも無く、ねこじゃらし振ってくれるモーションだってメトロノームよ。四角四面にしたってカタブツ。つまんなっ」
「そんな没個性みたいに。それこそ、彼なりに、彼らしい……ただ、それだけのことじゃない。でしょう?」
「愚直なのよ」
「まっすぐなのにかわりはない」
「げぇー。いちいちゲェつくわー。褒めてくれる先生もいないのに点取り屋」
「て言うか。裏表なく、だからこその表裏だよ」
「紙一重だって?」
「そう噛みつかないでくれないかなあ。馬鹿も天才も無関係に、僕だって彼に恨み言のひとつくらいありはするさ。この指輪に慣れない頃は、いじって外そうとする都度こっぴどく叱られた。この輪は、もとをただせばふもだし、ほだし―――家畜を繋ぎとめるべく在る縄・轡、飼い殺しにされる自覚に甘んじるなりに定位置を乱すな、と」
「あほくさ。真面目くさった言葉遊びが回り回って大膨れしてやんの。縁あって授かった絆なんだから大事にしとけって言って済ませりゃいいものを、照れクサがんのすら手ぇ焼けるわー。火傷よヤケド。なにしてくれんの火達磨」
「だったら手出ししなければ?」
「出すわよー。手だし。出るでしょ。どうせ。なんで?」
「……そうだね」
「まあいいけど。別に。どーせシューキルピーだし。捨てられたもんじゃないし、捨てたもんでもないっしょ。この指輪みたく。しょうがなしに生きるなら湧いてくるシミ。どこまであるかわからない人生のアクセント。未知数の知。無数のひとつ。数式の解。夜空の星。生える白髪。隙間を生め、すげ替わる白。どう? 見て見て」
「―――綺麗かも。だね」
手袋越しで、実際には見えずとも。ティエゲと目引き鼻引きに、右手の中指にある夜欠銀の指円環を示し合って相槌あいづちを共有し、ふたりして壁沿いに歩き出した。
それから、やや小走りまで歩速を上げて……先程、積算が触れられたところまで、第六感じみた感覚を追っていく。使い込んだ秒の数が、分の数へと変転し―――またしても単位を化かさないか祈ろうかと、気の迷いが生じかけた頃だった。
「見えない糸を追っかけてるみたいよね。これってさ。練成魔士じゃなかったら、運命の糸とか言ってくれるんじゃない?」
左肩の裏から、相変わらずティエゲが減らず口を叩いてきた。これっぽっちも人の気配がしないため、警戒するのに飽きが差すのも早いようだ。
目を振り返らせてそれを叱責するのだが、彼女は合いの手を歓迎するような上機嫌さで、軽快なウインクを投げてくる。軽口までも再開された。
「思えばあたしも、これのおかげでデュアセラズロのこと見つけちゃったもんねー。糸にしたって、赤色じゃなくて良かったわよー。あんたみたいな髪の毛どころか性根までねじくれた年下男子、悪趣味にしたってまっぴら御免の願い下げだし」
今更、頭にくる貶し文句でもないにせよ。そのままこちらへの言いがかりに波及されては長くなるので、邪険にしない程度に梃入れしてみる。
「どうして赤色じゃないって分かるの? 見えないのに」
「どーしたって分かんの。ハートよハート、ハートに来んの。ぴぴっとね」
「いい歳こいて初恋みたいな」
「イイ歳こかなきゃ初恋なんて嘯けないっつーのよ」
「しかも、したことあるみたいに」
「ハツコイ? したした。アレね。三百二十年くらい前だけど、マジ甘じょっからく粘っこい。メケケけけけ、まったりとしつこくコクの無くなるまで臭味の一抹すら のこさず味わい尽してくれようぞ若人どもめぇ~。ベーロベーロ、べろりんちょ~」
「それは僕の言う初恋とは同音異義にしても不吉な予感しかないアンタッチャブルなハツコイだと思うから、とりあえず悪魔祓いしておくことをお勧めするよ」
「お見逸れしてくれちゃってー。その初恋もどのハツコイも、どっちだろーが同じよ同じ。若造ら本人からしたら制御も支配も行き届かない恥部。がきんちょの寝小便と同質。そこへの思い入れが真剣なほど、嘘めかさないとタッチも出来ない禁忌の領域じゃん。言ってみれば、そこを恥部なりにチラ見してキャーキャー馬鹿騒ぎしてるのが楽しいなら思春期で、馬鹿らしくもそうしてた滑稽な恥ずかしさに後ろめたく黒歴史を揉み消そうと躍起に謳歌してくれるのが青春で、一連の春に蹴りをつけるのが青年。こちとら、酸いも甘いも噛み分けて青くなくなればなくなるほど無敵よー。あたしに数え歌を棒読みで朗読されたら、あのアーギルシャイアだって赤面ゴロつかせてのたうち決定でしょ。こてんぱんにノしてやれるわ あたし。征服できるわ世界。そのうち」
「…………」
想像もつかないし、想像することでもないのだが、なんとなく黙り込む。
そうして思い返してしまえば、胸の内に素描できる顔があったとしても、問いかけるには遅すぎた……当時は、そういった差し金を挟むことすら思い付きはしなかった。なので、無言のまま投げかける―――侵行方向へ向き直ると壁から床までを一面に埋め尽くしてくれている、その石組みの白色に、行きずりの走り書きを残すように。無目的にも……無意味な悪戯書きでも。
(例えそうされたところで、赤面ゴロつかせてのたうつなんてことは、君なら今でもしないだろう。おかしいな。だとしたら―――完璧なことに、君こそが、失われた超人じゃないか……)
そして、出くわした丁字路を左に曲がった。その瞬間。
脳裏にあった面影は、記憶の中から現世へと現出した。
互いに、ひと目見ただけで、すべてを自ずから理解した。悟った。感じた。感極まった。ひと目惚れのように。
「ゼラ・デュアセラズロ・アーギルシャイア・イェスカザ・アブフ・ヒルビリ!!」
「ジルザキア・ヴァシャージャー ―――アーギルシャイア!!」
互換する、雄叫び。
それは、鉄槌。破滅か再生か……極【わか】らずとも、くだされた鉄槌。名を呼び交しただけにしてはあまりにも共鳴し―――こたえあっただけにとどまることなく、どこまでも劈いた、なれの果て。呼応し、共振し、響きが報い合った最果てにて、罅を入れる。そのように、巨人だから世界を凌轢し、轢断されゆく【世】【界】は すげ替わる。
とどのつまり、その罅までも現出した。
そのような、殺し合いが始まった。
「うん。確かに誰か今、積算に触れた。と思う」
受け答えするついでではなかったが。進んでいく方向を無作為に定めるのも抜け作なので、きょうだい―――義理だが―――ふたりして立ち止まる。
デューバンザンガイツである。ざっくりと様子見するだけのつもりで隣接地へ身を隠すこと一刻足らず、あれよあれよと妙な騒動が城内で膨れ上がるまま正門まで開け放たれる事態まで起爆してくれたチャンスを逃さず、騒ぎと正門を底辺に三角形を作る頂点近辺のポイントから、ティエゲと共に侵入した。もちろん見張りは巡回しているとはいえ、手薄になっている夜勤……しかも警笛まで鳴らされてのふってわいた糾合をかまされた直後とあっては、そぞろ歩きの昧な与太郎の目を盗むなど、プロパーの練成魔士の手にかかれば軽業と言うのもおこがましい。とは言え「ま。失敗したら腸どころか左葉くらい持ってかれちゃうだろうけど、肝臓って回復力抜群だから。統計的にも三万回か四万回に一度だし」とかティエゲに前置きしたのも事実ではあったが、ひとまずは次手空間転移―――重力制御ならびに移動の術式を極限まで究めたもので、言ってみれば目に見えないレベルの高速ひとっとび―――から着地に係る制御の魔術まで成功してくれた。舌を巻くまいとして突っかかる隙を探す とんがり眼になったティエゲに振り返ることもなく、彼が魔神を封印しかけたのが……いわば、その時だったのだが。
革命の折にキルルから微に入り細に入り間取りや構造の聴取を済ませていたものの、城だと聞いていたので隠密行動に役立つ屋敷林のひとつでもあるだろうと思い込んでいた―――のだが、単なる入り込んだ場所のせいか、それとも王冠に苔を生やしておくわけがないのか、そういった彩りは全くない。石畳と、石壁と……石だからこそ施された象眼と。頭の中に展開した城の設計図と現実の重合を試して、どうやら政務に関連した区画と推測づけるのが妥当だろうとの結論が腑に落ちて―――だからこそ、夜間は無人で疑いないということか。あたりの野外には行燈や篝火のような設備もなく、建物に開けられている窓らしき黒穴からさえ行きずりの提灯灯りのひとつも漏れてこない―――それを指差して火の玉だ怨霊だと嘯く楽しみすらもない、つまらない外回廊だ。建材は、凍蜜岩だと言う。おかげでジュサプブロスを解放している宝石の発光が千獣王の脈模様に反射するたび、紅色を帯びた襞のようなきらめきに目先をちらつかれて、かなわない―――額からひと巻きにした革紐に編み込むようにして左耳の裏あたりに宝石は結わえてあるのだから、そこに込められた鬼火を直視できたはずもないが、それでも八つ当たりまぎれに目に角を立てる。
と。
「メッザワりキッザワりミッミザワり~ざわざわサワり~ハダザワり~ハザワり飾り茶話さわり~日常茶飯事茶番メシ~♪」
「デュアセラズロ、ほんとにコイツ‘子爵’? うざっ」
「うざってウザったこのチビ! ねーねーゼラぁこいつ俺のことウザってウザリングしたうざり! うじゃウィー!」
「チビたぁ聞き捨てなんないわねー! デュアセラズロとおんなじくらいなんだから、もろとも貶してくれちゃったんだかんねアンタ今!」
「ゼラはあの身の丈&面構えだからこそ発揮してくれる本領があるから望むところウザリ!」
「ほんりょお? そんな秘密基地で何すんの?」
「ネオな感じの扉に開ひらけゴマかけるでしょ、エレガントなボンバーイェイだったから念力で頭ナデナデするでしょ、あと……」
「なにそれ!? そのものからしてイミフだけど、指折り数える件数ってのも何事!? 聞くだに地雷原じゃん! 踏み込まない踏み込まない! しっしっ! そのままそっと蓋して発禁しときんしゃい!」
「馬鹿ばぁぁあっか! 秘めてあるぞーって言いふらしとくからこその秘密基地の真価なのに、ぜーんぶ頭隠して尻まで隠す奴あるかーい! カラからっぽの空箱だって、宝の地図に描かれた洞窟の奥で古臭そうに錠前サビつかせて鎮座ましましとしてりゃあオープンするまでは宝箱ウザリ!」
「うざっ! ウザリングうざっ!」
ぎゃあぎゃあと素地でコントを始めた連中は、わきからのひと睨みで大目玉を食らわせてやることで静粛を強いて。とりあえずは。
考え込みがてらとばかり、ティエゲが分かりやすい思案顔からむうと唇をとんがらせた。こちらの真横で、すべらかな横顔に似合わない縦皺を眉根の間へ寄せ上げて、年長者らしく意見を譲ってみせる―――少しでも悪目立ちするのを避けるべく、嫡流らしさを抜いた口ぶりで。
「……そりゃまあ確かに、練成魔士の一人くらいガーディアンしてくれてたってイイ場所なんだけどさ」
「あっちの妙な乱痴気騒ぎの鎮圧に駆り出されたのかな?」
「だったら出しっぱにしとくんでない? 魔神」
と。そこでティエゲは横ざまに、両手を口の前でバッテンじるしに重ねてふくれっ面を隠しているジュサプブロスをぴっと人差し指で示してから、半眼ついでに付け足してきた。
「こんなのじゃない限りは」
「だね」
「だねってだねったゼラの裏切り者ー! 裏も表も影もかたちも裏切りのゼラのモノぉー!」
「「うざり」」
きょうだい同時に言い澄まして、地団駄を踏みながらおいおいと泣き真似しだしたジュサプブロスは放っておくにせよ。
ひとまずは、ある材料から分析を進めて、同時進行的にそれを口にする。
「魔神を召喚して、魔術を使った―――か、術を編む手順だけ確認して封緘し直した。となると、そこに向かうのが手っ取り早いか。城のあのあたり、三階層目だったね。行こう」
「え?」
「この時間帯・この場所・この場合で練成魔士として動き出す輩なんて、公務にしたって表舞台で役者を張らない黒子役に決まってる。対人殺傷能力傭員、医療関係者、諜報部……」
目をぱちくりさせたティエゲへと、城の上階から双眸をすべらせつつ、間髪いれず畳み掛けていく。鈍麻な呑み込みを介抱する役回りは、相手が寝たきり患者の口だろうが凡骨の頭だろうが当然のように自分へ回されてくるのが常とはいえ、お鉢を放り出して割った後片付けを考えると余念なく解説するくらいは億劫でもない。
「どの役割であれ、裏方なら裏事情であるほど精通してるはず。後継第一階梯の居場所を吐かせる」
「どうかなあ。吐かないとか。知らないとか」
「こんな山崩し遊びの砂山みたく街を積み木した、海のものとも山のものともつかない臥龍窟―――かどうかすら皆目見当つかずさ―――、虱潰しに探し回って手当たり次第に通行人を締め上げるより、僕の仮説を当てにした方が時間的にも労作的にも採算が取れる。でしょう?」
のらりくらりとしたティエゲの懸念を振り切るように口数を増やして、今一度彼女へと手を差し出した。不承不承そうに握り返してくるその手から巻き込むように重力制御の魔術の構成を織り成し―――瞬時に、発動させる。
「君は息―――口遊む息、編み紡ぐ歌星まで渡る」
そして、タイミングを合わせて地面を蹴り離した。ジュサプブロスも、数珠繋ぎに地を離れる。
内臓の重さを忘れるような分秒もかからず、目指していた王冠城の窓に飛び込めるだろう。そう暗算を終えていた隙に、
「なんちゅーか。アンタみたいな理詰めの論理クンから、錆びた雲色の髪なんてポエマーな代名詞、よくポン出てくるもんだわーって思った」
「そのティエゲの思い付きも、ポン出てくるアバンギャルド具合については同レベルなんじゃないの」
前触れなく話しかけられたことはともかく、言い返したなりに注意力を割いたせいで魔術の構成が やや ぶれた。そのゆがみを持ち直して、続ける。
「違うんだ。実のところ、あれは人からの受け売り。そう呼んでたのを知ってたから、訊きかれた時に咄嗟とっさに出ちゃって―――シザジアフ、ごめん。あの時ほんっとに悪かった」
「え? 最後らへんナニごにょってんの?」
「子どもなりに爪楊枝作る手伝いでもしとく腹積もりなんだろうと見積もっちゃって、これでいっかってあのナイフ渡したの僕なんだよねえ……手入れしてなさそーはしてなさそーだったけど、まさか破傷風起こすなんて。しょうがないよねえ治療のためなんだから、かびカビでろりんちょのグロ紫パテをわんこ蕎麦するのもさ。こんなド田舎じゃあれから成分抽出して精製するなんて無理だったって。多分。しょうがないでしょう。君が寝込んだからイェンラズハが子守りに鼻面を引き回されっぱなしになったところに、もう薬で病気が治るなんて見飽きたとかピカイチの ご無体をジンジルデッデが……」
「グロむらさき?」
「色にもましてグロかったなあ……シザジアフ。でもきっと紫色もしてた。赤青どころか黒紫までいった。きっといった。前人未到のフルコンプだよこれは。すごいねシザジアフ。死線の上をウルトラCだ」
遠い目になりながらぶつぶつと悔悟を口にしていると、それを無視して相手は話題を続投してきた。
「錆びた雲なんて、あだ名にしてはコケにする要素無くてキショいわー。普通なら、青菌ネズミとかじゃない?」
「きんねず」
ずけずけとした物言いに、閉口しかけたが。ティエゲはあっけらかんと疑問視しているだけのようで、ふわついた白髪混じりの己の髪が月光に混ざるのをオーロラでも見つけたかのように眦で追いかけている、その幼気に邪気はない。彼女のあどけなさに連れ出された心地で……つられるように、あけすけに吐露してしまう。
「シザジアフのことを、尊敬どころか崇拝していたからね……彼は」
「えー? しゅーきょー?」
「かもね。ひとりだけの」
「おっかしいじゃん」
「僕らだから他覚なりにそう言えるとしても、彼の自覚的には世界すべての方が狂っているんだろう」
「お前それガチ変態って言ったげなよー。友達なら」
「友達なら―――そうだね。また違っていたかも……知れないよね」
そして、目指していた窓枠に身を寄せたはずみで、ふたり揃って無駄口を取りこぼした。
「告げる封緘を受け入れるは汝、‘子爵’ジュサプブロス」
今度こそ魔神を手短に宝石へと隔離―――「ぷぷっぴどぅ~」とか言いながら片手の親指を小鼻にくっつけて残りの四本指をひらつかせていた―――して、そこから穴の奥を観察する……左右の二本指を引っ掛けた口角から歯茎を剥いていたティエゲが、魔神への鬱憤晴らしがてらこちらにベロまで突き出してきたが、それはシカトすることにして。
さすがは国の威信を背負っての建築だけあって、ティエゲ―――いない・いない・ばあ顔をやっと解いてくれた―――と肩を並べて乗り移っても充分な足場が残るくらいに壁の厚みがある。どうやら、通風孔か採光穴のようだ……少なくとも、沸騰させた油を曲者にぶっかけるような仕込みはされていない。匍匐前進していくような長さでもなさそうだと目算できるが、それでも四角い土管を横倒しにしたような場所の移動にはその体勢が最も適しているだろう。眼球の仕草で先に行くことを示して、真っ暗な横穴に身を伏せると、躄るように進んでいく。
そうなると、これもまたよくあることだったが。
「確かに前攻はデュアセラズロのポジションだけど、ボトムス越しとはいえ、おっさんの尻とか拝みたくなーい」
うしろから不意に追い抜いてくれた不平が不公平だったので、さすがに口を衝いてしまう。つい。うっかりと。
「なにか来るなら前からなのに、僕が後ろにいたらティエゲはどう逃げるの?」
そして彼女の急所までも突いてしまったと、気が付いた時には遅かった。通路に使った穴が、終わる。到着した。
廊下だ……各役所の親玉として、親玉らしい容積と、親玉に似つかわしい不愛想な廊下だ。壁が柱として機能しているのだろう。そういった石柱どころか、花を生けた花瓶も無ければ、花の水を取り替える使用人といった人影も無く―――こんな刻限にそんな作業に耽る者を使用人と表現していいものかどうかはさて置くにせよ―――、敢えて言うなら生きものがいる気配すら毛筋ひとつ感じない、不愛想な長方形の空洞だ。やはりこの穴は明り取りなのか、ぽつぽつと外から入り込んだ月光が あちこちの石畳に水たまりのように溜まっている。魔術で光球を生み出さずとも済みそうだ。
足元まで、意識を転ずる。ここから床までの距離は、下手をすれば足首の捻挫で済まされないくらいには開いていたものの、身体を反転させて両手を穴の縁に掛けることによってぶら下がれば、相当にリスクは軽減される。これもまた魔術を使うほど大それたことでもない。
行動の障害物となりうるものもなさそうだったので、思い描いた計画通りに動こうとした……少なくとも、しゃがみ込んだ体勢でくるりと身を返した、その時までは。
そして、その時。すかさず穴の中から、胡坐に猫背を屈めた仏頂面のティエゲに、ドタマを掴まれてしまう。両手で挟み込むように、がっしりと―――だけでなく、ぐりぐりと撫でさすってきた。ぐりぐりと……ゴミ箱に捨てられていた仔犬でも盥に突っ込んで水洗の刑に処するかのように、それはもうぐりんぐりんと。摩擦熱で頭皮を焦がそうと、頭の悪い企みでも考えているような執拗さで。
「姉孝行な弟を持って幸せだわよこのティエゲちゃんは。よーしヨシよしヨシ。どーれどれどれ。わっしゃわしゃわしゃわしゃ。変ねー。つかないわ。火」
「うわ輪をかけて頭ワル」
思わず零してしまった感想が、自分の身の振りを決めた。ティエゲによって、万力を込められた勢いのまま、べしっと横手へ頭蓋骨を投げ出される。
壁に側頭をバウンドさせるような悲劇の連投こそなかったものの、彼女の指に絡まってしまった癖っ毛を何本か毛根ごと持っていかれたらしい。痛む旋毛に片手をやりつつ、目蓋を半分より下までおろして、非難の目と抗弁をティエゲにちくりと向ける。
「あのさ。痛い」
「ちちんぷいぷい~♪ いたいのイタいの、トンデモげぇ~♪」
「本当に痛みがトンデモ気まで飛び級しそうだから、気軽に呪うのやめてくれない?」
「違ゃうわーい。ちゃうちゃう違ゃうんちゃうわーい。痛みごと、もげて飛んでけって意味よー」
「どの人体パーツであれ大惨事割り増しだね。それ」
「あんたね。ヘッポコのポンコツなんだから来なきゃよかったのにとか思ったでしょ。今」
言いがかりではあったが、言い返すほど見当違いのことでもなく、肩を落としてやりすごす。となるとティエゲは図星を差した興奮に怒りを倍加させてくるのだが、これもまたいつものことだ。こちら目掛けて一本指をスイングさせながら、もう片手を腰に、大上段から大風を吹かせてくる。
「ふてぶてしいにしたって、その態度は体罰モンだっつーの。あんたみたいな図に乗るにしたって頭が高いカラス天狗、足元すくわれて孤高からスッテンコロリンしたが最後、豆腐の角に頭ごっつんこした程度でマジおっ死ぬに決まってんじゃん。寝覚め悪いから、おネンネ前に夢見るくらい、しゃーなしに付き合ったげてんでしょー」
「じゃあせめてベッドメイクくらいしてきた?」
「ダボ言いなさんな。どーせブッ倒れたら大なり小なり汚れるんだから、いちいちピカピカにしとくだけ手間暇が損ってなもんっしょ?」
「……そこまで自分の器に後ろ向きの太鼓判押した上での無理なら、もう僕も助言も皮肉も言わないよ」
「けけけ。ぐうの音も出ないの間違いでないのー?」
きゃらきゃらと笑ってまで一点張りの強がりをめげさせない彼女から諦観面を背けて、中断していた計画を再開した。
穴から降りて、へりに両腕の力だけで吊り下がる風にしてから、懸垂をやめる。半秒となく、靴底がぽとりと雨垂れのような物音を踏んだが―――強いて変化を述べるなら、床に立っても、それだけだ。
その場から立ち退いて、自分と同じ工程で降りてくるティエゲを見る―――見守る。
(所要時間も作業量も―――最小で、済ませる)
またひとつ塗り重ねた言葉をなぞるように、彼は自身の胸骨に触れさせていた片手を下げた。
穴からぶらさがっているティエゲには、自重負けした腕が震えるような外見的な虚弱さもありはしないし、重圧負けした膝が笑うような内面の弱点もない。ただ彼女の呼吸からにじみ出る余力の薄弱さは、どうしたところで克服されていなかった。体質的な脆弱性は変えられない―――魔神を使いこなそうが、それ相応に訓練を積もうが、生まれ持ったハンディキャップは厳然として存在する。走り込みを訓練すれば走るスピードは増すとしても、骨が折れやすい性質の者から脚線そのものを自壊させていく。それは自然淘汰だ。回避をのぞむなら、負荷を低減する智慧を持つしか方法はない。基礎医学、臨床医学、社会医学……それらをどれだけ修めたところで、いつだってその終点からは抜け出せなかった。デュアセラズロと呼ばれていた頃から―――ゼラ・イェスカザを遂げた今でも。今となっても、彼女は変わらない。
床へと降り立ったティエゲが、またしても同じくらいの視座に並んだ。途端、
「……なぁによ。ぼけっとガンくれちゃって」
「―――いや。なんとなく、ピトとツーイーは元気かなって」
「輓近知らないけど、どっちみち元気でしょ。生きてるんなら猫又だし、死んでるんならあの世なんだから。どーせシューキルピーなら、夜泣きしてる揺り籠から墓場で胸元に聖印切り終わるまで、石頭なりの面倒見貫徹してくれてるっつの。見るまでも無く、ねこじゃらし振ってくれるモーションだってメトロノームよ。四角四面にしたってカタブツ。つまんなっ」
「そんな没個性みたいに。それこそ、彼なりに、彼らしい……ただ、それだけのことじゃない。でしょう?」
「愚直なのよ」
「まっすぐなのにかわりはない」
「げぇー。いちいちゲェつくわー。褒めてくれる先生もいないのに点取り屋」
「て言うか。裏表なく、だからこその表裏だよ」
「紙一重だって?」
「そう噛みつかないでくれないかなあ。馬鹿も天才も無関係に、僕だって彼に恨み言のひとつくらいありはするさ。この指輪に慣れない頃は、いじって外そうとする都度こっぴどく叱られた。この輪は、もとをただせばふもだし、ほだし―――家畜を繋ぎとめるべく在る縄・轡、飼い殺しにされる自覚に甘んじるなりに定位置を乱すな、と」
「あほくさ。真面目くさった言葉遊びが回り回って大膨れしてやんの。縁あって授かった絆なんだから大事にしとけって言って済ませりゃいいものを、照れクサがんのすら手ぇ焼けるわー。火傷よヤケド。なにしてくれんの火達磨」
「だったら手出ししなければ?」
「出すわよー。手だし。出るでしょ。どうせ。なんで?」
「……そうだね」
「まあいいけど。別に。どーせシューキルピーだし。捨てられたもんじゃないし、捨てたもんでもないっしょ。この指輪みたく。しょうがなしに生きるなら湧いてくるシミ。どこまであるかわからない人生のアクセント。未知数の知。無数のひとつ。数式の解。夜空の星。生える白髪。隙間を生め、すげ替わる白。どう? 見て見て」
「―――綺麗かも。だね」
手袋越しで、実際には見えずとも。ティエゲと目引き鼻引きに、右手の中指にある夜欠銀の指円環を示し合って相槌あいづちを共有し、ふたりして壁沿いに歩き出した。
それから、やや小走りまで歩速を上げて……先程、積算が触れられたところまで、第六感じみた感覚を追っていく。使い込んだ秒の数が、分の数へと変転し―――またしても単位を化かさないか祈ろうかと、気の迷いが生じかけた頃だった。
「見えない糸を追っかけてるみたいよね。これってさ。練成魔士じゃなかったら、運命の糸とか言ってくれるんじゃない?」
左肩の裏から、相変わらずティエゲが減らず口を叩いてきた。これっぽっちも人の気配がしないため、警戒するのに飽きが差すのも早いようだ。
目を振り返らせてそれを叱責するのだが、彼女は合いの手を歓迎するような上機嫌さで、軽快なウインクを投げてくる。軽口までも再開された。
「思えばあたしも、これのおかげでデュアセラズロのこと見つけちゃったもんねー。糸にしたって、赤色じゃなくて良かったわよー。あんたみたいな髪の毛どころか性根までねじくれた年下男子、悪趣味にしたってまっぴら御免の願い下げだし」
今更、頭にくる貶し文句でもないにせよ。そのままこちらへの言いがかりに波及されては長くなるので、邪険にしない程度に梃入れしてみる。
「どうして赤色じゃないって分かるの? 見えないのに」
「どーしたって分かんの。ハートよハート、ハートに来んの。ぴぴっとね」
「いい歳こいて初恋みたいな」
「イイ歳こかなきゃ初恋なんて嘯けないっつーのよ」
「しかも、したことあるみたいに」
「ハツコイ? したした。アレね。三百二十年くらい前だけど、マジ甘じょっからく粘っこい。メケケけけけ、まったりとしつこくコクの無くなるまで臭味の一抹すら のこさず味わい尽してくれようぞ若人どもめぇ~。ベーロベーロ、べろりんちょ~」
「それは僕の言う初恋とは同音異義にしても不吉な予感しかないアンタッチャブルなハツコイだと思うから、とりあえず悪魔祓いしておくことをお勧めするよ」
「お見逸れしてくれちゃってー。その初恋もどのハツコイも、どっちだろーが同じよ同じ。若造ら本人からしたら制御も支配も行き届かない恥部。がきんちょの寝小便と同質。そこへの思い入れが真剣なほど、嘘めかさないとタッチも出来ない禁忌の領域じゃん。言ってみれば、そこを恥部なりにチラ見してキャーキャー馬鹿騒ぎしてるのが楽しいなら思春期で、馬鹿らしくもそうしてた滑稽な恥ずかしさに後ろめたく黒歴史を揉み消そうと躍起に謳歌してくれるのが青春で、一連の春に蹴りをつけるのが青年。こちとら、酸いも甘いも噛み分けて青くなくなればなくなるほど無敵よー。あたしに数え歌を棒読みで朗読されたら、あのアーギルシャイアだって赤面ゴロつかせてのたうち決定でしょ。こてんぱんにノしてやれるわ あたし。征服できるわ世界。そのうち」
「…………」
想像もつかないし、想像することでもないのだが、なんとなく黙り込む。
そうして思い返してしまえば、胸の内に素描できる顔があったとしても、問いかけるには遅すぎた……当時は、そういった差し金を挟むことすら思い付きはしなかった。なので、無言のまま投げかける―――侵行方向へ向き直ると壁から床までを一面に埋め尽くしてくれている、その石組みの白色に、行きずりの走り書きを残すように。無目的にも……無意味な悪戯書きでも。
(例えそうされたところで、赤面ゴロつかせてのたうつなんてことは、君なら今でもしないだろう。おかしいな。だとしたら―――完璧なことに、君こそが、失われた超人じゃないか……)
そして、出くわした丁字路を左に曲がった。その瞬間。
脳裏にあった面影は、記憶の中から現世へと現出した。
互いに、ひと目見ただけで、すべてを自ずから理解した。悟った。感じた。感極まった。ひと目惚れのように。
「ゼラ・デュアセラズロ・アーギルシャイア・イェスカザ・アブフ・ヒルビリ!!」
「ジルザキア・ヴァシャージャー ―――アーギルシャイア!!」
互換する、雄叫び。
それは、鉄槌。破滅か再生か……極【わか】らずとも、くだされた鉄槌。名を呼び交しただけにしてはあまりにも共鳴し―――こたえあっただけにとどまることなく、どこまでも劈いた、なれの果て。呼応し、共振し、響きが報い合った最果てにて、罅を入れる。そのように、巨人だから世界を凌轢し、轢断されゆく【世】【界】は すげ替わる。
とどのつまり、その罅までも現出した。
そのような、殺し合いが始まった。
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