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結章
結章 第四部 第一節
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<彼に凝立する聖杯>に来てからの、摩耗しきるまでの日々を覚えている。
今日からここがお前の家だと言われたところで、心身ともに染みついた被虐の時代から脱却できようはずもない。今昔の高低差にどこまでも憔悴し、耗弱し、疲弊していった。貧民窟の瀬戸際にいながら無垢だったがゆえの災難だとでも表現すれば聞こえはいいが、要は負け犬なりにいじましくあることに慣れきっていただけのことだ―――そうされる側であることを、信じて疑いもしていなかっただけのことだ。発奮した腕にねじ伏せられること、こじつけの嘲罵になじられること、……他者の人間性を搾取することでしか己が人間性を優位に保てない下衆の中で、それでも居所を求めるならば折り合うしかなかった。負ける犬なら、誰かしら欲してくれた。たったの、それだけ。
だから、どうすることもできなかった。頭を撫でてくる手も、傷をさすってくれる五指も、ありがとうと伝えてくれた言葉にも、ただただ怯え硬直し、過ぎ去るのを待った果てに倒れた。だけでなく、気絶した。消耗の決定打は空腹だったと聞かされた……決められた時間に食事を摂るという習慣がなかったうえ、悔踏区域外輪ならではの過酷な環境への無自覚が追い打ちをかけた。
「借りてきた猫にしたって餌くらい食うだろうによ」
ザーニーイはそう笑い終えると、頭領として命じた。
「能なしだった自分を甘やかすまま、これからも逃げ道を行く気か。来い。エニイージー。お前が必要だ」
こたえる為に、我が道を選んだ。
居場所に居着くための代償を支払い続けた古い記憶を埋め尽くすように、渾身から旗司誓として双頭三肢の青鴉を支えた。武器の扱いを知り、その扱いを極めるべく身体を鍛え、覚えた暴力の万能感に支配されないよう制御を学んだ。教育を欲し、欲しただけ受けた。法、法理、法則、法規……一に一を足せば二になるように、ひとつふたつと積み重ねて歩き続けた。歩き続ける先にある、頭領の背中を目指していた。
そうなると、いつだってシゾー・イェスカザの姿も目に入るようになってくる。目の毒になるのは時間の問題だった。いつも目障りになった。いつしか目の敵にした。それについてはお互い様だろうくらいにしか思っていなかったし、事実として副頭領は誰だって嫌っているように見えた―――誰にだって好意的なゼラ・イェスカザと、まったくなくらい正逆に。
その義親子の会話を覚えている。正確には、盗み聞きした。ふと、室内から廊下へと隙間風に乗って運ばれてきた―――ただ、それだけで終わった、やりとり。
「見極め一羽どおり、エニイージーは第五部隊へ配属が決まったでしょう。本人も意欲を見せているし、周囲との不協和音も日常的な雑音の範囲内。むしろ波風が立っていない部類じゃありませんか。それを―――なんでまた、放逐しろなどと」
「放逐ではありません。箱庭育ちを生かしての義賊留学でもいいし、遠征経験を積むためのキャラバン護衛でもいい。理由をつけてでも、ザーニーイさんと距離を置かせるべきだと言っている」
「ええ。ただし君としては、放逐してしまいたいのが本心でしょう。違いますか?」
「……エニイージーは危険です」
置かれた一拍。意味深な含み。
「―――あの人を、父親にする」
今では、その深みが分かる。
「いずれお前は、殺意も無いのに人を死なす」
今では―――
「霹靂は死んだ。お前も殺した」
これはなんだ。
「どうして、こうなった……俺は―――どうして」
呻吟して……呻吟し続けて、それでもエニイージーには分からなかった。これがなんなのか、分からなかった―――
馬鹿げている。馬鹿げていた。革命の失敗も、自分が翻る旗を待たせるようになることも、後継第一階梯としてすげ替えられた霹靂が死んだということも。死んだ?
「俺が……殺した?」
愕然と、広げた両手を見下ろす。
変わらず、ひとり檻の中。夜気は冷えるが、座り続けた石の床はむしろ温まっている。部屋の中に燭光はなかった―――ただただ空気穴から差し込んでくる月光が青い。水面よりも冷たく静まり返ったその色調は、四隣の寂寞をも水底の無音のように感じさせた。深瀬に在りながら、蟹のように砂に潜れず、貝のように夢も現も閉め出せず、のこされるままエニイージーはそこにいた。ただただ、両手を見た……
右手。左手。両利きになったのはいつからだったろう。右手の甲には、折檻に火掻き棒を押し付けられた蟹足腫が蚯蚓腫れのように焼き付けられたままでいる。指の腹に浮いた胼胝に馴染むのは、剣よりも槍と手綱の感触。胼胝ができるまで、擦り剥けた皮膚に薬を塗ってくれた頭領。目に浮かぶ、その姿。
―――隠し事から隠してることまで、分かっちまうことばっかりなんだ。本当によ。親分より長く兄貴分やってるとな。
「俺が―――あの人を、殺して……」
耳介に沁みる自分の震え声に、はっと思い出から五感を呼び戻す。
まずは触感。尻に敷く石の硬さ。そして視覚。暗闇を溶かす月光。溶け残された自分―――と、短剣。
短剣。正面―――右手と左手の間で、すべらかな白刃は床板に転がされたままだった。そうあるべくして、翻る旗を待っている。あるいは真逆に、二度と翻ることのない折れた旗のあとを追うのを待っている。旗……
「信じてるって―――言って、信じてた、俺の……旗幟―――?」
分からない。知り尽くしていたはずの一切が分からない。こたえがないのは自分だ。ならば、ここにあるのか。縋る思いで、短剣へと手を伸ばした。
直後だった。
「―――半鐘?」
零れ落ちた呟きさえ轢き潰して、その音響は膨れ上がっていく。音調も……音量も、割れんばかりの轟音へと化けた。
激震を含まされるまま突沸しゆく空気の波紋を追うように、エニイージーが目線を上ずらせた―――その矢先、
「エニイージー! 出ろ!!」
と。
言うが早いか、室内どころか檻の中にまで踏み込んで来る―――その旗司誓にすら現実味がわかず、かぶりを振る。
「出ろ、って。俺は。フィアビルーオ次席……」
「構うか! イコがいないんだ! 手練れの操舵手はひとりだって惜しい!!」
彼―――兄か弟か一見して分からずとも―――フィアビルーオは、格子戸を潜った屈身姿のまま、有り体に急いた様子で呼号を重ねてきた。全力で走ってきたものか提灯も無く、荒らげた肩に巻いてあるネッカチーフを片手で押さえて、もう片手をエニイージーへと伸ばしてくる。短剣に触れ泥んでいた指先を、そのまま強引に持っていかれた。ぐいと、力任せに引かれさえする。
呆然と、尋ねるしかない。
「敵襲―――なんですか?」
「だとしたら最悪の相手だがな……」
彼は舌打ちまじりに、こちらとは反対側へと顔を向けて唾棄をくれた。そして、エニイージーがいまだ短剣へ意識を奪われているのを見咎がめると、振り返らせてきた目角にあけすけな叱咤を挿してみせる。
「どうした。もう要らんだろう、そんなもん。このとおり開きっぱだ。早く来い」
「……は……い」
行くしかない。こうなっては。
廊下に出ると、自分たち以外に人影は皆無だった。定点燈火も落とされている。それは、夜明けまでの常日頃のことなのだが―――
それ以外のすべてが、明らかに異常だった。
階下から吹き散らす大声―――罵声に怒号、叱声と動揺。苛う残喘。戛然たる武具の響き。殺伐とした気配。そして、光……窓からの、明かり。はめ殺しにされた窓の外が、明るい。尋常でないまでに、篝火が焚かれているようだ。思わず、窓辺へ寄る。フィアビルーオも、制止してこなかった。
見えてくるのは、<彼に凝立する聖杯>の前庭グラウンドだ。そこで入り乱れ、集まった旗司誓たち―――数えるまでもなく、まず間違いなく今ここにいる総員だ。めいめいが、反射光を瞬かせる武装を整えながら、混乱めくまま星雲のように動いている。
エニイージーは、集り合うような彼らの先へと、眼差しを伸ばした。前方に見えてくるはずの、旗無しの―――武装犯罪者の、旗の無い群れを確認しようと。旗―――
「―――が、ある?」
それが見えた。
こちらの篝火もさることながら……夜明けの旭日を控えて、僅かずつ薄まりつつある闇の中で、滑翔に羽ばたく翼のように翩翻と広がり、舞い踊る―――その巨大な徽章。
緋と橙で織り成された国旗。
袂には、それを守護する星団のような緋色の国軍。
すなわち、司左翼だった。
今日からここがお前の家だと言われたところで、心身ともに染みついた被虐の時代から脱却できようはずもない。今昔の高低差にどこまでも憔悴し、耗弱し、疲弊していった。貧民窟の瀬戸際にいながら無垢だったがゆえの災難だとでも表現すれば聞こえはいいが、要は負け犬なりにいじましくあることに慣れきっていただけのことだ―――そうされる側であることを、信じて疑いもしていなかっただけのことだ。発奮した腕にねじ伏せられること、こじつけの嘲罵になじられること、……他者の人間性を搾取することでしか己が人間性を優位に保てない下衆の中で、それでも居所を求めるならば折り合うしかなかった。負ける犬なら、誰かしら欲してくれた。たったの、それだけ。
だから、どうすることもできなかった。頭を撫でてくる手も、傷をさすってくれる五指も、ありがとうと伝えてくれた言葉にも、ただただ怯え硬直し、過ぎ去るのを待った果てに倒れた。だけでなく、気絶した。消耗の決定打は空腹だったと聞かされた……決められた時間に食事を摂るという習慣がなかったうえ、悔踏区域外輪ならではの過酷な環境への無自覚が追い打ちをかけた。
「借りてきた猫にしたって餌くらい食うだろうによ」
ザーニーイはそう笑い終えると、頭領として命じた。
「能なしだった自分を甘やかすまま、これからも逃げ道を行く気か。来い。エニイージー。お前が必要だ」
こたえる為に、我が道を選んだ。
居場所に居着くための代償を支払い続けた古い記憶を埋め尽くすように、渾身から旗司誓として双頭三肢の青鴉を支えた。武器の扱いを知り、その扱いを極めるべく身体を鍛え、覚えた暴力の万能感に支配されないよう制御を学んだ。教育を欲し、欲しただけ受けた。法、法理、法則、法規……一に一を足せば二になるように、ひとつふたつと積み重ねて歩き続けた。歩き続ける先にある、頭領の背中を目指していた。
そうなると、いつだってシゾー・イェスカザの姿も目に入るようになってくる。目の毒になるのは時間の問題だった。いつも目障りになった。いつしか目の敵にした。それについてはお互い様だろうくらいにしか思っていなかったし、事実として副頭領は誰だって嫌っているように見えた―――誰にだって好意的なゼラ・イェスカザと、まったくなくらい正逆に。
その義親子の会話を覚えている。正確には、盗み聞きした。ふと、室内から廊下へと隙間風に乗って運ばれてきた―――ただ、それだけで終わった、やりとり。
「見極め一羽どおり、エニイージーは第五部隊へ配属が決まったでしょう。本人も意欲を見せているし、周囲との不協和音も日常的な雑音の範囲内。むしろ波風が立っていない部類じゃありませんか。それを―――なんでまた、放逐しろなどと」
「放逐ではありません。箱庭育ちを生かしての義賊留学でもいいし、遠征経験を積むためのキャラバン護衛でもいい。理由をつけてでも、ザーニーイさんと距離を置かせるべきだと言っている」
「ええ。ただし君としては、放逐してしまいたいのが本心でしょう。違いますか?」
「……エニイージーは危険です」
置かれた一拍。意味深な含み。
「―――あの人を、父親にする」
今では、その深みが分かる。
「いずれお前は、殺意も無いのに人を死なす」
今では―――
「霹靂は死んだ。お前も殺した」
これはなんだ。
「どうして、こうなった……俺は―――どうして」
呻吟して……呻吟し続けて、それでもエニイージーには分からなかった。これがなんなのか、分からなかった―――
馬鹿げている。馬鹿げていた。革命の失敗も、自分が翻る旗を待たせるようになることも、後継第一階梯としてすげ替えられた霹靂が死んだということも。死んだ?
「俺が……殺した?」
愕然と、広げた両手を見下ろす。
変わらず、ひとり檻の中。夜気は冷えるが、座り続けた石の床はむしろ温まっている。部屋の中に燭光はなかった―――ただただ空気穴から差し込んでくる月光が青い。水面よりも冷たく静まり返ったその色調は、四隣の寂寞をも水底の無音のように感じさせた。深瀬に在りながら、蟹のように砂に潜れず、貝のように夢も現も閉め出せず、のこされるままエニイージーはそこにいた。ただただ、両手を見た……
右手。左手。両利きになったのはいつからだったろう。右手の甲には、折檻に火掻き棒を押し付けられた蟹足腫が蚯蚓腫れのように焼き付けられたままでいる。指の腹に浮いた胼胝に馴染むのは、剣よりも槍と手綱の感触。胼胝ができるまで、擦り剥けた皮膚に薬を塗ってくれた頭領。目に浮かぶ、その姿。
―――隠し事から隠してることまで、分かっちまうことばっかりなんだ。本当によ。親分より長く兄貴分やってるとな。
「俺が―――あの人を、殺して……」
耳介に沁みる自分の震え声に、はっと思い出から五感を呼び戻す。
まずは触感。尻に敷く石の硬さ。そして視覚。暗闇を溶かす月光。溶け残された自分―――と、短剣。
短剣。正面―――右手と左手の間で、すべらかな白刃は床板に転がされたままだった。そうあるべくして、翻る旗を待っている。あるいは真逆に、二度と翻ることのない折れた旗のあとを追うのを待っている。旗……
「信じてるって―――言って、信じてた、俺の……旗幟―――?」
分からない。知り尽くしていたはずの一切が分からない。こたえがないのは自分だ。ならば、ここにあるのか。縋る思いで、短剣へと手を伸ばした。
直後だった。
「―――半鐘?」
零れ落ちた呟きさえ轢き潰して、その音響は膨れ上がっていく。音調も……音量も、割れんばかりの轟音へと化けた。
激震を含まされるまま突沸しゆく空気の波紋を追うように、エニイージーが目線を上ずらせた―――その矢先、
「エニイージー! 出ろ!!」
と。
言うが早いか、室内どころか檻の中にまで踏み込んで来る―――その旗司誓にすら現実味がわかず、かぶりを振る。
「出ろ、って。俺は。フィアビルーオ次席……」
「構うか! イコがいないんだ! 手練れの操舵手はひとりだって惜しい!!」
彼―――兄か弟か一見して分からずとも―――フィアビルーオは、格子戸を潜った屈身姿のまま、有り体に急いた様子で呼号を重ねてきた。全力で走ってきたものか提灯も無く、荒らげた肩に巻いてあるネッカチーフを片手で押さえて、もう片手をエニイージーへと伸ばしてくる。短剣に触れ泥んでいた指先を、そのまま強引に持っていかれた。ぐいと、力任せに引かれさえする。
呆然と、尋ねるしかない。
「敵襲―――なんですか?」
「だとしたら最悪の相手だがな……」
彼は舌打ちまじりに、こちらとは反対側へと顔を向けて唾棄をくれた。そして、エニイージーがいまだ短剣へ意識を奪われているのを見咎がめると、振り返らせてきた目角にあけすけな叱咤を挿してみせる。
「どうした。もう要らんだろう、そんなもん。このとおり開きっぱだ。早く来い」
「……は……い」
行くしかない。こうなっては。
廊下に出ると、自分たち以外に人影は皆無だった。定点燈火も落とされている。それは、夜明けまでの常日頃のことなのだが―――
それ以外のすべてが、明らかに異常だった。
階下から吹き散らす大声―――罵声に怒号、叱声と動揺。苛う残喘。戛然たる武具の響き。殺伐とした気配。そして、光……窓からの、明かり。はめ殺しにされた窓の外が、明るい。尋常でないまでに、篝火が焚かれているようだ。思わず、窓辺へ寄る。フィアビルーオも、制止してこなかった。
見えてくるのは、<彼に凝立する聖杯>の前庭グラウンドだ。そこで入り乱れ、集まった旗司誓たち―――数えるまでもなく、まず間違いなく今ここにいる総員だ。めいめいが、反射光を瞬かせる武装を整えながら、混乱めくまま星雲のように動いている。
エニイージーは、集り合うような彼らの先へと、眼差しを伸ばした。前方に見えてくるはずの、旗無しの―――武装犯罪者の、旗の無い群れを確認しようと。旗―――
「―――が、ある?」
それが見えた。
こちらの篝火もさることながら……夜明けの旭日を控えて、僅かずつ薄まりつつある闇の中で、滑翔に羽ばたく翼のように翩翻と広がり、舞い踊る―――その巨大な徽章。
緋と橙で織り成された国旗。
袂には、それを守護する星団のような緋色の国軍。
すなわち、司左翼だった。
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